女剣士は何を思う

文字数 11,251文字

 気分的なものだが、身体中が脱力し転寝していたリュウも騒動には気付いていた。ただ、面倒そうに瞬きしたものの、起き上がりはしない。

「王子! 失礼致します」

 怒涛の勢いでやってきたエレンに、リュウは軽く視線を送った。大きく肩で息をし、蒼褪めながら咳き込んでいる姿を見たものの、暢気な声を上げる。

「エレン、いや、エレ。何度言ったら分かるぐもか、王子ではなくリュウでよいのだぐ~」
「魔王アレクの腹心スリザが乱心し、アサギ様に斬りかかってきました。応戦しておりますが、御力添えを願います」

 リュウを無視し、エレンは切羽詰った声を上げる。
 怪訝に瞳を開いたリュウは、険しい顔つきになると言葉を吐いた。それは非常に冷たく、頑なに拒否していることが嫌でも伝わる声だった。

「関係ないぐ~、アレクの立場が悪くなるだけのことだぐ。……アレクは誰を選ぶのだろう、何年も共に生きてきた腹心か、先日ふらりと現れた人間の勇者か。勇者を選べば、魔族の間で不信感が膨れ上がるぐー。かといって、腹心を選べばハイとは決別、確実にその場で魔王同士の戦いが始まるぐー。そうなったら、私は魔界を出て堂々と旅に出るぐ」

 語尾はおどけているものの、エレンすらゾッとする冷酷な声。目の前のリュウが、自分達の愛すべき王子ではないような気がした。返答に窮し、唇を噛む。リュウが人間を嫌っていることは知っている、自分達とてそうだった。
 だが、アサギには心を開きかけていたと思っていた。 
 だからこそ、幻獣の皆でそれを阻もうとした。人間と関わるとろくなことがない、優しい王子はまたほだされてしまう。
 しかし、エレンら他の幻獣とてアサギが持つ不思議な雰囲気にのまれ、人間であることを一瞬忘れそうになった。いや、人間であると理解しているはずだが、関わりたいと思ってしまった。
 何故かは、解らないが。
 今や、エレン自身がアサギを救いたいと思っている。

「リングルスの腕が、魔王アレクの腹心によって斬り落とされました! 同胞が傷つけられたのです、無関係ではありませんっ! どうか」
「言う順番が間違っているだろう!?」

 言うが早いか、リュウは直様起き上がるとエレンを撥ね退ける勢いで部屋を出た。
 慌ててエレンが追う、先行く背中を見つめながら安堵の溜息を密かに漏らした。やはり同胞の誰かが傷つけられれば、リュウは黙っていない。それは昔のままだと、笑みを零す。だがその笑みは複雑で、嬉しくも不安の陰を落としていた。
 
『我ら幻獣のみが、信頼できる仲間』

 皆で堅い誓いを交わしたが、今になってそれが間違いではないかと思えてきた。
 今のリュウは、もし隣で殺戮が繰り返されていたとしても、そこに故郷の者が関わっていなければ無視をするだろう。そんな姿など、見たくない。本来は、なりふり構わず手を差し伸べ助ける、危うくも優しい王子。それゆえ、皆は愛し護ってきた。
 
 リュウとホーチミンが、同時に到着した。
 斬り落とされたリングルスの腕を必死に接合しているハイは、ニ人の存在に気付かない。
 現場を見たリュウは、目を丸くする。リングルスの治療に専念しているのはハイとアレクで、スリザと対峙しているのはアサギ一人だった。他は武器を構えているものの、傍観しているだけ。

「は? 一体何をやって……」

 拍子抜けした、この中で一番脆弱な人間の勇者に何をさせているのか。
 アサギを護ると宣言したハイや、歩み寄りたいと願い出たアレクは、何故実行に移さないのか。意味が解らず、不信感が募る。リングルスの治療にあたっているのは、嬉しい誤算だ。魔王ニ人が専念してくれたのならば、彼の腕がもとに戻る確率は高い。
 だが、釈然としない。これでは、幾らなんでも勇者が気の毒ではないか。目の前でたった一人、懸命に戦っているアサギを見て舌打ちをする。

