消された手紙
文字数 8,930文字
大騒ぎする二人に取り残されてしまったサイゴンは、怪訝に眉を寄せて仕方なく酒を呑む。
「意外じゃない? 完全に童貞だと思ってたけど、実は野獣系なのかしら? 手が早いっ!」
「欲望に忠実なだけじゃ……。一目惚れして勇者を攫って来た時点でそうだろ」
「それもそうね」
「しかしまぁ、確かに超絶美少女だけど、幼す」
言いかけたアイセルは、口を噤んだ。そういえば、妹であるマビルはアサギと似たような容姿で、すでに何人もの男と交わっている。寧ろ、確実に自分より経験豊富な百戦錬磨だ。
……見た目で判断はできないか、でも、マビルと違ってアサギ様は清純かつ潔癖な雰囲気に思えるケド。
複雑な表情で低く唸るアイセルの隣で、ホーチミンの妄想が暴走する。
「でも、素敵よね。魔王と勇者、禁断の恋。ああぁん、どこでどうしてどうなって、あぁなったのと思う!? ハイ様のお部屋!? アサギちゃんのお部屋!? いやーんもう、ミン羨ましくて震えちゃうっ。おっと涎が」
「今日は、二人揃って出かけていた筈なんだけどなぁ。出発前にお会いしたし」
「えぇっ!? と、ということは外なの!? 開放感有り過ぎじゃない!? あぁ、眩暈が」
興奮したホーチミンは、本気でアイセルの背中を叩き始めた。
叩くというより、殴るに近い。筋肉質のアイセルだが、女に見えても実際男の殴打に流石に顔を顰める。
「と、とりあえず秘密にしとこうな?」
「そうね、秘密よね。あぁん、でも、もう! 想像したら眠れないっ」
「いや、想像しちゃまずいだろ」
「何言ってんの!? 私なんか、ここへ入る前に気づいたから、そのことしか考えてないわよ!? 今晩のオカズよ!?」
「げ、下品だな、オイ」
詳細を聞く事を恐れたアイセルは、流石に嫌悪感を露わにし、数歩後退した。
ホーチミンは、うっとりと頬を紅く染めてサイゴンを見つめる。
「まずいな、ホーチミンに火がついた。……頑張れよ、サイゴン?」
熱い視線に悪寒が走り、身震いしたサイゴンは肩を擦る。
アイセルは同情の瞳を向け、深い溜息を吐いた。明日も暴走することは、安易に想像出来る。
「明日は俺、不参加だから。買い物に行くなら、アサギ様の護衛を頼む。ハイ様がいるからどうにでもなるだろうけど、念の為」
「アイセルも来ていいのよ? 相手がいれば」
鼻を鳴らしたホーチミンに、サイゴンとアイセルは真正面を見つめる。視線の先には、スリザと取り巻きの少女らが立っていた。
彼女達は、憎悪と侮蔑に輝いた瞳でアイセルを睨んでいる。
しかし、すぐにスリザが視線を逸らす。遭遇するとは思っておらず、昼間の事を思い出し唇を噛んだ。反射的に、少女達の後ろへと移動し、藁にも縋る思いで隠れる。取り巻き達に誘われ、断れずについてきたことを心底後悔した。心臓が跳ね上がる、口付けを思い出し、頬が紅潮する。
「まっ! 最悪ですわー! それ以上、近寄らないでくださいましっ。穢れてしまいますぅ」
喚きたてる取り巻き少女達に、サイゴンとアイセルは苦笑する。
気にせず、前に進み出たのはホーチミンだ。
「スリザ、いいトコに。明日暇かしら? 逢瀬でもしない?」
「は?」
すっとんきょうな声を上げたスリザは、目を白黒させた。何故ホーチミンに誘われたのか、理解が出来ない。対象がサイゴンから自分に移ったのか? と首を傾げる。確かに美女のような容姿のホーチミンと、男装の麗人の自分となら釣り合いは取れる、と納得しかける。
「ハイ様とアサギちゃん。私とサイゴン。で、今アイセルが一人ぼっちなの、スリザを相手に抜擢してあげる」
にっこりと微笑んだホーチミンは、軽くアイセルが後方で舌打ちしたことを知らない。
意外な言葉に青褪めて身体を大きく震わせたスリザだが、自分で言葉を発する前に取り巻き少女達が反論した。
「私達の高貴なスリザ様は、汚らわしい男と逢瀬などしませんわっ! 気安く声をかけないでくださいます?」
「高貴って……こっちには魔王のハイ様もいらっしゃるのにぃ? 失礼よ」
「アイセルという見境ない変態欲望煩悩塗れ男の近くに寄ったら、身ごもってしまいますわっ。今こうして、近くに居るだけで孕まされてしまいそう……おお、恐ろしい!」
