元魔王は標的に
文字数 5,378文字
嘗ての魔王としての威厳は何処へやら、長い宵闇の黒髪を後ろで一つに束ね、布を口元にあてがい雑巾で床を磨き続けていたハイに、リュウが哀れみの視線を送る。
きゅっきゅっきゅっきゅっきゅっきゅっきゅっ。
「ふー」
リュウとアサギは、顔を見合わせた。
辿り着いた先は、かつて神殿があった場所。しかし、今は主人を長い間失い、荒れ果てた廃墟でしかない。
今立っている場所は、大聖堂であったのだろう。高く太い柱が何本も立ち並んでいるが、数本は倒壊している。これらが倒れて来たら、命はない危うい場所だ。床は大理石で出来ているが、泥や血痕やらで薄汚れている。
「こ、ここは……」
神殿を蘇らせるには、多大な労力が必要だ。一人で行っていては、気が遠くなるどころか死ぬまで終わらない気がした。
アサギは、真正面にある豊満な身体つきの女性像を見つめた。
クレロから話を聞いた、エアリーという名の女神を模したものなのだろう。その像は、両腕が破損してとれていた。まるで、ミロのビーナス。しかし、全体に罅が入っており、いつかは崩れてしまいそうな程脆く見える。
「アサギ! ……と、おまけか。おぉ、おぉ! ありがたや、ありがたや」
熱心に床を磨いていた為来訪者に気づくのが遅れたハイは、興奮して叫びながら全速力で駆け寄ってきた。埃まみれの自分の衣服でまっ黒な手を拭い、アサギの手を握る。
リュウはその様子に顔を顰め低く呻いたが、アサギは気にしなかった。汚れた手は、懸命に働いている人の証だ。にこりと、花のような笑みを浮かべる。
「どうしてここへ?」
「神クレロ様のご配慮で。……あの、ハイ様? 一人きり、なのですか?」
解ってはいたのだが、一応訊いてみた。もしかしたら、別の場所を掃除している人がいるかもしれない、と期待を込めて。
ハイはうっすらと微笑み、額の汗を拭う。
「戒めとして、一人で何処まで復元出来るか挑戦している。ゆえに、手伝い無用」
「手伝うなんて言ってないぐ」
「うるさい、私はアサギと会話を楽しんでいるのだ、邪魔するな。……それにしても、よかった。もう二度と逢えないのかと。クレロ神に感謝せねば」
磨き終えた床に布を敷き、床に座った三人は今はもう懐かしいような思い出を語る。魔王と勇者は、時折戸惑い、苦笑し、俯き、それでも思いを馳せて談笑した。
「魔王アレクの為にも、生きねば。彼は、世が平らかになることを願っていた」
改まった声でハイは告げる。同じ魔王である自分が生き残った事に、何か意味が有る筈だと思っていた。彼の為にも、全力で取り組もうと誓った。
「アレクは、隔たりのない世界を望んでいた。それは私も同じ事、人間同士で争う事は見苦しいが、他種族といがみ合う事も哀しい。しかし、ほんの僅かな“違い”が心に蟠りを植え付け、波紋のように拡散する」
「ぐもー……。他種族同士いがみ合う事なく、全ての命は平等であると重々承知していたのであれば、幻獣達も無残な死を遂げずに済んだぐ。他人を思いやる心とは、難しいが大切な事」
「そう思います。それは、何処の惑星でも同じ。惑星という規模でなく、国は勿論、街や村の中でも差別や苛めはあります。仲良くするって、難しいことなのですね……。姿かたちは違っても、生きていることに変わりはないのに。何故でしょう」
首を捻り、三人は低く呻いた。一人一人の意識を変えることは、難しい。しかし、変わらねば同じ悲劇は幾度も繰り返される。魔王が改心したならば、
例えそれが、微々たるものであったとしても。
「リュウ様の幻獣星は、諍いなど起こらないですよね?」
アサギの問いに、あっけらかんとリュウは笑う。
「まぁ、規模が小さいぐーからな。あと、私達の惑星では支配者が決まっているぐ。村はあるぐーし、長もいるぐーが、全てをまとめるのは王族である、私だぐ。それは、遠い昔からの決まり事だぐ、それに異を唱える者が出てきたら崩れるかもしれないぐーが……」
「ふむ。指導者がまともな思考であれば、従う皆も規律正しくいられるのかもな。……お前、よく反乱起こされなかったな」
しれっと言うハイにリュウは破顔し、殴りかかった。慌てて止めに入ったアサギを挟み、睨み合う。
どうにか話を戻そうと、アサギが捲し立てる。
「え、えーっと、上に立つ人が信頼出来て、下の意見も聞いてくれるなら、良い方向へ進むのだと思います。でも、不思議な事に、そんな中にも何故か反乱分子が」