「……ハイ? アサギを助けなくてよいぐーか?」
「仕方がないだろう! アサギの願いを断れなかったのだ! こちらに専念しないと、嫌いになると言われたのだから」
「は?」

 瞳を細めてハイを見れば、焦燥感に駆られてか腕が震えている。アサギが気になるのだ、心配なのだ。
 だがハイは助太刀出来ない。アサギの願いが、リングルスの治療最優先であったためだ。それを、無下には出来なかった。

「アサギの放つ光の魔法で、スリザとの距離を保っている。その間にこの者を回復させ、今後の作戦を思案して欲しいとのことだ。情けない話だが、その指示に従うしかない。リュウよ、そなた……何か解らぬか。私の腹心だが、正気を失っている」
「解るわけがないぐ、今来たばかりだぐ。そもそも私は万能じゃないぐ。……ともかく、リグの治療には感謝する」

 跪き、リングルスの顔を覗き込めば何故か微笑している。激痛で気でも触れたかと思ったが、そういった笑みではなかった。妙に清々しく、柔らかに見える。

「申し訳ございません、リュウ様。侮りました」
「素早さにおいては、右に出る者などいなかったお前の腕を斬るとは……魔王アレクの腹心は恐ろしいな」
「自分の力量を恥じ、治り次第鍛錬に励みます」

 瞳を閉じたリングルスを確認し薄らと頷くと、リュウはゆっくりと立ち上がる。ここで、アサギを食い入るように見つめた。これだけ大勢の魔族がいながら、誰もあの勇者に加勢しないこの現状に皮肉めいて口角を上げる。
 だがそれは、アサギが望んだことだと。

 ……勇者とはいえ、非力な人間がよくもまぁ魔族達を護る為に立ちはだかったものだ。

 愚かな娘だ、と唇を動かす。

「勇者っていうのは、お人よしなのかな」

 肩を竦め、軽く瞳を閉じ息を吸い込む。

「それで、あの女剣士はアサギを標的にするよう命令されているぐもか? あちらにしてみたら、またとない好機だぐもな。魔王が揃っているのに、傍観だなんて」
「私も対峙致しましたが、アサギ様が間に入られてからは、こちらを見向きも致しません。お察しの通りかと」

 エレンが耳元でそう囁いた。何故アサギを護ったのかは尋ねず、その問いだけを心に刻む。今までの皆であれば、どんな状況下であれ放置していただろう。誓いを破り、人間を助けるに至った理由が気になる。

「やれやれ、敵の思う壺じゃないか」

 しかし、それは後回しだ。

「大事な同胞を傷つけられ、私が黙っているとでも?」

 アサギは、誰の目から見ても限界だった。何度魔法を放ったのか知らないが、限界を超えている。この状態でハイもアレクも助けに入らない事が、リュウには解せない。チリチリと胸が痛む音がする、この感情が何か解っているが、認めたくなかったので肩にいたエレンを下がらせて気を紛らわす。
 湧き上がる感情から、逃げた。

「リュウ様、下がってください」

 気配に気づいたアサギが、か細い声で話しかけてきた。声は掠れ、聞き取りづらい。

「アサギは限界だぐー、ここは私が一撃食らわせるぐーよ。下がるぐも」

 頑なに参戦を拒否するアサギに、多少イラつく。

「それでは、駄目なんです。リュウ様ならスリザ様と互角に戦えるでしょうが、それだとどちらかが怪我をします。ので、止めてください」
「見くびられたぐーな、互角ではなくて圧倒的に私の勝ちだぐ。まぁそんなことはどーでもいーぐーが」

 怪我では済まず、下手すると死ぬかもしれない。けれど、出かけた言葉を喉に押し込む。アサギは気丈に立っていたが、近くに寄れば小刻みに震えていた。身体も悲鳴を上げている、何故この娘は助けを求めないのか歯がゆく思えて、全身が痒くなる。