酷い言われようである。ホーチミンは眉を顰め仁王立ちすると、憤慨して取り巻き少女らを睨みつけた。身内で侮辱する分にはともかく、他人に言われると腹が立つ。
だが、気にする素振りも無くアイセルは一歩進み出た。
スリザは、反射的に身体を硬直させる。
「ひっどいなぁ、そんな獣じゃないよ。まぁ、君達の俺への偏見は別にいいや。スリザちゃん自身はどうなのかな? 俺といちゃこらする? 女の子が好きそうなお店は多く知ってるよ、きっとスリザちゃんも気に入る」
「す、するかっ、馬鹿者っ。死んでしまえっ」
緊張したスリザの声が、不自然に裏返った。朝の出来事を思い出し、普通に顔を見る事が出来ない。
ホーチミンがスリザの異変に気付き、後方のアイセルを盗み見る。二人の間に何かがあったことは、明白だ。しかも、挙動不審なスリザを見る限り、色恋事に違いない。
「これは、問い詰める必要がありそうね?」
ホーチミンの女の勘が働き、口元の端に笑みを浮かべる。
「残念だなぁ。というわけで、ホーチミン、俺、相手いないから諦めるよ」
「あら、そぉ? 可哀想なアイセル。ねぇ、スリザ。いつまでも心が汚い女の子達に取り巻かれてないで、自分を見てくれる男と交わったら?」
「なっ!?」
「干からびちゃうわよ? 幾ら魔族が長命だとしても、花の命は短いのよ? それとも貴女は、自ら枯らすつもりなのかしら」
しれっと、と言い放ち、艶やかに微笑しホーチミンは踵を返した。
「この変態男! 言わせておけばっ」
「私、貴女達みたいに口が悪くないし、他人を見下して接しないの。目には目を、歯には歯を、だけど。アイセルは確かに不真面目に見えるかもしれないけど、だとしたら、何故アレク様のお側に居られるのかしらね? 能ある鷹は爪を隠す、って言葉、知ってる?」
少女達とスリザは、颯爽と歩き出したホーチミンに怒りを覚え、肩を震わせる。
「うっざ! 何よ、男の癖にホーチミンの奴っ。死んでしまえばいいのにっ」
「若干綺麗で、手足は長くて細長く、均衡のとれた身体つきをしてるけど、所詮男でしょ!? 偉そうにっ」
本人がいないので、少女達は悪態づいた。周囲にいた男達がドン引きする騒ましさと、醜いドスの効いた声色だ。
「さぁ、行きましょスリザ様。私達に似合う、甘いお菓子を食べましょっ」
身体をしならせて腕を組んできた少女達に、スリザは「あぁ」と気のない返事をする。どうにも、気分が乗らないが、同性からの誘いを断る術を身に着けていなかった。
ホーチミンはサイゴンの腕に抱きつきながら、物憂い気持ちが募っていた。
幼い頃から懐いていたサイゴンの姉であるマドリードは、亡くなった。彼女は理解したうえで女として接してくれたので、姉の様に慕った。
その為、今は心を許せる友人が無きに等しい。一人で衣服を買いに行けば、女同士賑やかに買い物をしている女達を見つめ溜息を吐く。気の合う異性の友人が、欲しい。だが、異色の自分を遠巻きに好色の眼で見る者達は多いが、近寄って来ない。
ようやくアサギという友達が出来そうだが、人間の勇者。ホーチミン的に、彼女が人間であれ勇者であれ、それこそ問題はない。問題は、アサギに性別を伝えていない為、間違えられている可能性が高いという点である。男だと知られたら嫌悪されるだろうか、と不安になる。
そして、引き伸ばしになってしまった。
……私が、女だったらよかったのに。
落胆し、重苦しい溜息を吐く。身体は男でも、心は女。性別など生きていくのに関係ないと何度も言い聞かせた、だが周囲は解ってはくれない。異端の眼で見る、家族すら後指刺されてしまう。
……気に入るお洋服が女性用だった、好きになった相手が偶然同性だった。それだけよ。
気が滅入って、幾度も溜息を吐き続けてしまう。
「ミン? どうした?」
「……なんでもない」
不気味な程静かなホーチミンに、サイゴンが不安そうに問う。
ホーチミンは慌てて顔を上げると、取り繕った笑顔を見せた。サイゴンは、口では拒否するものの、受け入れてくれる。恋は実らないだろうが、傍に居られる。
……でも、サイゴンが誰かと結婚したら、きっとこうしていられない。余程理解のある女性が嫁にならないと、親友の私がサイゴンを好いていると知ったら、引き離されてしまう。気味悪いよね、きっと。
