外伝4『月影の晩に』21:滅びし土の国
文字数 10,054文字
「いますね、トモハラ、ミノリ、キルフェ!」
「はっ、お傍に」
今現在、残っているのはアイラを含めて五人。声を出さぬ様必死に声を押し殺して泣いているマローの為にも、一刻も早く次の安全な場所へ移動せねばならない。
「何故、解ったのでしょう。あんな隠し扉から、何故こちら側が……」
焦燥感に駆られ、アイラは肺が胸壁に張り付いたような息苦しさを感じた。しかし、気力でどうにか持ちこたえる。
けれども、アイラと違い、マローには忍耐力など備わっていなかった。
「もう駄目、走れないっ」
転ぶように立ち止まったマローは、ぐったりとして壁にもたれかかった。
アイラは無言で小剣を取り出し、マローのドレスの裾を切り、せめて走りやすいように脚を出す。騎士らが気まずそうに視線を逸らしたが、今はそれどころではない。
「頑張って、マロー。何処かに身を潜めるまで、耐えるのです。今ここで、捕まってはなりません」
叱咤するような鋭いアイラの声に、マローは首を横に振った。
「ねぇ、何故逃げなければならないの? どうしてこんなことになったの? 何か悪いこと、した?」
「それ、は……」
アイラは、言い淀んだ。確かに、彼らの目的は解らない。
「ねぇ、もしかして逃げるからこんなことになってしまったのでは? ベルガー様もトレベレス様も、きっと酷いことなんてしないわよ」
楽観的なマローに、ミノリが頬を引きつらせる。人が死ぬのを間近で見ておきながらこの発言が出来ることに、心底震えた。とても、女王としての器などない。
真剣な眼差しで、アイラは優しくマローを宥めた。
「いいえ、マロー。残念ですがそれは有り得ません、貴女も見たでしょう? 私達を護るため、騎士達が幾人も倒れました。先程から、執拗に私達を追いかけてきています」
「一体、何が目的なの?」
「それは、解りませんが……」
姫君達は、本当に予言について知らされていない。騎士ら三人は気まずそうに顔を見合わせた、王子達の目的など一つしかないが、それを今姫に告げて良いものか思い悩む。
これ以上の混乱は避けねばと、トモハラが二人の間に割って入る。
「これ以上話を続けている余裕はありません、今は逃げることだけを考えて。マロー様、ご無礼をお許し下さい」
「きゃっ」
トモハラは有無を言わさずマローを正面から抱き抱え、そのまま走り出した。
「ぶ、無礼者! 離しなさい、汚らわしいっ」
「お叱りは後で受けます、どうか辛抱なさってください」
密着する肌に赤面したマローは突き放そうと暴れた、だが、トモハラは俄然として離さず、それどころかきつく抱き締める。
「必ず、命に代えて御守致します。マロー様だけは護り抜くと誓いますから」
「あ、当たり前でしょ! そんなこと今更言われなくても……」
「マロー様の為ならば、俺は死んでも構いません。寧ろ、本望です」
トモハラのひたむきな表情を見上げ、マローは一気に力が抜けるのを感じた。わざと悪態をつき「当然よ、騎士は姫の為に死ぬものなのよ。それが崇高なる騎士道だと本で読んだわ!」と呟く。まだ言い足りないが、これ以上言葉が思いつかずに口を閉ざした。何か言わねば、自分の早鐘の様な心臓の音が届いてしまいそうで怖い。火照る頬は力強い腕によって、鎮まりそうもない。堂々たる鼻梁に少し下がり気味の瞳、きりりとした眉を見つめると、それだけで身体の奥がジンと痺れてしまう。
……一体、これはなんなの!? どうしてこの男は、こうも私の心を掻き乱すのっ!