「お人よしにも程があるぐ。死にたいぐもか? ……それに、あれが従順な腹心の本性かもしれないぐも」

 煽る様に鼻で嗤い、呵む様にリュウは告げた。

「違います、スリザ様は操られています。怪我をさせずに、なんとか戻します」
「そんなこと、出来るぐー? 方法があるぐー? 誰に、どうやって操られているのかアサギには解るぐーか? ……出来もしないのに、その場限りでいい加減なことを言うものではないよ」

 羞恥心から、アサギは俯くと思った。もしくは、哀みに支配され泣くのだと思った。だが、違った。
 微かに口元に笑みを浮かべると、こう言ったのだ。

「それを、するんです。方法は、きっとあります。何も解りませんが、それでも抗って何かを見出したい。完全なものなんて、この世にないと思うから。だから、きっと元に戻せます」

 切り返す言葉が見つからず、瞳を大きく見開いて唖然とアサギを見下ろす。何か言わねばこの雰囲気に飲み込まれると判断したリュウは、それは避けねばと嘲笑した。

「……はぁ。なんというわからずやの勇者だろう」
「なんとか、します。だから、スリザ様を攻撃しないで下さい」

 体力も精神力も、限界の筈だった。しかしアサギの声に、突如として明確に聞き取る事が出来る強い意思が篭められる。リュウは硬直し、表情を強張らせながら、震える右腕を抑える様に掴む。有無を言わせぬ強い意思に、怯んでしまう。その小さな人間から溢れ出る威圧感は、計り知れない。

「あぁ、これにハイとアレクも大人しく引き下がったのか」

 リュウはそう小さく呟いて、数歩後退った。

 ……確かに、君は“本物の”勇者だろうね。強い意思は、認めざるを得ない。だが、それだけで世の中渡って行けると思っているならば、大間違いだ。

 何処まで強がることが出来るのか、望み通りに傍観を決め込む。

「そうまで言うのならば、お手並み拝見だぐ……勇者アサギ」
「ありがとうございます」

 強がってそう告げたアサギに、鼻を鳴らす。

 ……勇者とは、何だろう。彼とて強い意思で私を護ろうとしてくれた、君と彼とは何が違うんだろう。

 瞳を細める。魔王アレクの腹心と真っ向から対峙すれば、アサギなど数秒もかからず殺されるだろう。魔族に対して有効らしい光の魔法が途切れた時が、死を意味する。その瞬間に助けに入るかどうかは、リュウ自身にも解らなかった。救いたい気持ちもあれば、傍観を決め込みたい思いもあるのが正直なところ。

「人間からも、魔族からも、誰からも愛される勇者。……虐げられた非勇者は、誰の救助もないまま、死んでいったんだ。ずっと“友達”を待っていただろうに、来なかった。友にすら裏切られ、絶望の淵で死を迎えたのだろうね」

 後方から駆け寄ってくる気配を感じ、軽くリュウは首を動かす。アレクとハイが、逼迫した様子でやって来た。瞳の端に腕が完治したリングルスが映り、感嘆の溜息を漏らす。
 残る問題は目の前の一つだけ、正気に戻らないスリザをどうするか。
 サイゴンが剣を携え、アイセルが拳を構え、ホーチミンが杖を振り翳し、ハイが腕を向ける。
 そして、アレクが腰に差していた剣を重く引き抜いた。
 緊張が走る、アレクが剣を抜く様など、サイゴンですら見たことがない。魔王が手にする武器の重みは、この場の誰よりも重いだろう。相手は、幼き頃から共に育った腹心なのだから。

「アサギの安全を最優先とする。最悪の場合、仕方がないが……スリザは」

 言い放ったアレクに、驚愕の瞳を向けたのはリュウだ。あっさりと腹心を捨て、勇者を助ける魔王など、狂気の沙汰であるとしか思えない。だが、他の一同は同意の様で、躊躇すら見せなかった。違和感を感じる、勇者という存在がそれほどまでとは思わなかった。いや、思えなかった。