サイゴンは、月を仰いだ。薄い月光が、切なく地面に降り注いでいる。
ハイは自室で入浴を済ませると、アサギの部屋に侵入、否、訪れて共に眠る予定の為、浮足立っていた。疚しい事は何もない、ただ、傍に居たいだけである。
「今日は……色々あったな。しかし、なんとまぁ充実した生活か」
満足して法悦の笑みを浮かべる、この世の全てが至福の時に思える。
「アサギ……とても良い子だ。私は今、猛烈に感動し、心が満ち足りている。未だかつてこのような幸福感を味わったことがあっただろうか、いや、ない。あるわけがない」
ドアを叩く音が聞こえた為、ハイは微かに眉を顰めた。
「誰だ」
「私です、テンザにございます」
来訪者は惑星ハンニバルから連れてきた、信頼している部下のテンザだ。
金髪の髪に真紅の瞳、常に漆黒の長い衣服を身に纏っており、背には蝙蝠に似た羽が生えているテンザは、悪魔族の男だった。
彼は、暗黒神官へと堕ちたハイに心酔し、付き従っていた。
「どうした?」
「いえ……何かご用命はございませんでしょうか」
「結構だ、休んでいると良い。そなたは相変わらず律儀だな」
「……承知いたしました」
深々と頭を垂れて去っていったテンザを見送り、ハイは穏やかに笑う。部下も優秀だと、今更ながらに認識した。アサギを見つけてから何もかも全てが楽しくて、些細な事でも喜びを感じてしまう。
「ふふふ……これが、恋。薔薇色の生活だな、ふふふ」
しみじみと呟く二十六歳の魔王は、多少気味が悪い。
浮かれていたハイは、ここで過ちを犯した。テンザの様子が、平素と若干違っていたことに。以前のハイであれば、すぐに見抜いていただろう。忠実な部下は、どこまでいっても悪魔。神と両極の悪魔は、神を妬み、愛を愚弄する。
ハイは、忘れていた。テンザが、何故ハイに付き従っているのかを。暗黒神官から、元の“神官”へと戻りつつあるハイに、“悪魔”は果たして付き従うだろうか。
テンザは、人間を滅した“暗黒神官ハイ”に、心酔していた。人間を愛し始め他人と関わり始めた“神官ハイ”にでは、断じてない。
「アサギ、そろそろ眠ろう」
「はい! おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
アサギの部屋で、二人寄り添って眠る。これが、最大の防衛であり、攻撃。ハイが傍に居る限り、安心だ。
茜色の薄日に目が覚めたアサギは、ハイの腕からこっそり抜け出した。目当ての物を求めて、室内をくまなく探す。
ハイは例の如く夜明けまでアサギの寝顔を見つめており、今は熟睡している。
「ふぐっ。ふにゃにゃ、むにゃー」
愉快な夢でも見ているのか、頬がたるんでいた。
ハイを起こさないように、用意されていた机の引き出しを開いていくと目的のものが見つかった。筆記用具である。胸を撫で下ろし、羊紙につけペンで文字を走らせた。
ハイが起床する頃には書き終え、丁重に封筒に仕舞いこむ。
「おはようございます、ハイ様」
「おぉ、早いなアサギ。おはよう。何をしていたのかね?」
寝ぼけな眼で欠伸をしているハイに駆け寄ると、アサギは用意した封筒を控え目に差し出した。
「お願い事があるのです」
「ん?」
封筒を見て、ハイは首を傾げる。
「これを、私の仲間に届けてくださいませんか? 私、急に居なくなったので、恐らくみんなは心配しているし、捜している……といいますか、間違いなく魔界へ向かってきます。ハイ様を、いえ、魔王の皆さんを誤解していると思うのです」
「む」
アサギは別に浮かれていたわけでも、忘れていたわけでもない。今、こうしている間にも皆がどうなっているのか知りたいし、出来ることならば戻りたい。勇者達は死に物狂いで魔物らと戦い、旅を続けていることくらい、安易に想像ができる。
……私は、何不自由のない生活をしているというのに。
だが、流石にその先々で、用意された運命の歯車が予定通りに動いているとは思いもしなかったが。
「せめて、手紙で私の現状を伝えたいのです」
無用な争いは避けたい、誰しも望むことは同じだろう。
