魔王と勇者の日帰り旅行
文字数 9,075文字
その勇者は、現在魔界にいる。少々、時間を戻そう。
とろんとした眠気の残る瞳が、宙を彷徨う。
「おはよう、アサギ。大丈夫か? 疲れてはいないか?」
「おはようございます、大丈夫です」
ハイが眠たそうに上半身を起こし、隣で大きく伸びをしている。二人で寄り添って眠ったらしいが、アサギは驚きもしなかった。
ハイは男だ、アサギからしてみれば異性。しかし、彼に恋愛感情を抱くことが皆無の為、隣で眠ろうが意識などしない。それは、大きくて温かいぬいぐるみのようなもの。
気の毒だが、アサギにとってハイの存在はそういった類。
アサギに対して愛情を抱いているハイは立派で正常な成人男性だが、激しい情欲に身体を支配されることがない。傍に居られれば十分満たされるという、精神的な感情を抱いている。
「今日は遠出となる、本当に大丈夫かい? 延期しても構わないが……」
控え目に呟いたハイは、アサギの体調を案じた。昨晩、皆で夜遅くまで飲み食いを愉しんでしまった。
「へっきです! ほら、こんなに元気」
アサギは笑顔で、柔軟体操を始める。
身体を伸ばせば、均整のとれたすらりとした手足が強調された。それが些か扇情的に見えたハイは、顔を赤らめて視線を逸らす。
「う、うむ、そうか……」
今回の徒歩旅行は、ハイが提案したもの。魔族達にアサギの存在が知られた以上、外出を避けるのが無難だ。しかし、ハイはアサギに見せたい場所があった。自分が付き添うので、大事には至らないと言い聞かせる。
……何が起ころうとも、護ってみせる。よって、護衛は必要ない、二人きりの時間を満喫したい。
魔王に戦いを挑む無謀な輩がいるとは思えないが、返り討ちにする自信はあった。
二人は身支度を整えると、運ばれて来た西瓜のようなものを口にした。胃もたれしていた為、このくらいで丁度よい。弁当を用意してもらったので、愉しみが増えた。
「な、なんだか本当に至れり尽くせりですね……。大丈夫かな」
「なぁに、気にすることはない。料理人達もアサギに食べて貰えて身に余る光栄だと、子々孫々に至るまで語り継がれるだろう」
「い、いえ、そうではなくてですね……」
アサギは言い出せなかった。一刻も早く、仲間達に連絡がとりたい、ということを。彼らは、誤解をしたまま魔界へやって来るだろう。それは、なんとしても阻止しなくてはならない。
「あの、ハイ様。お願いがあります」
「うむ、今夜にでも聞かせておくれ。さぁ、行こうか!」
「は、はい……。あ、あぅ」
手を握られ、引き摺るように歩き出したハイの大きな背中を見つめたアサギは、静かに溜息を吐いた。仲間達が魔界へ来るには、時間を要するだろう。ならば、帰宅してからでも問題はないと判断した。
「きっとアサギも気に入るぞ!」
子供のようにはしゃぐハイに、アサギは苦笑しつつも肩の荷を下ろす。確かに、どのような場所に案内されるのか、興味がある。何しろ、魔王が好むという場所である。
歩きながら、改めてアサギは魔王アレクの場内を見渡した。ある程度度胸が据わって来たので、隅々まで観察する余裕が出来た。大理石で出来た廊下を歩きながら見渡すと、厳粛かつ神秘的な雰囲気というよりも明るく解放感溢れる中に、優雅な雰囲気を持ち合わせている。否応なしに、心が弾む。
「ユキも好きそう」
「ユキ、とは?」
「同じ勇者で、親友です」
「そうか、一緒に連れてくるべきだったな。すまない」
「い、いえ……」
銅で植物の蔦を模してある門を潜り、中庭を経由する。中央には小さな噴水が設置してあり、周囲は花壇で囲まれており、手入れされた花々が所狭しと見事に咲き誇っていた。草と花、土の香りが漂うその場所に、聴こえてくるのは鳥の囀り。
神妙な顔つきで立ち止まったハイは、アサギに「すぐ戻る。ここから絶対に動かないように」と念を押し、アレクの部屋へ大股で向かった。『リュウを引き止めてくれ』と伝言する為だ。
何故アサギを同伴しなかったかというと、『アレク様もリュウ様も一緒に行きませんか?』と言い出す気がした。高確率で予感が的中しそうな寒気を感じ、断腸の思いで残していく決断をした。