「変なこと言わないでください、アレク様! 最悪の場合だなんて、スリザ様が知ったら悲しまれます。そんな、そんな酷いこと嘘でも言わないでくださいっ!」

 怒鳴ったのは、アサギだ。長く共に過ごしてきた者達ではなく、まだ出逢って日も浅い小娘が反発した。

「それだけ、アサギ。……そなたの価値は大きいのだよ。もし、私があのように意志を奪われ、でくの棒になったならば、スリザは同じ判断をしただろう」

 いや、流石にそれは躊躇するだろうと、サイゴンとホーチミンは引き攣った。
 主君魔王か、未来に光をもたらす勇者か選べ、と言われて簡単に選択出来るものではない。
 アイセルは、唇を噛締めた。アレクの言う事は解っている、何があっても次期魔王であるアサギを選べと言う命令だ。未来に見える光を消してはならない、当然のことだろう。だが正気に戻ったスリザが今の言葉を知ってしまったら。感情を押し込める彼女は、当然だと快く受け入れるだろう。だが、理解していても、心に負った傷はいつまでも治らず腐敗する。
 立場を逆にしても、スリザがアレクを攻撃できるとはアイセルには到底思えない。万が一攻撃したとしても、直様自らの手で命を絶つだろう。
 それは、負の連鎖。
 やはり、アサギの言うように正気に戻さねばならない。正気に戻ったスリザが今の状況を覚えていたのならば、自己嫌悪に押し潰され自らの手で命を絶ちそうではあるが。
 アイセルにしても、未来の女王を選ぶことこそが使命だろうが、愛するスリザを手にかけるなど出来ない。
 スリザの内面は、弱い。強固なイメージを創り上げているからこそ、脆い。

「スリザちゃん!」

 アイセルは、無我夢中で飛び出していた。スリザが、瞳の奥で泣いているような気がして堪らない。
 何かを飲まされ、意識を失い倒れたスリザ。突如として起き上がり、何故アサギを襲ったのか。

「こういう仕掛けだったわけっ」

 アイセルは唾と共に、言葉を吐き捨てる。アサギを襲撃するように暗示をかけられたに違いない、その為の薬だったのだろう。飲み込んだ液体など、何か解らない。少しは吐き出させたが、やはり体内に残ってしまったらしい。
 アイセルが疑問だった点は、常に神経を張り巡らせているスリザが、どうして見ず知らずの人物に言われるがまま、得体のしれない液体を口に含んだのか……そこだ。普通ならば有り得ない、逆に相手を締め上げているだろう。
 とすると、何かを吹き込まれたのだろうか。最近、スリザはアレクの件で心に痛手を負っている。心情を知り、把握していたとしたら可能な気がした。
 愛しく焦がれた、美しい魔王の君。彼には相思相愛の華やかな姫がいる、そんなことは何十年も前から知り得ていることだ。心を揺さぶられる何かが、スリザにあったのだろう。もしくは耐え忍んできた痛みがついに積もり、心を切り裂いたのか。
 アサギが放つ光の魔法で地面に倒れこんでいたスリザに、アイセルが飛び掛る。無論、傷をつける気など微塵もない。
 ゆっくりと起き上がったスリザの視界に、アイセルが映る。
 アサギは反射的に、後方にいたアレクに手を伸ばした。有無を言わさず手にしていた剣を奪い取り、そのまま走り出す。
 魔王が手にしていた剣を、勇者が振るう。
 スリザを押さえ込もうとしたアイセルだが、起き上がり様に両腕で跳ね上がるとそのまま蹴りを繰り出され体勢を崩す。
 スリザの両手には、剣が握られている。
 舌打ちし、アイセルは避けられない一撃を手甲で受けるべく構える。スリザの素早い一撃は、肝に銘じている。そして何より、これから放たれる一撃は手加減なしの本気だ。背筋が凍る思いだった。

