神の困惑
文字数 3,290文字
涙目のアサギは、断固として意見を変えぬ姿勢をとった。勢いで言ったかもしれないが、本気だ。口笛を吹いて拍手をしたトランシスを忌々しく睨みつけ、クレロは溜息を吐く。
「アサギ、少し頭を冷やしなさい。勇者を放棄しても、彼と一緒にはいられないよ。そもそも勇者でなければ、地球から出ることもない。つまり、トビィたちに会えなくなるがそれでいいのかね? ハイの墓参りに通う事も出来なくなるよ?」
意地の悪い説得だが、少しはアサギが躊躇するとクレロは思った。
「では、地球ではなくてトランシスさんの惑星へ行きます。そうしたら一緒にいられるのでしょう?」
しかし、アサギは静かに言い放つ。
自分を選択したアサギに満足して頷いたトランシスは、顎を撫でてほくそ笑む。何故ここまで神に拒否されているのかは、興味がなかった。
「オレとアサギを引き離そうたって、そうはいかない」
小声で呟き、鼻で嗤う。アサギが自分の為に必死になってくれることに優越感を覚え、一層愛おしさが増した。
「何故、ですか? 何故、そんなにトランシスさんと離そうとするのですか?」
気弱になり哀しい瞳の色を浮かべ、震える声でそう告げたアサギを直視出来ずクレロが口籠る。覚悟はしていたが、泣かれると強気になれない。
「ぅ、ぅぐ」
クレロは、アサギに非常に弱い。すでに狼狽し、前言撤回しそうな勢いだ。
二人を交互に見ていたトランシスも、すぐに気づいた。神であるらしい男が、勇者とはいえ小さな少女に困惑している。冷めた視線をクレロに投げかけ、徐ろにアサギに近づくと背後から抱き締める。男の眉が釣り上がる様を見て、凍るような視線を床に落とした。
「……あぁ、なるほど。そういうことか」
「え?」
トランシスの呟きにアサギは振り返ろうとしたが、強く抱き締められ身動きがとれなかった。彼の体温が上昇していくのを感じ、戸惑う。
「トランシスさん?」
名を呼ぶが、返事がない。しかし、腕の力が強まってアサギは眉を寄せた。
威嚇するようにクレロを睨み、トランシスはここでも
……神のくせに、アサギに懸想してやがる。
この場で、唇も身体も奪ってしまいたい。そうすれば目の前の男とて現実を認識するだろう。
見透かすような視線で睨みつけてくるトランシスに、クレロは一瞬たじろいだ。妙な威圧感を覚え、同時に身体中の血がざわざわと蠢く。
「お前……何者だ」
絞り出した声に、トランシスが答えることはない。ただ、邪悪な視線を投げ、ゆっくりと口角を上げた。
クレロの第六感が、危険だと警告している。だが、アサギに
何より、今のアサギにそのようなことを言っても無駄だろう。恋は盲目である。人間界を見てきたクレロは、恋愛感情で人々が啀み合い、殺し合うことを知っていた。
例えそれが、一時の感情であったとしても。
「……今すぐに許可は出来ない、制限を設けさせてもらう。私の結論が出たら二人は離れることになるかもしれないが、それでも構わぬか?」
「嫌だね」
アサギが答える前に、トランシスが鼻で笑い拒否した。瞬きしていないのではないか、というくらいに、痛い視線を投げ続けている。
粗野な人間に尻ごみするわけにもいかない、負けじとクレロも睨み返す。しかし、すぐにトランシスから視線を外し、厳しい口調でアサギに告げた。
「十日だ。十日に一度ならば、会っても良い。ただし、丸一日のみ。地球で言う二十四時間が経過すると、自動的に互いの星へ強制送還させる条件を設ける」
「十日!?」
「二十四時間だけ、ですか!?」
声を荒立てた二人に、勝ちに乗ったようにクレロは頷いた。
「絶対だ、分かったな?」
「断る」
「どうして駄目なのですか」
当然反発する二人だが、クレロも退くわけにはいかない。トランシスが一体何者なのか判明するまでは、監視が必要だと判断した。本当ならば二度と会わせたくないので、これでも妥協している。