地球の歴史を紐解いてみても、常に変化し続ける。勝者は正義となり、敗者が悪となる。考えれば考える程、何がよいのか解らない。
暫く三人は熱中していたが、クレロに呼ばれたので帰ることになった。確かに、長居してしまった。
名残惜しく、ハイがアサギを見つめる。だが、これが最後ではない。今後も会えると分かっただけで、感激のあまり涙が零れそうだった。明るく美しい、異界の勇者。全てを魅了する、類稀なる美貌の持ち主。愛おしき存在であり、全てを注ぎたい娘。
キィィィ、カトン……。
「アサギ、また来てくれ」
「勿論です! 次は地球のお土産を持ってきますから」
「おぉ、嬉しいな! アサギの手料理が食べたいものだ、ゆっくりと。それまでに、食事の場所くらい用意しておくよ」
「ふふ、愉しみです! ハイ様のお口に合いそうなものをたくさん作りますね!」
ハイは、アサギをそっと抱き締めた。艶やかな髪を撫で、柔らかな香りを堪能する。
無表情でそれを見ていたリュウが、そっと近づくと耳打ちした。
リュウが動いたので一瞬警戒したハイだが、表情を見て悟った。短いとはいえ共に過ごしてきた仲、常にお道化た掴みどころのない男だが信頼はしている。
リュウは、全てを茶化していない。その険しい表情に、全身の鳥肌が立った。
「……調べて欲しい。“破壊の姫君”とやらを」
アサギには聴こえないように小声で囁き、リュウは離れる。
唇を噛み締めリュウに視線を送ったハイは、神妙に頷いた。水が流れる様に、二人は自然に意図を汲み合う。
「アサギの髪は、甘い花のように咲き匂うな」
真綿に包まれたように優しく温かな香りは、ハイの心を安心させる。
二人が帰り、不気味なほど静まり帰った後。
肩と腰を叩きながら、ハイは大きく伸びをして身体を解した。掃除は中断し、今は亡き両親の部屋へと向かう。
「破壊の姫君、ふむ」
リュウに頼まれたのだ、無下に出来ない。神官の家系だ、何か記述が残されているやもしれぬ。
建物内部は全壊していないものの、至る所は散乱していた。ハイが立ち去った後、何者かが足を踏み入れたのだろう。記憶にあるより、乱雑だ。それは、食べ物を探す動物であったかもしれないし、金品目当ての盗賊や下賤な人間達であったかもしれない。
掃除する箇所がつきないな、と苦笑したが、やりがいがあると意欲を燃やす。
両親の部屋に入る時、流石にハイも緊張した。自分が入ってよいものか、不安に襲われる。過去の自分の愚行に、罪悪感で胸が満たされる。確かに両親は不正や不貞をしていた、それは事実。だが、何もあのように命を奪わずともよかった。
後悔しても遅い。悔い改めたが、親を殺した大罪人である自分は、この場所に相応しくないかもしれない。それでも、自分の手で未来を紡ぎたい。それが贖罪になると信じて。
躊躇したが、意を決して足を踏み入れる。
「父上、母上、入ります」
ひっそりとして、冷たい空気を感じるその場所に恭しく一礼する。
いざ入ってみると、ここを離れた時よりも身長が伸びているので違和感を覚えた。幼き頃の記憶にある夫婦の寝室は、もっと広かった。苦笑し、散らかっている床の本を拾い上げていく。
それらは、聖書がほとんどだった。もしくは、細かに綴られた日報か。特に気になるものはない。埃塗れの本棚に一通り並べ終えると、次は隠し部屋へと出向く。
過去の記録が残されているという、神殿の管理人しか所持していない鍵を使った。その鍵は自分には不要だと思っていたが、憶えていてよかったと安堵する。鍵の場所は、ハイの誕生日を祝う前日に教えられた。当日であれば、今はハイの手元にある金の鍵はない。
奇妙な偶然に身震いする。
鍵は「そのうちハイが所有することになる」と言われたが、まだ両親の部屋にあった。荒らされていたが、鍵は密やかに隠されていた為窃盗から免れたようだ。
部屋にある、暖炉の左側。側壁に一か所だけ、模様がずれている部分がある。そこを押すと、押した部分の右側が突起する。そこが、隠し場所。
鈍く光る金の鍵には、花が彫られていた。花弁が多々ある花に見えるが、何かは解らない。
鍵を差し込むと、錆びたような音が鈍く響いた。長年、開かれたことなどなかったのかもしれない。