唇を噛み、マローは瞳を閉じる。この感情を恋と呼ぶのだと仮に誰かが教えていたとしても、彼女は素直に受け入れられなかっただろう。
当に、心の奥底では知っているのに。魂が震えていると、痛感しているのに。
そんなマローを見つめてから、アイラが怒気を含んだ口調でトモハラに声をかけた。
「トモハラ、訂正してください。マローを護って頂くことにはとても感謝しています、ですが、死んでも構わないなどと口にしないでください。トモハラが死んでしまったら、次は誰がマローを護るのですか? 護り抜くと誓うなら、トモハラ、貴方自身も決して死なないと誓ってください」
我に返り、トモハラは謝罪した。しかし、死んでもいいと思っていたのは確かだ。こうしてマローと会話をし、抱き締めているのだから。もう、十分な程に満たされた。
姫からは、甘い花の香りが漂う。
「トモハラ」
「はい、アイラ様」
「マローを、宜しくお願いします」
「解りました」
緑の髪の姫君は、茶色の髪の騎士に、愛する黒髪の妹を託した。彼の事を信頼していた、城内で何度もみかけたトモハラのマローを見つめる瞳に、偽りはないと判断した。
マローを抱き締めながら、トモハラは走る。殿はミノリが務め、先頭は道を先導するアイラだ。
「この先に再び、部屋があります。誰か怪我は?」
「皆、無事です」
「わかりました、では喉だけ潤しましょう」
逸る気持ちを抑える。もう少し頑張れば、馬車小屋に辿り着ける筈だった。
敵の気配を伺いながら隠し部屋へと入り込むと、五人は大きな溜息を吐いて床に座り込む。特にマローを抱えているトモハラは、体力の消耗が激しい。項垂れて壁に寄りかかり、気だるそうに俯く。
「これを、トモハラ」
アイラは、率先して皆に水を配布した。それから、疲労回復に役立つという薬草を噛ませる。差し出された水を力なく受け取ったものの、無言でトモハラは飲む。その気力があることに、胸を撫で下ろした。
「ここから先は、路が細い階段が続きます。マロー、歩いてください。私と手を繋ぎましょう」
「うん、分かった。頑張る、頑張るから、後でゆっくり休ませて」
「えぇ、そうしましょう。安全な場所で、みんなで眠りましょうね」
宥める様に告げたアイラは、そっとマローの頬を撫でた。疲れているが、その顔はこんな時でも愛らしい。そっと汚れた頬を自分のドレスで拭ってから、額に口付けを落とす。
「頑張って。もう少しの辛抱です」
「うん、うん……」
五人は物音を立てぬ様、懸命に逃亡を続けた。アイラの指示を信じ、従い、絶望的な状況下で希望を見出そうとした。
けれども。
「こっちだー、居たぞー!」
「えっ!? ど、どうして!?」
後ろから、怒鳴り声が聞こえた。アイラは痛いほどにマローの手首を握り締め、引き摺るように焦って階段を上る。
見かねたキルフェが意を決し、立ち止まって剣を抜き抜いた。足止め覚悟で、死ぬつもりだった。
「お逃げ下さい、アイラ様!」
「キルフェ、未だです! 敵の姿が見えるまでは、少しでも遠くへ皆で逃げるのです!」
怒鳴ってアイラはそれを止めた。
渋るキルフェだが、ミノリとアイラに凄まれ断腸の思いで剣を収める。
階段の上部にいるのはこちらだ、有利に戦えるだろうがそれは今ではない。問題は追っ手が何人いるかによる、数人であればここで確実に倒しておくのが利巧かもしれない。しかし、すでにこの場所は特定されてしまった、人が集まるのも時間の問題だろう。ならば、確実に逃げ切る為に好機を計る。
通気口用の小さな窓があった、何気なく見上げると外が明るい。朝が来たのか、と思ったがそうではない。街も、業火に包まれていると気づいた。唖然として足を止めそうになったが、唇を強く噛締めて走り続ける。城だけではなく、まさか城下町にも手が及んでいるなどアイラは夢にも思わなかった。
……どうして、こんな恐ろしい事を。
数日前まで笑顔で接してくれていた二人を思い浮かべ、アイラは背筋が凍った。あの頃にはすでに、こうすることを企てていたのだろうか。精一杯もてなしていたつもりだったが、粗相があったのだろうか。もし母親である偉大な女王が居たのならば、この不測の事態は避けられていただろうにと悔やむ。
自分の無力さに、深い絶望感を味わった。
「もうすぐ下ります! あと少しですからね!」
「はっ!」
けれども、押し潰された悲鳴と共に何かが倒れる音が聞こえ、アイラの顔に怯えが浮かぶ。
「キルフェ!」
ミノリの切羽詰まった叫びに、アイラは足を止めた。マローをトモハラに任せ、階段を戻る。
「あぁっ」
キルフェが、脂汗を額に滲ませながら壁に寄りかかっている。その右足には、弓矢が刺さっていた、風を切る音が聞こえるのは、追撃だろう。
