初恋事情
文字数 4,752文字
アサギの弟達は人懐っこい。口下手なダイキもすぐに打ち解け、丁寧にルアーの使い分けや投げ方を教えていた。
穏やかな笑みを浮かべているダイキから目を離すと、トモハルとアサギは糸を垂らす。鳥の囀りを聞きながら、湖面に反射する光を瞳を細めて見つめた。
ブラックバスは餌で釣ることも可能な外来種だが、疑似餌を巧みに動かし、魚と格闘して楽しむことが出来る釣りだ。ゆえに、スポーツフィッシングと呼ばれたりもする。投入するだけでは釣れないことは承知で、二人は雰囲気を愉しんでいた。
「少しは落ち着いた?」
不意にそう切り出したトモハルに、アサギは小さく笑った。
「ありがとう、トモハル。へっきだよ」
「無理はしないようにね。……ところで、前から訊きたかったんだけどさ、嫌ならスルーして。ミノルを好きになったきっかけって何? アサギと全然違うから惹かれたとか? アイツ、頭悪いし乱暴だし……共通点ないよね」
それは言い過ぎではないかと苦笑したアサギは、肩を竦め軽く竿を揺らした。波紋が広がっていく水面を、遠目に眺める。
「話すことは嫌じゃないよ、大事な思い出だもの。あのね、幼稚園が一緒だったの」
「それは初耳」
ミノルからはそんな話を聞いたことがなかったので、驚いた。同じ様に竿を揺らしながら返答したトモハルだが、釣る気など全くない。今日は、アサギにとことん付き合うつもりだ。
「多分、ミノルは忘れていると思う。その時は、とっても仲が良かったんだよ。びっくりでしょう? 『大きくなったら結婚しようね』って言われて、嬉しくて」
アサギは、薄く笑った。声のトーンは明るくなったが、その横顔は寂しそうに翳って見える。胸が締め付けられたトモハルは、戸惑いつつも続きを促す。
「へぇ。幼稚園児って意外とませてるもんな……それで?」
「え? それだけだよ?」
「え……そ、そっか」
唖然としたトモハルの視線の先で、アサギは小首を傾げてきょとんとしている。
二人の間に沈黙が流れた。
引き攣った笑みを浮かべ、トモハルは声を絞り出す。
「え、その言葉で好きになったの? 幼稚園から好きだったって事!?」
「う、うん、そうだよ。……とにかく嬉しくて、幸せだったものだから。そんな
幼稚園児なのに、その『結婚しようね』という言葉を信じたのだろうか。トモハルは、アサギの性格を思い違えていたかもしれないと思った。
「……い、意外だなぁ。ま、まぁ恋に堕ちるってそんなものかもしれないけど」
拍子抜けして一旦リールを巻き、大きく振り被ってルアーを池に投げたトモハルは隣のアサギを見つめる。ぼんやりと水面を見つめている姿は、確かに美しく、儚い雰囲気の美少女だ。とても勇者として魔物と戦っていたとは思えない。
「現実的な子かと思ってたケド、違うんだなぁ。案外単純というか、ロマンチストというか、良く言えば純粋、になるのかな。危なっかしい」
口籠ってそう呟く。意外なアサギの一面を知ることが出来て嬉しい反面、不安になってきた。側で見ていてあげないと、何か大きな間違いをしでかしそうだと。
親のような心境を抱いているトモハルなど知らず、アサギは開口する。
「四年生の時に同じクラスになって、林間学校が同じ班だったの。あの時ね、一緒に星を見上げることが出来て、嬉しかったんだ。カレーを作って、柿狩りもしたんだよね、美味しかった。トモハルも同じクラスだったよね? 班は違ったけど」
思い出を楽しそうに語るアサギに頷くだけで、トモハルは口を挟まなかった。そして思い出す。以前、ミノルも同じことを話していたと。
あれはピョートルで転送陣に入り、ジェノヴァへ戻った時の事だ。ミノルは、雅味ゆたかな柿に蕩けていた。
『あれ以上に美味い味噌汁を、未だかつて飲んだことが無い』