アサギの為に。
けれども、目の前にいるアサギは離れるのが嫌で泣いている。
「ぅ、ぅーん……」
時折クレロを見上げて、アサギは泣く。大きく美しい瞳から、煌めく涙が幾つも零れ落ちていく。
「うぅ……!」
胸の奥を剣で刺された気がした、じわりと痛みが身体中に広がっていく。罪悪感に苛まれたクレロは、その場で何度も足を踏み鳴らし、小声で「ならば七日で」と折れた。
しかし。
「せめて、三日でお願いします」
唇を尖らせ、アサギが掠れた声を出す。
泣きはらした真っ赤な瞳が、切々と訴えかけてくる。クレロは頑なに首を横に振り続けるが、アサギは期待を込めた視線で見つめてくる。
「う、うぅぅ……やめろ、期待しないでおくれ。その眼はやめてくれ」
痛いほど突き刺さる視線に、クレロは片手を広げて前に出した。歯軋りしながら床を見つめ、大きく溜息を吐く。
「五日。……五日が限度だ」
どうしても駄目だった、アサギの
例えこの先、絶望の底に沈み、更に泣くことになろうとも。今、自分が泣かせることだけはしたくはない。
何故、アサギの泣き顔を見るとこうも辛いのか。
遠い昔、間近で見たような気がするからなのだが、そんなことは口が裂けても言えない。記憶の欠片なのか、妄想なのか、はたまた夢なのか。
個人的な感情は押し殺さねばならないのだが、この不鮮明な記憶が一体何かクレロには解らないでいた。ただ、アサギが勇者になり惑星クレロへ来てからというもの、時折不思議な夢を見る。
アサギが、花のような笑みを浮かべてこちらを見ている夢だ。それを見ている時は、今まで感じた事のないような安心感が得られた。護られているような錯覚に陥り、神という自分を忘れて、緊張を解き静かで平穏無事な時間の中に漂っていられた。
けれども、夢の中でのアサギは時折泣くことがある。遠くを見て、泣いている。その泣き顔は、目の前と同じ。泣かせたくはないのに、自分ではどうすることも出来ず、クレロは立ち竦んでいる。
「申し訳ございません、お役に立てず」
心の中で、
アサギを盗み見ると、心から嬉しそうに顔を綻ばせている。それだけで、胸が軽くなった。泣き止ませたということが、誇らしく思えた。
「私も……甘いな」
クレロは、自嘲気味に呟く。それでも喜ぶ顔が見たかったので、有り得ないとは思ったが、こう付け加えた。
「もし……二人が共にいて問題ないと判断したら、勿論直ぐに伝える。好きにすればよい」
「ありがとうございます! きっとそうなるって信じています!」
「どういう問題が起きるんだよ。共にいられないほうが問題だってのに……三日以内に判断してくれ」
感謝を述べたアサギと、悪態ついたトランシス。
変わらず口の悪いトランシスに顔を歪めたクレロはあからさまに睨みつけたが、鼻で笑われた。
「今日は……一緒にいてもいいですか?」
駄目だ、と言おうとしたクレロだが、アサギが再び縋る様な視線を送ってきたので、ぎこちなく頷いてしまった。頷いてから頭を抱える、訂正は出来ない。
「う、ぅぅーん……」
「では、トランシスさんを案内してきますね! ありがとうございます、クレロ様!」
「日付が変わるまでだ、いいね、アサギ。それから、宝物庫や図書室は彼と一緒に入らないように」
「はい!」
手を繋いで走り去った二人を落胆して見送るクレロは、姿が見えなくなると表情を引き締める。
何故、あぁもあの男を毛嫌いしてしまうのか、自分でも理解出来なかった。しかし危険要因だと、誰かが囁いている。
「アサギを、守らねばならないのに」
それすらも、何故なのか解っていない。
勇者という大事な人間だから守らねばならないのは当然だが、アサギに関してはそれ以上の想いを感じていた。彼女の笑顔を守ることが、自分の使命な気さえしていた。
「神は私、誰にも縋ることなど出来ぬ。……私が、やらねば」