「スリザちゃん、俺だよ!」

 思わず叫ぶが、スリザに動揺など見られなかった。誰が正気に戻せるのだろう、方法があるのなれば教えて欲しいと叫びたかった。
 間一髪でホーチミンがアイセルに防御壁の魔法を放った、咄嗟の判断だが完璧だ。攻撃を確実に跳ね返すことは無理だが、軽減は出来る。スリザの間合いに入っている為、回避は無理だ。
 走り出したアサギを、ハイとアレクが追いかけた。
 ハイはすでに魔法の詠唱を始め、アサギの身に危険が及ぶのであれば、スリザに風の魔法を放つつもりだった。
 スリザが剣を振り下ろした。リングルスの腕を斬り落とした鋭利な風の刃が、アイセルを直撃する。手甲が無残にも飛び散り、宙に鮮血が舞った。だが、辛うじて切断は免れたようだ。

「スリザちゃん! 俺だよ! 戻っておいで」

 もう一度アイセルが叫び、腕を大きく広げる。
 虚ろな瞳のスリザは、何の反応も示さず振り下ろした剣をそのまま振り上げる。再び放たれる凶器の風は、音速を超えていた。
 俊敏なアイセルでも、避けることは厳しい。間合いが近すぎる。
 再びホーチミンがすぐさま防御壁を張るが、詠唱が短すぎて完璧ではない。
 溜息一つ、舌打ちしたリュウが加勢していなければ、アイセルの胴体は切断されていた。

「私の参戦は高くつくぐ」
 
 忌々しそうに呟いたが、エレンは歓声を上げそうになってリュウを見つめた。

「やはり、王子は。……とても、お優しい方なのです」

 攻撃を繰り出しても辛うじて保っているアイセルに、スリザは手を休めず追い討ちをかける。間合いを詰めていくが、背後で聴こえた声に反応した。
 アサギが掛け声と共に、剣を真横に振った。それは遅いうえに、非常に緩やかな一撃だった。易々と交わせる、攻撃とは呼べぬもの。
 蒼褪めたハイが、風の魔法を放とうと手を掲げる。アサギを視界に入れたスリザは、確実に牙を向けるだろう。 
 アレクも指先を器用に動かし詠唱に入った、アサギを護るためならば仕方がないのだと覚悟を決める。
 しかし、スリザの動きが止まった。
 何故止まったのかを考える前に、アイセルが飛びかかり羽交い絞めにする。拘束されても硬直していたスリザだが、ようやく暴れ出した。その瞳に、ゆっくりと後方に倒れるアサギの姿が映る。
 皆がアサギの名を口々に叫び駆け寄る中で、アイセルはもがくスリザに囁いていた。

「愛してるよ、スリザ。天命に背いても、俺は君を傷つけることが出来ない」

 それでも変わらず暴れるスリザに、情けなく笑ったアイセルは顔を上げた。皆に囲まれて助け起こされたアサギの瞳が大きく開き、勢いよく立ち上がって駆け出した瞬間を見る。
 その、瞳の色が。

「みど、り?」

 皆には、見えなかっただろう。真正面にいたアイセルだけが、そのアサギの瞳の色を捕えた。深緑の美しい森を連想させる、不思議な色合いだった。
 アサギは躊躇なくスリザの腹目掛けて手を、いや、拳を突き出した。若干、その拳が光って見えたのはアイセルの錯覚か。
 
「ごふぉあぁ、ガッ!」

 呻き声と共に、スリザの身体が折れ曲がった。口から胃液を吐き出し、痙攣する。当然アサギに降りかかったが、それを腕で拭うとスリザの頬に両手を添えて瞳を閉じる。治癒魔法の詠唱だろうと思った、暖かな光がアイセルにも感じられたからだ。
 小刻みに揺れるスリザを、仰向けにする。真っ青というよりも、真っ白な顔は全く血の気がない。だが、口元に手をあてれば呼吸はしている。それを確認し、アイセルは安堵の溜息を吐いた。
 目の前のアサギは、再びゆっくりと後方へ倒れていく。すかさず、ハイとアレクが支えた。精神的にも体力的にも限界だったのか、眠っているようだ。
 ハイの身体から、どっと汗が吹き出た。唇を噛締め、アサギを抱き締める。
 アレクも大きく息を吐き、アサギが落とした自身の剣を拾い上げると鞘に収める。
 静まり返る、一同。
 アサギの容態を診てから駆け寄ってきたサイゴンとホーチミンは、アイセルの腕の中にいるスリザを不安そうに見つめた。
 念の為、スリザの愛剣はサイゴンが手にし、本人から離した。万が一を考えての事だ。
 だが、スリザの体調はともかくとして先程の不気味な雰囲気は微塵もない。