「捕まって!」
アイラはミノリと共に彼を助け起した。
しかし、キルフェはそれを躍起になって振りほどくと、激昂してアイラを突き飛ばす。
「何故戻られた! 早くお逃げ下さい」
「駄目です!」
「ミノリ! 上官の命令だ、姫をお連れして逃げろ!」
「……くっそぉっ!」
気の張った厳しい口ぶりでミノリを睨みつけると、キルフェは剣を引き抜いた。先程の部屋でくすねてきた油を階段へと撒き、せめてもの足掻きをする。
「敵が近寄りましたらば、火を放ちます! さぁ、早く」
ミノリは、抵抗するアイラを引きずってトモハラと合流した。
四人の足音が遠ざかっていくのを確認し満足して微笑んだキルフェは、その命が消える前に油に火を放った。これで敵を全滅させられるわけなどない、けれども多少なりとも足止めにはなる。瞳を閉じ、剣を構える。炎を掻い潜ってやってきた弓矢を、叩き落すことに集中する。
「あぁ、アイラ姫……最初にお逢いした時は、正直胡散臭い姫だと思っておりました。美しい花には棘がある、その言葉通りの姫だと。あのように清らかな姫がこの世に存在する筈がないと、思い込んでおりました。ですが、貴女は気高く何処までも清純で美しい。お仕え出来、至福の極みでした。どうか、お健やかに」
「立派だな、命を捨て姫を逃すか」
聞き覚えのある声に、キルフェは瞳を大きく見開いた。見れば、ベルガーにトレベレスが真下に迫っている。憎悪を籠めた瞳で睨み付け、その敵の名を咆哮しながら階段を蹴り落下する。二人に向けて剣を突き立てる、弓矢が放たれようとも重力で身体は落ちる。軽症で構わない、戦の将が傷を負えば何かが変わると僅かな期待を抱く。
だが、ベルガーとトレベレスは捨て身のキルフェを鼻で哂い、脇の隠し通路に身を潜めた。
部下の何人かは、捨て身のキルフェの下敷きとなった。また、撒かれた油で階段を思うように上れず、火が回って悲鳴を上げた。
確かに、足止めは出来た。けれども、痛手を負わせたかった二人は皮肉にも無傷だった。部下達に消火活動を促し、鎮火すれば堂々とベルガーとトレベレスは階段を上る。
「近いな……逃がすな、追い詰めろ!」
キルフェの特攻など知らず、若い四人は懸命に走った。しかし、追い詰める側と追い詰められる側では精神的に余裕が違う、それは体力に影響を及ぼす。
意を決し、トモハラは急に力強くマローの腕を掴むと、そのままバランスを崩し階段から落ちそうになった華奢な身体を優しく抱き締める。
そうして、そっと。触れるか触れないかの口付けを、した。
きょとん、としたマローだが、急に全身を真っ赤にすると唇を震わす。
「……好きでした、ずっと。これからも、お慕いしております。マロー姫だけを、愛しております」
マローが何か言う前に、トモハラがそう告げた。慈しむような眼差しで優しく微笑み、髪を撫でる。
「宝石よりも尊く眩い笑顔が、好きです。……どうか、ご無事で」
死を覚悟した男の瞳に、アイラの全身を戦慄が走った。
そしてマローは瞬きする事も出来ず、呼吸も忘れて雷に打たれたように硬直する。
マローの脇を通り抜け、ミノリの脇を通り抜け、止めるアイラを無視したトモハラは、決心の臍を固め剣を引き抜いた。
「駄目です、トモハラ!」
弾かれたようにして、アイラが前に出た。両手を広げて通すまいと身体を張るが、妙に澄んだ笑顔でトモハラは首を横に振る。
「無理です、直に追いつかれます。ベルガーとトレベレスの声がしました、完全に把握されています。時間稼ぎをして貴女方を逃がさないと、他の騎士達に面目が」
「私が囮になりますから、マローを連れて逃げなさい!」
「それならば、俺が!」
階段を下りて来たミノリは、二人の前に躍り出た。
「姫君達は、お逃げ下さい! 後で合流すると誓いますから、願わくば俺達の無事を祈りながら先へ!」
振り返ったミノリの瞳には、動かすことが出来ない堅固な決心が浮かんでいる。どこか満足した様な彼の姿に、アイラは喉を鳴らした。
「ミノリ……」
名を呼ぶ事しか出来なかったアイラは、ともかくマローへ階段を上りきるように指示を出す。自分も剣を引き抜き、戦う決心をした。
けれども、マローは唇を押さえ壁にもたれたまま動かなかった。先程触れた温かな感覚が、甦る。トモハラの顔と、唇と、身体の温もりと。それから、熱い声が脳内で反響している。足が棒になったように、動かない。何か言いたいのに、言葉を忘れたように声が出ない。自分の為に命を張ろうとしているトモハラに、せめて言葉を返さねばと思うのに、出来ない。
……どうしてっ! どうして声が出せないのっ!