しかし、考え出すと疑問が浮かんで仕方が無い。“何故、勇者として召喚されたのか”。真意はまだ解らないが、魔王の数人は争いを望んでいないように思えた。勇者一人くらい、彼らならば容易く屠ることが出来る。
魔王を倒すことが召喚された理由とは、とても思えない。そうなると、人間と魔族の隔たりを失くす使命を課せられたのか、と悩む。
キィィィ、カトン。
何かが鳴った気がして、アサギは顔を上げた。しかし、ハイが渋い顔をしているだけで、音が出るような物は部屋にない。
「なんとかなりませんか?」
「アサギの頼みを、私が断れると思うか? 何より、私もそうするべきだと思う。発端である私が言うのもなんだが、誤解を解かねば」
「ありがとうございます!」
「しかし。その……奴らの現在地が」
ハイは、当初サマルトとムーンの二人を追っていた。そして地球に行き着きアサギを見つけ、一目惚れをした。それ以後は、アサギ一人を追っていた。追っていたから、位置を把握し迎えに行き、攫って来る事が出来た。
つまり、攫った時点で他の勇者など眼中になく、仲間達が散ったことすら知る由もない。現状把握が困難である。こちらに向かっているのは間違いないだろうが、どう探せばよいのか。
暫しの沈黙の後、ハイは弾かれたように声を荒げる。
「テンザ! テンザは何処にいる!?」
「は、こちらに」
室内に影が入り込んだと思えば、テンザが跪いていた。
初めて見る顔に、アサギは丁寧にお辞儀をした。鋭く冷たい印象で、賢い狐のような印象を受けた。そして少し、警戒した。ハイが呼んだのだから悪い人ではないのだろうが、どうにも胸騒ぎがする。
「紹介しよう、アサギ。こやつは、私が最も信頼している部下のテンザだ」
「初めまして、テンザ様。私はアサギと申します」
俯いていたテンザは、微かに歯軋りをした。明るい声が上から降ってくると、酷く屈辱感を感じる。発狂したい気持ちを押し殺し、くぐもった声を発する。それが、精一杯の応対だった。
「……お初にお目にかかります、ご紹介があった通り、テンザと申します。以後、お見知りおきを」
ピン、と張りつめた糸のように空気に緊張が走る。
一瞬小首を傾げたアサギに、眉を顰めながらテンザは唇を噛みしめた。どうしようもなく震える身体を、懸命に耐え忍ぶ。
勇者が、目の前にいる。
殺したい。胸を傍らの小剣で突き刺したい、業火の呪文で焼き殺したい、呼び寄せた死霊の群れに喰わせてやりたい。まだ幼い少女だ、肉は柔らかろう、旨かろう。神聖な神の遣いの勇者だ、高貴な味がするのだろう。
死霊達の願ってもない馳走だ。
全身から汗が吹き出る、歯が鳴るほどもどかしい感情が身体中を駆け巡る。
「テンザよ、用事を頼みたい。他の勇者を草の根分けて見つけ出し、この手紙を届けて欲しい。彼らの顔は解るだろう?」
「はっ……」
「無理難題を押し付けているとは思うが、そなたの腕を見込んでいる。頼まれてくれないか」
「主君のご命令とあらば、如何様にも」
「助かる、有難う」
アサギから受け取った封筒をテンザに渡したハイは、にこやかに微笑んだ。
その様子を見て胸を撫で下ろしたアサギは、テンザに丁重に腰を折り頭を下げる。
「お願いします! 宜しくお願いします、テンザ様」
アサギに視線を移すことはなく、テンザはハイを見上げると平素の調子で淡々と語る。
「では、ハイ様。直ぐに発ちます。暫し、お時間戴きます」
「おぉ、任せたぞ」
黒衣を翻し立ち上がったテンザの表情は、うつむき加減の為見えなかった。
丁重に封筒を懐に仕舞いこむと一礼し、足音を立てずに部屋を出て行く。ドアが閉まる音が、妙に響き渡った。
「あやつに任せておけば何も心配はないぞ、アサギ。仕事は完璧にこなす」
「ふふ、ハイ様はテンザ様に絶大な信頼を寄せているのですね」
「あぁ。よし、では朝食に向かおうか」
「あの、御名前が似ていますけど、スリザ様とは無関係の方ですよね?」
「スリザ? あぁ、アレク配下の。彼女とは全く関係ない、そういえば似ているな」
二人は足元をすくわれた。何も分かっていない、魔王ハイの大きな誤算である。
人は、いや、悪魔は変わる。忠誠心は、裏切る為にある。