「恐らく正気に戻ったと……」

 困惑しつつも、ホーチミンは口にする。
 一体、アサギは何をしたのか。腹部を殴り、体内に残っていた薬物を吐き出させたとでもいうのか。
 眠っているアサギの表情は、安らかだ。流石に今、訊く事は出来ない。
 脱力したハイは、アサギを抱えたまま蹲る。その肩をアレクが軽く叩いた、もう大丈夫だとばかりに。
 リュウは面白くなさそうに一瞥すると、唇を尖らせ踵を返す。輪から離れたところにリングルス達がいたので、そちらへ向かう。
 けれどもエレンには解っていた、最後まで見届けたリュウの心根は昔と何も変わっていないと。

「体調は?」
「御蔭様で、大丈夫です。いやはや、腕が戻るとは思いも寄りませんでした」
「……身体を大事にしろ、今後は妙な事に首を突っ込むな」
「ですが、アサギ様が」

 言いかけてリングルスは口を噤んだ。リュウはアサギに好意的だったように思えるが、人間を嫌悪していることに変わりはない。

「今後は我ら同胞の危機でない限り、関わらないように。他の皆にも伝えてくれ」

 言うことは最もだと一瞬俯いたが、リングルスには我慢できず押し殺した声を出し、反発する。

「……お言葉ですが、リュウ様。アサギ様は」
「アサギ、アサギと! 勇者に誑かされたのか」

 強く吐き捨てると、リュウは極まり悪そうに舌打ちし大股で立ち去る。
 リングルス達が、唖然とリュウを見た。

「……どうしたのかしら、リュウ様。近頃変だわ」
「アサギ様と、以前友人であったあの勇者とを重ね始めてしまったのかもしれないな」

 憶測は、誰にでも出来る。
 リングルスの体調を気遣い、三体はリュウの態度に不信感を抱きつつ部屋に戻る事にした。アサギに礼を言いたかったのだが、気を失っているままだった為ハイに礼を告げた。
 仏頂面のハイは、こちらを見ようとしなかった。身を挺してまでこの者達をアサギが庇った事が気に入らなかったこともあるが、何より護れなかった不甲斐ない自分に腹が立っている。
 子供のようだとリングルスは思ったが、とても口には出せない。
  
「ハイ様、アレク様。手厚い処置を有難う御座いました」
「気にするな、そなたはアサギを守護したのだろう。こちらこそ、礼を言わねばな」

 ハイは口を開かないが、アレクが微笑し応じてくれた。回復したら改めて礼に伺うと伝え、深く頭を垂れて三人の幻獣はその場を去る。
 残された者達も、いつまでもここにいるわけにはいかない。アイセルはスリザを抱えたまま、再びあの部屋へと戻った。
 アサギはハイに抱かれて、自室へと運ばれた。

「私は、アサギにつく。スリザを頼む」
「御意に」

 立ち去ったアレクを、サイゴンとホーチミンが頭を垂れて見送った。
 その後姿を、アイセルがぼんやりと眺める。
 魔王は、腹心ではなく勇者を選んだ。
 当然かもしれないが、スリザが知ったらやはり哀しむだろう。その容態を、アレクは看てもいない。

「義務的だなぁ……スリザちゃんが可哀想だよ」

 呟くアイセルに、ホーチミンが呆れたように大袈裟な溜息を吐く。

「スリザのことを、アレク様は人一倍信頼している。大丈夫だと信じているの、看なくても。同時に、私達のことも信頼してくださっているからこそ、任せてくれた。ゆえに、安心してアサギ様の傍にいられるのではないかしら。光栄な事よ」
「だからってさぁ」
「それに、アレク様には恋人がいるじゃない。中途半端な優しさは、スリザを余計傷つけるだけ。アイセルが早く、スリザをモノにしてしまえばいいのに」