綺麗な瞳と、この上なく優しい声、そして暖かな手と心全てが、自分を大切にしてくれていた。それなのに、自分はいつも悪態をつくばかりだった。
……ち、違うのよ、本当は! 本当はもっと!
こんな時に、いつかの女中達の会話を思い出す。“好きな相手と口付けを交わした、それはとても甘美な時間だった”。マローは震える指先で、火照る頬や熱した唇に触れた。霞むトモハラの後姿に口を開きかけるが声が、出ない。
……ま、待って! お願い、待って! もう一度っ。
震える腕を伸ばしたものの、それは宙を掴む。
「居たぞ! 残りは若造と姫だけだ!」
ついに兵が、来た。小窓から灯りが差し込み、禍々しい笑みを浮かべた彼らの姿が浮かび上がる。
「ベルガー! トレベレス!」
怒りの矛先を見つけ、トモハラは吼えた。元凶の姿を瞳に入れ、怒りで度を失った。血走った瞳で剣を振り下ろし、近寄ってきた兵を真横に切り裂く。容赦などしない、容赦してよい相手ではない。命を奪うことに躊躇いは感じない、愛する姫を護る為にならば何処までも非常になれる。
例え、地獄に堕ちる大罪をその身に受けようとも。
狙いは繁栄の子を産むマローだと解っていた、捕らえられればマローはどんな扱いをされるか分からない。叫びながらトモハラは剣を振り回す、確実に急所を狙って振りかざす。
想像以上の強さに、兵らはたじろいだ。トモハラの気迫は、それほどまでに凄まじい。
「子供だと油断しすぎだ」
上の戦況を見ていたトレベレスは鼻で笑い、自慢の剣を引き抜く。
「あいつの目が、気に入らない」
ぼそ、っと呟きトレベレスは斬られ落下してくる兵を踏みつけながら上へと向かう。あの瞳は鮮烈で、穢れを知らない。真っ直ぐな瞳は自分の醜い部分を曝け出し、劣等感を味わう。
「世の中、綺麗事だけでは生きていけないんだよ。騎士ごっこはもう終わりだ、ご苦労だったな」
「トレベレス!」
跳躍し、上から体重をかけ剣を付き立てたトモハラの剣を、顔を顰めながらトレベレスは楯で防ぐ。想像以上に思い攻撃に一瞬怯みそうになったが、喉の奥で笑うと、憎悪に燃えるトモハラに意地悪く囁いた。
「お前が懸命に護ろうとした姫の身体は、どの程度甘美だろう? 残念だったな、手を付けられなくて。その勇気と根性に敬意を表し、特別に蹂躙する様を間近で見せてやろうか?」
完全に冷静さを失って右手で殴りかかったトモハラは、無様に階段に叩き付けられた。
「グッ!」
「お前の目、気に入らないんだよ」
いつも怯えることなく自分を見ていたトモハラの視線が、どうにも苛立つ。こんな時でも希望を蒸発させていないような姿に、恐れを抱く。それは羨望でもあり、嫉妬だ。
階段で後頭部を打ち脳震盪を起していたトモハラを嘲笑うように見下したトレベレスは、真横にその瞳を、斬り裂いた。
トモハラの絶叫が響き渡る。
「貴様ぁ!」
ミノリが跳躍する、沸騰した脳は治まることを知らず、勢いでトレベレスに斬りつけた。激痛に苦しみ、転げまわるトモハラの為にもこの男だけは仕留めなければと歯を剥き出しにする。親友への暴行を見て、怒りが頂点に達した。
トレベレスは知らなかったが、ミノリは幾度かトライに手ほどきを受けている。剣技は同年代よりも遥かに上だ、アイラ姫の尻を追うお子様騎士だと、完全に油断していた。防御するしかない勢いある攻めに冷や汗が吹き出る、屈辱で顔を赤く染める。