城から飛び立った悪魔テンザは、惑星クレオにひしめき合う魔族達の生活を上空から忌々しそうに見つめ、唾を吐き捨てた。
空気が、合わない。魔族が暢気に暮らしているこの異世界の魔界には、嫌悪感を覚える。ここへ来てからというもの、愕然とした。テンザとて魔王アレクの力量は認めているが、流石にこの平穏な有様には反吐が出る。それを、必死に押し殺してきた。
『魔王アレクは、名ばかりの魔王。我が主君たる暗黒神官ハイ様に飲まれてしまえ』
ハイならば、アレクからこの世界を奪い混沌の惑星へと変貌させられるだろうと期待していた。それが、生き甲斐だった。想像するだけで、歓喜に打ち震えた。闇に覆われ、人間達の恐怖の断末魔が幾重にも重なり心地よい音楽になるだろうと。
そうだと信じていた、けれど。
鴉の様に舞いながら深い森に降り立ったテンザは、ようやくここで咆哮を上げる。
最大の屈辱だ、先程の自分に嫌悪する。
何故、勇者の目の前でひれ伏さねばならなかったのか。
「我は雑用などせぬっ! おのれ、あの小娘っ」
懐から取り出した封筒を破り捨てようとしたが、痙攣する手を耐えて中身を乱暴に引き出す。紙を開くが、字は読めない。
テンザはそれを掲げると、息を吹きかけた。ゆっくりと、極限まで憎悪の念を込めた禍々しい息を吐き出す。口から吐き出された黒に近い火炎がチリチリと封筒を、そして手紙をも静かに燃やしていく。
燃えながら地面に落下した、アサギが懸命に書き綴った手紙。それは数分と経たぬうちに、灰へと化す。
そして風に吹かれて、何も残らなかった。
「あの薄汚い売女が、我のハイ様を籠絡させっ! 勇者とは名ばかりの、ただの阿婆擦れめがっ」
崇めていた高貴な暗黒神官ハイは、もう何処にもいない。
そのようなこと、とうに知り得ていた筈なのに。あのような腑抜けた主君の姿など、吐き気がして見たくは無い。殺意すら、覚えていた。
「赦さぬ! 骨すら残らず、我の手で粉砕してやるっ!」
怒りを篭め、地面に思い描いたアサギとハイを踏み潰す。徐々に沈んでいくほどに、渾身の力を注ぎ込む。ズブズブと地面に沈みゆく脚は、止まることをしらない。
「暇を貰ったのだ、鬱憤を晴らさねば」
髪を乱し、狂喜の瞳で高笑いしたテンザは、朦朧とした意識で飛び立った。人間を殺害しまくれば、少しは気分が晴れそうな気がした。
「あぁ、他の勇者を血祭りに上げたら面白そうだ。ただの人間を殺戮するより、手ごたえがある。実に愉快、ククク! あぁそうだ、手紙を届けに行くのだった。手紙の変わりに、死という贈り物を携えよう」
喉の奥で、残忍に笑う。煌々とした瞳が甦る、この惑星に来てようやく使命を与えられた気がした。
消されてしまった、アサギの手紙。
飛び立ったテンザを地上から酷薄な笑みを浮かべて見上げていたエーアは、一部始終を報告すべくミラボーの部屋へと戻る。
「良い駒を見つけましたわ、役に立つと思います」
闇の中、エーアからの報告を聞きながら、ミラボーは始終不気味な笑みを浮かべている。
「反乱分子か、ふぇふぇふぇ」
「えぇ。ハイの忠実な部下が、離反致します。上手く使えば、ハイをも揺さぶれましょう」
「テンザといったか、思案しよう。良く知らせてくれたなぁ、エーア。そなたは本当に良く働く」
「私が今ここにいるのも、ミラボー様の御蔭で御座いますもの。当然です」
「ヒャハハハ、そなたはテンザの様に裏切りはしないだろうな?」
「心外なお言葉」
下卑た笑みを見せ、ミラボーは冗談交じりに呟いた。
穏やかに微笑みながら、エーアは頷く。
エーアが自分を裏切れない事など、ミラボーは百も承知である。万が一、エーアが裏切る可能性があるとすれば、それは瀕死に陥り魔力が遮断された場合だけである。それ以外は、有り得ない。拾物の綺麗な人形は、反抗など出来るわけがない。
ミラボー自らが惑星チュザーレにて捕らえ、洗脳した優秀な人間の女を手放すわけにはいかない。実に使い勝手が良い。
「テンザが他の勇者を一掃してくれれば、有り難い。しかし、ロシファ殺しを任せられぬか思案してみようと思う」
「良い策だと思います」
外は晴天。雲ひとつない、澄み切った空だった。
けれどもこの日、魔界の陽の当たらない場所で、闇は蠢き始めていた。