もし四人で出かけることにでもなれば、台無しだ。リュウがアサギに付きまとうことは目に見えている。アレクは邪魔にならないだろうが、居られても困る。ハイは、アサギと二人で過ごしたい。欲望に忠実である。
しかし、ハイはすでに一抹の不安を感じていた。リュウは昨夜、ハイとアサギが出かけることを知った筈だが、朝から姿を見せていない。確実に邪魔をしてくる男が静か過ぎて、不気味なことこの上ない。
けれども、二日酔いで寝込んでいるのだろうと前向きな解釈をした。
「いいかね、絶対にここから出ないように」
「は、はい」
「それから、不審者に遭遇したら、大声で叫ぶように」
「は、はい」
いざとなれば、城を破壊してでもアサギを救う決意のハイは、幾度も名残惜しそうに振り返る。
アサギは「過保護ですねー……」と呟き、手を振って見送っている。噴水の中に手を浸し、水温の心地良さにうっとりと瞳を細める。
キラキラと反射する水面、穏やかに微笑むアサギ。その様子を、ハイは暫し足を止め見つめていた。
「美しい……心が洗われるようだ。おお、神よ。この世に地上の美をもたらしたこと、感謝いたします」
これでは、何時まで経ってもアレクの部屋に到着しない。
まさか遠方から凝視されているとも知らないアサギは、水鏡を覗き込みながら上機嫌だった。見つめていると、水面に何かが映ったので眩しそうに上空を見上げる。
「やぁ! お姫様、今日は何処へお出かけだい?」
明るく躍けた様子の声と共に、二階の露台から人が降ってきた。光の加減で顔は見えないが、声で誰だか解っている。華麗に着地した人物に、弾んだ声をかけた。
「おはようございます、アイセル様」
跪いたアイセルは満面の笑みで、アサギに手を差し出した。
「おはようございます、アサギ様。今日もお可愛らしい。ハイ様とお出かけされるのでしたね」
現れたのはアイセルだ、アサギの姿が見えたので思わず来てしまった。昨夜、最も飲酒していたが、酒豪なので二日酔いなどという言葉とは無縁だった。血色の良い肌は、不調など思わせない。
「一緒に行きますか? お弁当を作って頂いてます! 中身は確認していませんけど、ほら、こんなに大きいから沢山入っていると思って」
籠を掲げ嬉しそうに微笑むアサギに釣られて、アイセルはやんわりと微笑む。
ハイの予感は的中した。
正直、アイセルはついて行きたい。しかし、口を開きかけた瞬間、悪寒が走った。なんとも言いがたい陰鬱な空気が背中から忍び寄り、後頭部に圧し掛かる。アサギに悪気はないが、ハイからの警告を第六感が察知したのだろう。付き添いでもしたら、翌日には死体になっているような気がした為、我武者羅に首を横に振る。
……くわばらくわばら、虫の知らせ。
昨晩のハイは、争いごととは無縁な雰囲気だった。しかし、思い返してみれば“冷徹無慈悲、極悪非道な暗黒魔王ハイ”という物騒な異名で持ちきりだった時期もあった。奇声を発しながら迫りくる情景を瞬時に想像したアイセルは大きく身震いする。冷汗が額から流れ落ち、呼吸が乱れる。
「い、いや、ざ、残念だけど遠慮します。仕事がありますので、これでもね。うん、不甲斐ないいち魔族ではないんですよ」
残念そうに「そうですか」と瞳を伏せたアサギには申し訳ないが、自分の命が優先だ。
「も、申し訳ありません。その、別の機会に!」
アイセルは偶然通りかかったわけではない、朝からアサギを捜していた。正直、ハイが居ては不都合なので、一人になる瞬間を待っていた。このような好機、またとないだろう。唾を大きく飲み込み、葛藤する。言い辛いが、これを運命とするべきか。
言うべきか、待つべきか。
目の前の少女は、あまりにも非力だ。とても運命の少女には見えないが、内に秘める最強の“魅力”こそ、捜し求めていた人物であると確信する。
……頑張れ、俺!
再度、大きく喉を動かし固唾を飲み込むと、アイセルは口を開きかけた。
「……アサギ“様”、お話がございます」
「待たせたな、アサギ!」
ドゴン!