後方にはいけ好かないベルガーが、二人の力量を見極める様に立っている。ここで負けては一生の恥。現在は一時的に手を組んでいるが、互いに馬が合わない相手であると知っている。弱みを握られたくなかった、劣等感を抱きたくなかった。
「遊ぶな、トレベレス殿」
ベルガーの声と共に、ミノリの動きが停止した。見れば、一本の槍が突き刺さっている。
後方から、ベルガーがその身体を貫いたのだ。口を開いたまま、ミノリは口から血を吹き出し、トモハラの隣に力なく崩れ落ちた。
助けられたのか、手柄を横取りされたのか。
ギリリ、と歯軋りをしたトレベレスに気付かない振りをして、ベルガーは兵を上へと進ませる。自分は槍に付着した血液を丁寧に拭い取り、瀕死の若き騎士を見下ろした。
「立派だったよ、なかなかに」
感情の籠もっていない声に、周囲が青褪める。敵に回したくない相手だと今更ながらの痛感し、皆息を飲んだ。
最早姫の護衛は不在となり、後はか弱き二人を捕らえるだけの簡単な作業。
けれども、悲鳴と共に上から降ってきた兵に、唖然として二人の王子は見上げた。
誰かが諦めずに、まだ戦っている。
「誰だ!? 誰が残っている!?」
騎士はこの二人で全滅した。そうとも、今勇猛果敢に挑んでいるのは騎士でもなければ男でもない。
ふわり、と煌びやかな髪が揺れる。小窓から差し込む光が、照らし出したのは緑の髪。剣を煌かせ、舞うように兵を軽やかに撃退していたのは他でもない。
「アイラ姫!」
ベルガーとトレベレスは同時に叫んだ、小柄な姫が屈強な兵士を何人も蹴落としていた。
「たかが小娘一人に、何をしているっ」
トレベレスが階段を勢い任せに上った。途端、掛け声と共に俊敏に階段を下りてきたアイラと瞳が交差し、舌打ちして剣を引き抜き受け止める。想像以上の重みだった、この細腕の何処にこのような力が秘められているのか。はじき返される前に自ら退き、再び猛攻を繰り返すアイラの攻めに焦る。動きを見ながら、気づいた。
「トライ!」
構えが、トライとほぼ同じな事に気づいた。彼女に手ほどきをしていた男が、自分が最も嫌悪する相手だと知ると、腸が煮えくり返る、懇意な仲に見えたので当然だろうが、わけのわからぬ敗北感に身体中が締め付けられた。何より、泣きながら剣を振るっていたアイラは、自分を憎悪の瞳で見ている。その鋭利な眼差しに心を抉られ立ち竦み、隙が出来た。
ミシィ、と鈍い音を立てて、アイラの放った右脚蹴りは脇腹に容赦なく入り込んだ。
「グハッ!?」
意外な攻撃に面食らい、片膝をついたトレベレスが顔を上げれば、アイラの剣が真正面に突き出されていた。泣きながら、困惑しつつも、殺意が籠められた重い一撃が放たれる。
……殺される。
トレベレスは、死を覚悟した。
だが、またしても横から出てきた一本の長い棒、いや槍に救われる。
「っ、あっぁあっ!?」
アイラの身体が吹き飛び、階段に叩きつけられた。
トレベレスは唖然として、その苦悶の表情を浮かべているアイラを見つめる。助けようと腕を伸ばしかけていたことに気付き、青褪めて慌てて引っ込めた。
「……短期間で姫の能力をここまで高めたトライ殿は流石、というべきか」
無造作に槍を突き出していたベルガーは、放心状態で口もきけないマローに視線を送る。
「これ以上の長居は無用。行くぞ、トレベレス殿」
「あ、あぁ」
激痛で意識を失い、呻きながら倒れているアイラの横を通り過ぎる。うわ言で「マロー、マロー」と幾度も妹の名を呼んでいた。
トレベレスの、胸がジクジクと痛む。しかし、情けは無用と唇を噛み締めた。