アサギがよそってくれた味噌汁を、ミノルはこう表現した。想いは通じ合っていただろうに、何処でボタンを掛け違えたのか。
「いつだったか……。絵が上手い子がね、女の子の絵を描いたの。ショートと、セミロングと、ロングの。『どの子が一番好き?』ってクラスの男の子達に訊いててね、ミノルはセミロングを指差したの」
自嘲気味に微笑んだアサギに、トモハルは躊躇しつつ口を挟む。
「それでアサギの髪、短くしたり伸ばしたりしてないんだ」
「うん。セミロングよりは短いけど……」
トモハルは、記憶の中のアサギと目の前にいるアサギを照らし合わせた。確かに、常に髪の長さは同じだ。それがミノルの好みに合わせていたからだったとは、驚愕である。
「なんとなく……ミノルは、アサギの髪の長さの絵を選んだだけな気がする」
アサギに聞こえないように小声で呟きながら、リールを動かし竿を立てる。
「ありがとう、トモハル。とても楽になったよ、これはユキしか知らないことだったから」
頭上でトンビが鳴いた。
それが合図の様に、一呼吸置いてからトモハルが乾いた唇を舐めて口を開く。
「……別れたんだよな」
訊くべきか迷っていたが、有耶無耶なのは嫌いだ。トモハルの声は若干震えていたが、気にせずアサギは大きく頷いて笑う。
「うん」
「そっか……ごめんな」
「なんでトモハルが謝るの?」
「……アイツは俺の幼馴染で友達だから」
アサギは、力いっぱいルアーを投げた。ぼちゃん、と小気味よい音が響き渡る。
「私、
「待って、それは」
キィィィ、カトン。
アサギの言葉が引っかかったトモハルは、顔を上げた。けれども、真剣に糸の先を見つめている姿に言葉を飲み込む。釣りに集中しているのか、考え事をしているのか。邪魔をしないように、自分も釣りに本腰を入れることにする。
「気にするなよ、友達だし仲間だし。俺達、対の勇者だろ」
「うん……」
か細く返事したアサギは、池の中に吸い込まれていく糸を凝視している。
……私、やっぱりみんなと何かが違う。どうしよう。
その瞳に涙が浮かんでいたことなど、誰も知らない。湧き上がった涙は、声に出せない思いのように、瞳に浮かんだまま。俯いたら零れてしまうので、青空を見上げる。太陽の光が眩しい。空は残酷なほど美しい紺碧で、吸い込まれそうな優しい色合いの雲が穏やかに浮かんでいた。
まだ釣りを楽しみたい弟達をダイキが引き受けてくれたので、アサギは昼過ぎに帰宅した。トモハルもミノルも残って釣りをしていたが、結局ほとんど転寝をしていたと後でダイキから聞いた。
家に戻ったアサギは、急いで菓子を作り始める。手軽に作れるバナナケーキを選択し、手際よく調理する。何度か作った事があるので、得意の一品だ。二時間後には出来上がり、甘い香りのするそのケーキを満足そうに見つめる。何等分かに切り分け、端は弟達に渡す為に皿に乗せておいた。
真ん中部分の綺麗な個所は、袋に小分けしリボンで縛るとバッグに入れる。
向かう先は、異界。
天界城でクレロと会話していたトビィの姿を見つけるとすぐさま駆け寄り、ハイの元へ行く事を提案した。アサギに会えたので機嫌の良いトビィは、一つ返事で同意する。
「二人きりが好ましいが、一緒にいられるならばそれでよい。行こうか」
リュウも一緒に行くと約束していたので、クレロに呼びかけを頼む。一応王なので、忙しかったら諦めようと思ったが、様子を覗いた三人は木の上で爆睡している彼を見て絶句する。どうやら勤勉に疲れ逃亡し、隠れて昼寝をしていたらしい。
気まずそうにアサギはトビィを見上げる。
冷めた瞳のトビィが、クレロを軽く睨み付けた。肩を竦めたクレロがリュウを無理やり起こして、こちらへ呼び寄せる。
「助かったぐ! 暇過ぎて死にそうだったぐ!」