 アイセルの脚を思い切り踏みつけると、ホーチミンは先頭きって歩き出す。
 宥める様にサイゴンがアイセルの肩を軽く叩き、すぐにホーチミンを追った。
 顔を引き攣らせ、アイセルも歩き出す。腕の中のスリザは目を醒まさない。

「って、言ってもさ……。アレク様には何もかも勝てない、唯一勝るのはスリザちゃんへの想いだけ。その想いすらも凌駕するのは、アサギ様のお力。俺にどーしろって言うの!」

 自分のスリザへの想いが彼女を正気に戻せたらと思ったが、夢のまた夢だった。結局スリザを救ったのはアサギである、何をしたのだろうか。近くで見ていたから解った、ただ殴打したわけではない。暗示を解く、何かがあった。

「ちぇー、勝てないよなぁ」

 自嘲気味に微笑んだアイセルの腕の中で、スリザが軽く瞬きをした。
 スリザを寝台に寝かせて一息つくと、アイセルは先程見たことを正直に二人に話した。「アサギの瞳が、緑に変化したように見えた」ということを。

「まっさかぁ……と、言いたいところだけど。無事にスリザが戻ってきたら、信じちゃうかも。まだ決まってないけど、洗脳解けているわよね、これ? どうやったのかしら、私もハイ様もそんな魔法知らないから、教えてないし……」
「勇者としての潜在能力では……。どちらにしろ、回復を待とう。憶測で物を言っても無駄だ」

 サイゴンは水を取りに行く為、部屋を出た。
 扉が閉まる音を聞きながらも、二人はスリザを覗き込んでいる。しかし、ホーチミンは突如青褪め、アイセルの胸倉を容赦なく力任せに掴む。

「ねぇ! 今気づいたんだけどっ! スリザが飲まされた液体をさ、食堂の水やら……皆が口にするものに入れられたらどうなるわけ!?」
「なっ!」

 アイセルの顔も歪む。考えた事もなかったが、可能なのだろうか。

「ねぇ、危ないわよね、これ? まさか液体にそんな効果があるなんて思いも寄らなかったから考えなかったけど……。私、アレク様に報告してくるっ」

 慌しく部屋を出て行ったホーチミンに力なく手を上げ、顔面蒼白のアイセルは床に座り込んだ。
 最初からアサギを狙っての犯行だったとするならば、身近で精神的に付け入る隙のある、武術に長けた人物ということでスリザに白羽の矢が当たったのだろう。

「確実に、アサギ様を仕留められる人物を?」

 口元を押さえ、スリザを覗き込む。早く回復して欲しかった、話を聞きたいこともあるが、やはりアイセルにとっては。

「早く、スリザちゃんの声、聞きたいんだ。怒鳴ってもいい、罵倒してもいいよ、だから声が」

 切なそうに寝顔を覗き込んでいたアイセルは、そっと口づける。冷たい唇は少し荒れていて、硬い。日頃から口紅など化粧をしていないスリザだが、それがよい。過剰に着飾らなくても美しい事を、知っていた。唇を潤すように、そっと舌で嘗め上げる。

