外伝7『埋もれた伝承』6:不穏な影
文字数 4,490文字
渦中のアミィはまさか自分のことで男らが沸いているとは思わず、窓から外を見上げていた。
夜這いの儀式に関して、
祭りが終わり、明日からいつもの日常に戻る。今までならそうだったが、今年は違う。
大人になるというのは億劫な事だと、深い溜息を吐いた。
「トロワが私の旦那様になるのかな。……変な感じ」
ぼんやりとしていると、叫び声が近づいてきた。驚いて立ち上がり、その声に耳を澄ます。
「えっ、トリュフェ?」
妙に甲高い声だが、間違いなく彼だ。
ドンドンドン!
足音は家の前で止まり、激しく扉が叩かれる。
慌てて扉を開くと、喜色満面のトリュフェと視線が絡む。
「アミィ! やったぞ、オレが引き当てた!」
「えっ、えっと……」
狼狽していると、強く抱き締められた。アミィは呼吸が止まりそうになるほど身体中が熱く火照るのを感じたが、懸命に意味を考える。
「だから言っただろう、“大丈夫”だと! 入れてくれと言ったんだ、遅かれ早かれこうなるのだから」
「えっ、えっ」
トリュフェは雄叫びを上げ、すでに我が物だと頬に口付ける。
「二日後だ。今から太陽が二回顔を出した夜に、オレはアミィの家に入る」
森で迷ったように混乱するアミィだが、必死に知恵を絞って彼の言う事を理解しようとした。
「え、えっと……。それはつまり、夜這いに来るということ? 私に?」
「当たり前だろう、何を言ってるんだ」
「オルヴィスじゃなくて?」
「は? アミィに決まってるだろ、酒を呑み過ぎたのか?」
不思議そうな顔をして、トリュフェは額同士を密着させる。
「ひゃあっ」
「少し熱いな……。オレがいない時に酒を呑むなよ、危なっかしい」
呑んでない、と言いたいが、動悸が激しくて言葉が出てこない。アミィは間近で微笑んでいるトリュフェを見て、脚から力が抜けていくのを感じた。
「その時、一緒に酒を呑もう。アミィが作っていた果実酒があるだろ? あれと、スープが飲みたいな。肉は明日にでも調達するから、仕込んでくれ」
「う、うん……。えっと、二日後の夜だよね」
「そう。オレが一番最初にアミィに夜這いする権利を得た」
アミィの頬を両手で優しく包み、鼻先に口づける。
「トリュフェが……来てくれるの? 本当に?」
「何度も言わせるな、本当だ」
信じられなかった。
アミィは涙を零し、感極まって言葉を詰まらせる。喜びで全身が震えていた。
「だから、大丈夫だ」
大きな手で撫でられ、瞼を閉じる。
トリュフェは声高らかに拳を突き上げ、神に感謝した。そして、咆哮する。
「やれやれ、若いとは羨ましい」
アミィに挨拶に来たベッカーだが、余憤さめやらぬ様子だと見て取れたので踵を返す。
「随分余裕だな」
抑揚のない声で話しかけられ、ベッカーは肩を竦める。まだ歓喜の声を上げているトリュフェに軽く視線を投げてから、トロワを真正面から見つめた。
「順番など、意味をなさないよ。要は、彼女を
声に得意の響きをのせ、そのまま去る。
舌打ちし、トロワは足を踏み鳴らした。抱き締め合う想い人と双子の兄を、遠目に見つめて。
アミィに夜這いする最初の男は、トリュフェ。最後がトロワ。
日付は穢れを取り払った亀を用い、その甲羅を叩き割って占っている。これは、神からの神託である。
二日後だと告げられ、それでも長いと感じたトリュフェは湧き上がる興奮で身体が砕けそうだった。今宵にでも忍び込みたい衝動に駆られたが、掟は絶対である。「楽しみは後にとっておくもの」と自身に言い聞かせ耐えた。
トリュフェは、翌朝からアミィに食事を分け与えた。普段は朝のみだが、夜も食を共にして時間を過ごす。婚姻の予行練習のつもりだった。
二十日後だと言われたトロワは、以前と同じように花を贈った。違う種類の花を、夜に贈り続ける。生けられる花は賑やかになっていった。
アミィは、夜這いについて説明を受けた。
当日は太陽が真上にくると、祈祷師の館裏にある滝で念入りに身体を清める。そして、陽が落ちる前に家に入り、決められた人物が来るのを静かに待たねばならない。
その男が望むであろう食事を用意するのも良いと教えられた。
あとは、身をまかせるだけ。
「貴女には、十一の殿方が向かいます。誇りに思いなさい、滅多にない人数よ」
「誇りに……承知しました」
「その中から、一人の伴侶を選ぶのです。貴女の心と身体が、必ず誰かを求める。素直に従えばいいのよ」
「はい」
「女としての、このうえない喜びを教えてくれるわ。愛される素晴らしさを。自分を最も満たしてくれた男を選びなさい」
「…………」
トリュフェとトロワの母は、最初の相手が自分の息子だということもあり、アミィによい事ばかりを教えた。
それは、女になる儀式であり誰もが通る道であるということ。神から与えられた快楽を得られる時間だということ。神聖な儀式であり、軽んじてはいけないということ。
しかし、選ぶも何も、アミィはすでに男を決めていた。トリュフェ以外、考えられない。
「あの、私は」
「村の掟は絶対。もし貴女に想い人がいたとしても、それは口にしてはなりません。夜這い期間が終わり、それでも尚彼のことを想っているのなら選びなさい。神様はきちんと見ています」