爽やかな笑顔でやって来たリュウは、軽快な足取りだった。大嫌いな勤勉から逃れたのだ、浮足立つだろう。自分の我儘ではなく、アサギに呼ばれたという正当な理由があるので尚更だ。
呆れて溜息を吐いたトビィだが、何も言わず三人でハイのいる惑星ハンニヴァルへと移動した。アサギとリュウには二度目の、トビィは初めての訪問である。
ハイが住まう神殿は、鬱蒼とした森の中にある。
陽の光が時折差し込む程度で、普段は暗い。神殿から少し離れるだけで開けた場所に出るのだが、侵入を拒む聖域のような雰囲気がある。
いつかはこの森を散策したいと、アサギは思って木々を見つめた。何か語り掛けてくるような、青々とした葉は見事だ。
ハイが身を闇に堕とし、ここを拠点として人間達を根絶やしにすべく動いていたが、自然は破壊されていない。神殿という人間の手で造り上げた物は毀損したものの、その辺りは彼らしいと思った。
三人は神殿を目指して歩いた。
アサギは申し訳なさそうにトビィを見上げ、控え目に声をかける。クレロと、何を話していたのだろう。
「用事、大丈夫ですか? 忙しかったです?」
「大した用事ではない、気にするな。そもそもアサギ優先に決まっているだろう、惑星クレオが崩壊しても、オレはアサギを選ぶ」
「だぐー」
物騒な事をすんなりと口にしたトビィに、アサギは苦笑するしかなかった。
だが、リュウは深く同意し神妙に頷いている。
神官ハイ・ラゥ・シュリップが住まう崩れた神殿に、足を踏み入れる。修復を一人でするなど、時間が幾らあっても不可能だ。だが、自分への戒めとして貫き通すのだろう。
ハイを捜し、三人は歩く。今日も掃除をしているのだと思っていたのだが、姿が見えない。
「ハイー? 何処に居るぐー? 諦めてサボっているぐーか?」
名を呼んでも返答はない、訝しんだリュウは焦燥感に駆られて足を速めた。嫌な予感がした、まさかハイに限ってそんなことはないだろうが、何故か胸が鷲掴みにされたように苦しい。
眉を顰め、トビィもようやく異様な雰囲気を察した。狼狽しているアサギの肩を抱きながら、背の剣を抜くと構え様子を窺う。慎重に歩きながら、音を聞き分ける。外から聞こえる鳥の鳴き声と、軋む床の音が絶妙に呼応しているようで不気味だ。
キシ、キシッ。
一瞬、風が止んだ気がした。
「ハイ! 私達が遊びに来てやったんだ、早く出てこないか!」
リュウの声が物哀しげに響き渡り、舌打ちしながら乱暴に扉を開いていく。それでもハイからの返事もなければ、姿も見えない。
ケーキの入ったバッグを胸に抱き、震えながら歩いていたアサギが辿り着いた場所。導かれるように、その扉の前に立った。じっと見つめ、喉を鳴らす。
アサギの異変に気がつき、トビィが扉をゆっくりと押した。キキィ、と乾いた音を出しながら開くと、リュウが駆け寄る。
身構えているトビィの後ろから、アサギが覗き込む。
床に何冊か本が散らばっている小部屋だった。
妙な気配はしないが、最初にトビィが侵入する。しかし、部屋に入らずとも見えた真正面の寝台に、三人は同時に息を飲んだ。
「えっ」
弾かれたように部屋に侵入したのはリュウだった。二人を押し退け駆け寄ると、その上で眠っているハイを抱き起こす。
アサギの空気を切り裂くような悲鳴が響き渡ると、トビィは反射的にその痙攣しそうな身体を抱きすくめた。その光景から視線を遮るために。
悲鳴を聞きながら、リュウが乾いた笑い声を出した。ハイの身体を何度も揺すり叩くが、反応はない。微塵も動かない。
解っていた、死んでいるから反応などありはしない。血の気の失せた顔色、だらん、と下りている腕、身体から立ち上る死者の匂い。
「な、何やってるんだよ魔王ハイ! お、おい、意味が解らない、ハイ、ハイ!」