「き、ききききさまぁっ! 何をしておるのだっ、このっ、淫乱発情大馬鹿男がっ!」
「ふっぎゃー!」

 いきなり、頭を摑まれ揺さ振られた。そのまま腹部に激痛が走ったと思えば、身体が宙に浮く。そして、そのまま落下した。

「ごっはー!」

 先程スリザが割った窓から、無残にも投げ捨てられた。地面に叩き付けられ、脳震盪を起こしながらもアイセルは。

「お、おはよう……スリザちゃん。ごふっ」

 嬉しそうに、呟いた。上空ではスリザが顔を真っ赤にして、大きく肩で息をしながら罵詈雑言を連呼している。どうやら、正気に戻ったらしい。正直、腹も背も痛いが嬉しい。

「え、何、この状況」

 水を運んできたサイゴンは、先程まで瀕死だったスリザの回復に驚愕しつつ、代わって瀕死のアイセルに意味が解らず狼狽する。
 そんなサイゴンに説明もせず、スリザは運ばれてきた水を一気に飲み干し首を左右に振ってコキコキと鳴らした。片腕ずつ回し、準備を整えると鼻息荒く窓から飛び降り、地面に転がっているアイセルに拳を叩きこむ。
 断末魔に近い絶叫が、周囲に響き渡った。
 窓から身を乗り出し驚異の一撃を見たサイゴンは、瞳を硬く閉じて喉を鳴らす。想像しただけで恐ろしい。


「死ねっ! 死んでしまえ、この変態っ!」
「いたっ、いたっ、いったいっ!」

 スリザの攻撃の手は、止まらない。ボゴッ、ボグッという肉が潰れそうな音がここまで届く。

「……まぁ、一件落着、かなー」

 強打されている鈍い音を訊きながら、サイゴンは乾いた声を出した。止める気はないので、肩を竦めて持ってきた茶を啜る。
 意気揚々としているスリザからは、張り詰めた空気が全く感じられない。これが素のスリザだ、殴られながらもアイセルは嬉しそうだった。悲鳴を上げながらも、歓喜に満ち溢れている気さえする。

「まぁ、確かに変態だよな……。お似合いだけど」

 サイゴンは狂気じみた愛情の確認を見届けてから、部屋を出る。スリザはもう、大丈夫だろう。アイセルの存在が負担を減らしてくれるだろうと確信し、アサギに逢いに行った。 
 その背に、アイセルの悲鳴を受けながら。
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登場人物紹介

アサギ(田上 浅葱) 登場時:11歳(小学6年生)

 DESTINYの主人公を務めている、謎多き人物。

 才色兼備かつ人望の厚い、非の打ち所がない美少女。

 勇者に憧れており、異世界へ勇者として旅立つところから、この物語は始まった。


 正体は●●の●●●。

ユキ(松長 友紀) 登場時:11歳(小学6年生)

 アサギの親友。

 大人しくか弱い美少女だが、何故かアサギと一緒に勇者として異世界へ旅立つ羽目になった。

 トモハルに好意を抱いている。

ミノル(門脇 実) 登場時:12歳(小学6年生)

 アサギのことを嫌いだ、と豪語している少年。

 アサギ達と同じく、勇者として異界へ旅立つ羽目になったが、理不尽さに訝しんでいる。

 トモハルとは家が隣り同士の幼馴染にして悪友。

 多方面で問題児。

トモハル(松下 朋玄) 登場時:11歳(小学6年生)

 容姿端麗、成績優秀であり、アサギと対をなすともてはやされている少年。

 同じく異界へ勇者として旅立つ。

 みんなのまとめ役だが、少々態度が高慢ちきでもあったりする。

 なんだかんだでミノルと親しい幼馴染。

ダイキ(中川 大樹) 登場時:11歳(小学6年生)

 剣道が得意な、寡黙な少年。

 人づきあいが苦手なわけではないが、自分から輪の中に入っていくことに遠慮がち。

 同じく、異世界へ勇者として旅立つことになる。

 やたらと長身で目立つことがコンプレックス。

ケンイチ(大石 健一) 登場時:11歳(小学6年生)

 ミノルと親しい可愛らしい少年だが、怒らせると一番怖い。

 同じく異世界へ勇者として旅立つことになった。

 従順だが、意に反することには静かに反論する。

リョウ(三河 亮) 登場時:11歳(小学6年生)

 作品のメインである一人。アサギは「みーちゃん」と呼んでいた。

 アサギと親しく、出会ってからは常に一緒だったが、勇者に選定されず、地球に取り残されてしまった。

 常にアサギの身を案じ、地球で不思議な能力を発揮している。

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