マローは、虚ろな瞳で二人を見下ろした。完全に腰を抜かしていたが、強引に手首を捕まれると一気に鳥肌がたち、そこでようやく絹の裂くような悲鳴を上げる。
「アイラ姉様ー!」
夢中で暴れた、爪で相手を引っかき、脚をばたつかせた。余りにも大声だったので、煩いと口に布を押し込められた。無造作に担がれたまま、倒れているアイラの横を通り抜けて階段を降りていく。
血まみれのトモハラが目に飛び込んで来ると身体を引き攣らせ、そして大粒の涙を零した。
「ふぐっ、ぅ、うぐっ」
『必ず御守り致します』
声を思い出し、マローは涙の向こうのトモハラを見つめている。
「ベルガー殿。姉姫は」
問う事を窮するように、トレベレスは曖昧な言葉を投げかけた。
一瞥し、遠く関係のないところから告げるような感情の入っていない声でベルガーは気怠そうに返答する。
「殺していない。火に包まれ焼け死のうが、我々の知った事ではない。後はこの姫の運次第というもの」
「……そうです、ね」
気がかりなトレベレスは、倒れこんだまま微動だしないアイラを心配そうに見上げた。しかし、痛む胸を押さえながら燃え盛る城を後にした。マローを乱暴に馬車に放り投げ、火の手が上がっている街を滑走する。
土の国ラファーガは、こうして一夜にして滅亡した。殺戮と略奪を繰り返し、兵達と共に意気揚々と帰宅する二国の王子達。
手足を縛り口を塞いだマローを転がし、二人は勝利の酒を呑み交わす。向かう先は、二人の領土が隣接する幽閉の塔。身を捩りながら恨みの念を二人に向けているマローを酒のつまみとしているものの、二人は無言だった。祝盃というより、喪に伏すに近い雰囲気だった。
「今、此処で。犯しても構わないが」
「……後にします」
ベルガーの提案に、トレベレスは丁重に断りを入れた。望んだ姫を手に入れたのだから、繁栄の子を産ませる為に悦楽に耽るのも良いだろう。
しかし、どうにも重苦しい。気分が乗らず、酒も進まない。味が分からない。
頭に浮かぶのは、姉姫。槍に貫かれたのだから、瀕死の筈。恐らく、もう死んでいるだろう。
「姉姫を殺せば災いが」
力なく零したトレベレスに、ベルガーは眉間の皺を濃くして面倒だとばかりに口を開く。
「私は貫いていない、逆の柄で腹部を突いただけだ。先程も告げただろう、殺していないと」
「え?」
そういえば、あの後ベルガーは槍に付着するであろう血液を拭く作業をしていなかった。本当に突いただけなのだろう。酒ではなく紅茶を啜っている男を唖然と見つめたトレベレスの頬を、一筋の汗が伝う。目の前の冷酷無慈悲な男が、姉姫を助けた。殺さなかったのは予言を信じたのか、それとも。
怪訝そうにこちらを睨み付けて来たベルガーに気づき、トレベレスは慌てて目を逸らすと白ワインを見つめる。マスカットから作られた高級な種類だ、馬車内には芳醇な香りが充満している。
アイラと剣を交えたあの瞬間に、なんとも言えぬ高揚感が湧き上がった。刺すか刺されるかの瀬戸際で、荒い呼吸のアイラに欲情をしたのは間違いなかった。あの芯の強い瞳を、屈辱感で満たして地面に這い蹲らせたい。それは征服欲であり、支配欲でもあり、そして独占欲だ。
誰も知らない小部屋に閉じ込めておいたら楽しいだろうに、とぼんやりと考える。
「くっ」
ワインを荒々しく置くと、トレベレスは瞳を強引に閉じた。望むものは、妹姫ではない。身体が、心が欲するのは、アイラ姫だと自覚した。
だが、あれは、呪いの姫だ。
汗ばむ額を拭いながら、転がっているマローを見つめる。姉と妹が逆であればよかったのに、と思いながら。