これが、この村の掟。
例え意中の男が夜這いに参加していても、それで終わりではない。参加者全員に抱かれなければならないのだ。
掟を破れば、村は滅亡に追いやられる。そう伝わってきたので、異例はない。
アミィが想いを抱いている相手が自分の息子であったとしても、母親には手助けなど出来なかった。それこそ、神への裏切り行為だ。
多くの女は、“期間中に”身籠る。誰の子か分からなくとも、育てていくのも掟の一つだ。
「神の御心あれ」
「……神の御心あれ」
アミィは一人になると、部屋の隅で膝を抱え丸くなった。放心状態で身体を震わせる。
夜這いの詳細は、産まれたままの姿で
「これが、神様の試練でしょうか」
ぼんやりとそんなことを思ったが、アミィはまだ“何を”されるのか分かっていなかった。
繊月に雲がかかり闇夜で覆われたその村の片隅で、祈祷師が複雑な表情を浮かべる。胸には、月と同じように雲がかかっていた。
どうにも気になり、悩んだ末、村長のもとへ足を運ぶ。
「占いに使用した亀が」
押し殺した声で、そう切り出した。
占いに用いた、甲羅を割られた亀は死ぬ。亀は神の遣いであり、死ぬという事は役目を全うし還ったということ。火葬し弔うまでが祈祷師の役目だが、瀕死の状態で一匹生きていたことが判明した。
こんなことは、初めてだった。
「そんな馬鹿な! 何かの間違いでは」
「いえ……真実です。神のもとへ還らず現世にとどまったことが、大変気がかりでございます」
前例がないことだったので、祈祷師も村長も言い知れぬ不安に足元をすくわれそうになる。
「一体、誰の日取りを決めた亀なのだ」
「それが……」
祈祷師は口籠り、その名を口にするのも恐ろしいとばかりに躊躇う。
二人の表情は、凍てついた真冬の湖に張った分厚い氷のようだった。
明日、いよいよ最初の夜這いを控えたアミィは心ここにあらずだった。いつも機敏だが、今日は何をするにも上の空で動きが鈍い。
だが、オルヴィスからの嫌味は気にせず聞き流すことが出来た。
「はぁ……」
信心深いアミィだが、今になって村の掟に疑問を抱かずにはいられない。
神の機嫌を損なえば雷が落ち森が焼け、大雨が降り続き川が氾濫する。植物は死に絶え、山が崩れ地面が轟く。そんな災厄が、村を襲うという。
しかし、本当にそうなのだろうか。神は、広い心で全てを受け入れる存在ではないのか。
慕い合う二人を祝福してくれるものではないのか。
大きな溜息を吐き早々に家に引きこもったアミィは、水を失った花のように萎れた。
その日もトリュフェに誘われ彼の家へ出向いたが、食事が喉を通らない。顔を見たら安堵したが、言葉にならぬ不安が胸を過る。
……いっそのこと、このまま二人で消える事が出来たらよいのに。
そう思ったが、彼の家族がいるので口にすることはなかった。
「具合が悪いのか?」
「多分、緊張しているだけだと思う。……あの、トリュフェ? 私は明日、果実酒とスープを用意して待っているだけでいいんだよね? 他に何をしたらいいの? 上手く出来るかな」
心細そうに告げるので、トリュフェは優しく頭を撫でた。
「それだけでいい。後はオレに任せて」
「うん。ありがとう」
仲睦まじく会話している二人を両親が見守り、トロワは無言で肉を頬張っている。
「大丈夫よ、アミィちゃん。トリュフェに任せなさい」
「はい。ありがとうございます、頑張ります」
「早目に休みなさい。明日は昼から忙しい」
「はい」
アミィを自宅に送り届けたトリュフェは、「また、明日」と耳元で囁いた。
「緊張する事はない、相手はオレだ」
無邪気に笑ったトリュフェに、アミィはぎこちなく微笑んだ。何故こんなに胸が掻き乱されるのか分からず、戸惑う。
「じゃあ、明日な! おやすみ」
「おやすみなさい。明日はよろしくおねがいします」
扉を閉め深呼吸を繰り返し、鍋を覗き込む。
アミィが作る野菜スープはトリュフェの大好物で、いつも美味しいと褒めてくれる。今回は、それに鹿の肉が入っている。
朝から煮込んでいたそれの味見をし、上出来な味に柔らかく微笑む。
これを食べながら会話をし、眠れば良いのだろう。
しかし、それで終わりではない。翌日も夜這いの日だが、
コンコンコン。
扉が叩かれた。
トロワが今日も花を届けに来たのだろうと思い、鍋に蓋をして立ち上がる。
「はい」
そこには、強張った表情のトロワが立っていた。右手に、桃色の花を持って。
「こんばんは。いつもありがとう」
微笑み会釈をしたアミィの髪を撫でながら、トロワはいつものようにそっと一輪の花を差し出した。そして、何も言わずただじっと見つめる。
「綺麗なお花!」
「香りが良い花だ。蜂蜜のように甘い」
「わぁ、どんなだ、ろ……?」
花を受け取り鼻を寄せると、目の前がぐらりと歪んだ。
「あ、れ?」
全力で走った後のように、足がガクガクと震え力が入らない。
倒れそうな身体が、トロワによって支えられた。
「あ、れ、え、ぁ」
唇が痙攣し、呼吸が苦しい。視界が霞む中、縋るようにトロワを見つめる。
「すまない、少しの辛抱だ」
耳元で憂苦を含んだ声が聞こえたが、アミィの意識はそこで途切れた。
ただ、逞しく温かな腕に抱かれていたことだけは憶えている。