この場所あるであろう歴史書に、『跡継ぎである神官の息子は闇に身を堕とし、魔王となって一旦は世界を破滅に導いた』、という追記が必要だと自嘲気味に笑う。
翌朝にすればよかったのだが、何故か脚が勝手に動いていた。松明に火を宿し、黴臭さに顔を顰めながら、口元を手で覆い進む。
ハイを誘うように、松明の炎が怪しく揺らめく。壁に、影がおぼろげに伸びて揺れる。
狭い通路を進むと、小さな空間にびっしりと詰めこまれた部屋に出た。肩を竦め、中央にあった机の上にある蝋燭に火を灯す。半分ほど減っているそれは、ゆぅらりと火を揺らす。
「ふむ、これは時間がかかりそうだ。とりあえず今日はここから調べてみるか」
入口の右にあった棚から無造作に一冊の本を抜き、パラリと紙をめくる。
直様、ハイは眉を顰めた。
「なんだこれは?」
歴史書でも聖書でも、まして家系図でもない。
それは。
『名前を呼んでください、私の名前を呼んでください。
貴方の声が聴きたいです、その熱い声で耳元で囁いてください。
私の、名前を。
けれども私の想いは口にしてはいけないの、伝えてはいけないの。
伝えたら破滅が押し寄せてくるの、みんな消えてしまうの。
だから、声は。
声は、出す事ができないの。
それでも、貴方の声は、聴いていたい……。
ずっと、ずっと、聴いていたい……』
紙をめくり、文字に視線を落とす。首を傾げ、蝋燭の火に透かして読む。
「物語にしか思えないが、これが何か? えーっと、なになに?
『心痛そうに必死に説明する男に、アルゴンキンは低く唸ると傍らの娘の頭を撫でる。言われたアロスは、にっこり微笑むと大きく頷いた。
豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳。軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇を持ち。まるで少女達の夢物語、御伽噺の中のお姫様のような容姿。その愛くるしい顔立ちは、見る者全てを魅了してしまうと言っても過言ではなかった。
アルゴンキンの愛娘、アロス。
最愛の妻が命と引き換えに産み落とした、たった一人の娘だった。』
ははっ。容姿だけならアサギに似ているな。つまり、大層美しい娘、というこだろう。髪は黒だが、こんな感じの表現がアサギに似合うな。どれどれ続きは……。
『一階、玄関の扉の前で、トリフがラングを見上げていた。
その、ゾッとするような視線に、思わずラングは喉から悲鳴を上げそうになる。まだ、二十歳前後の若造、自分はその倍生きているのだが、威圧感のある刺す様な視線に喉を鳴らした。冷たい瞳は、不思議な色合いの紫水晶を連想させる、。性の瞳の奥深く、切っ先鋭い剣先がラングを捕えている気がした。眩暈がした、気づけば心臓にそれをつけ立てられたように思えた。』
ふむぅ、あのトビィとかいう小僧に似ている気がするな、というか容姿は同じだ。これは面白い、私も出てきたりしてな!」
ハイはそれが奇妙だとは思いつつも、深く考えず読み更けた。
暫くして、不機嫌そうに顔を本から離す。
本は、閉じられた。
「……なんだ、この終わり方は。これではアサギに似た少女が気の毒ではないか、納得いかんな」
幸せな物語ではなかった。
しかし、どうしてこのような物語がここに保管されているのか。過去の記録だとするなれば、何故物語になっているのか。
低く呻きながら訝しげに棚に戻し、隣の本を手にする。
欠伸をしつつ眼を落とすが、疲れて霞むため何度か瞬きする。読書するには、明かりが弱い。
次は、普通の歴史書だった。
その次はこの神殿の見取り図で、抜け道が記されている。
相当眠くなってきたので、ハイは静かにその場を後にした。
辛うじて眠れる場所を作った荒れ放題の自室に戻り、洗って日干しした柔らかな布に包まると酷使した瞳を休ませるように閉じる。
「湯浴みは明日だ、今日は最早動けぬ……」
呟きながら、直様深い眠りに落ちていく。
コホッ、と軽い咳をして。
黴のせいなのか、微妙に喉が痛い気がした。
翌日も、ハイは本を漁った。以後、物語の本は出てこなかったのだが、運命の出遭いを果たすまで残り僅か。
半分以上、ハイはその場の本を読み漁っていた。
「コホッケホッ……ふむぅ、喉の調子が悪いな。薬湯でも飲むか」
キィィィ、カトン。
代々護られてきた部屋に侵入した鼠が、ハイの足元に纏わりついていた。