「ごふぅっ」
全速力で走ってきたハイは、アイセルを左に蹴飛ばしアサギの正面に立った。
「アイセル様!?」
ずしゃぁ、と地面に壮大に叩きつけられたアイセルは、痙攣している様に見える。
悲鳴を上げたアサギに、突っ伏したアイセルを気にも留めずハイは上機嫌で笑った。
「よーし、さぁ歩こうか。アレクには許可を貰ってきたぞ」
「いえ、あの、アイセル様が倒れてらっしゃるんですけど……」
「疲れたらいつでも言うがよい、私の背に乗るがよい」
「あ、あの、ですからアイセル様が」
「あぁ、その籠は私が預かろう。重たかろう?」
「あの、ハイ様?」
笑みを浮かべて語るハイに、流石にアサギも顔を引きつらせる。
地面に突っ伏しているアイセルは、起き上がることが出来なかった。ハイから放出されている汚泥に似た陰鬱なオーラを直に受け、圧迫感で死んでしまいそうだ。冷汗を流しつつ必死にもがくことが、精一杯である。
アサギには笑み満開だが、アイセルには凍結寸前の空気を放つハイは、やはり魔王だった。
こうなれば一気に逃亡が利巧だと、アイセルは悟った。気にかけてくれるアサギには申し訳ないが、これ以上心配されると余計にハイの機嫌を損ねることは目に見えている。精神を集中し、腕に力を篭めると地面を全力で押し返して跳ね上がる。
「おはよーございまーす、ハイ様! いよぉっ、今日もかっこいいデスネ、男前っ素敵ぃ! じゃあ、さよーならぁぁぁぁぁっ」
海老が水上に打ち出されたかのごとく、跳ね上がって後方にカサカサと逃亡する。
残像すら見える速度で逃げられては、追って鉄槌を食らわそうかと右拳に魔力を溜め始めていたハイでも無理だ。大袈裟に舌打ちし、諦める。
「チッ、逃げ足の速いコソ泥め」
悔しそうに睨みつけているハイと、去っていったアイセルを不安そうに見つめていたアサギ。
「あの、ハイ様。人にぶつかったら、きちんと謝らないといけないと思うのです」
「うんうん、うんうん。そうだな、アサギの言う通りだな、アイセルには悪い事をしたな。今度会ったら謝ろう」
故意にぶつかったので謝るわけがないが「一度ぶん殴ってから」と、心の中で付け加えてハイは優しくアサギの右手をとる。
魔王は、感情の起伏が激しすぎた。
「アイセル様もお元気そうでしたし……。では、つれて行ってください!」
小首傾げて手を引いて走り出したアサギに、瞬時にハイの脳裏からアイセルの罪は掻き消えた。この単純な思考回路、それこそが惑星ハンニバルの魔王ハイ。掴まれた手の柔らかで温かな感触に、ついつい頬が緩んでしまう。
「あぁ、良いよ良いよ。二人で行こうな、ふ・た・り・で!」
“二人で”を強調する上機嫌なハイは鼻の下を伸ばし、傍から見たらいかがわしい光景にしか見えない。
「ふむー……」
数分前、先程の光景を思い出すと腸が煮えくり返る。アレクとの話を終えて戻ってみれば、何処かで見た黄緑の髪がアサギににじり寄っていた。怒涛の勢いで駆けて来たのだが、自分を差し置いて何を語っていたのか気になった。だが、事の顛末をアサギに訊くほどの勇気を持ち合わせていない。
その頃、アイセルは命からがら逃亡に成功し、冷たい廊下の壁にもたれつつ、深い溜息を吐いた。
「ぞっこんにも程があるでしょ、ハイ様」
想像以上にアサギに近寄る事は難しいらしい、命が幾つあっても足りない。ぞわわ、とアイセルの脳裏に迫り来る魔王ハイが再現された。だが、待ち侘びたアサギが来たのだ。話をしなければならない、アレクも動くだろうが、アイセルには“マビルを紹介する”という使命がある。
二人の追跡をする、などと野暮な事はせず、立ち上がると首を鳴らして歩き出す。
「今日はもう、寝ようかなぁ」
疲労感が、最大に達した。苦笑し、意気消沈して家に向かう。魔王とやり合うのは、二度とゴメンだ、と。
ハイとアサギは、何処までも続いているような道をひたすら歩いた。
城を出て暫くは、青々とした山が見える小道を歩いていた。緩い坂道になっている道は、登りきれば森の小道へと誘われる。小鳥の囀り、陽の光、まるで御伽話のようだった。
アサギは、その光景に眠り姫を連想した。森の中、木々と花々、そして森の動物達に護られながらずっと“その日”が来るまで待ち続けている、可憐で健気なお姫様。王子は導かれるがまま森の小道を進むだろう、こんな木漏れ日が優しい森の中を、姫の元へと真っ直ぐに。
運命に導かれて、それは必然。
「綺麗……」
アサギは心酔し、うっとりと溜息を吐く。伸ばした両手の掌に、一筋の光が降りてきた。それを捕まえるようにして、手を動かしてみる。何度か繰り返し、小走りで進む。
柔らかな表情で無邪気なアサギを見つめながら、ハイは追いかけた。
苔に覆われた石の道、大きく聳え立つ木々、僅かな光でも煌びやかに咲き誇る地面の花たち。不意に姿を見せる艶やかな蝶、謡うように囀る鳥達の心地良い合唱。
瞳を周囲の風景に奪われながら、約二時間半。
ハイの目的地に到着すると、アサギは立ち尽くして唖然と息を飲み込んだ。
楽園、と言っても過言ではない風景が広がっていた。小道の終点は、故意に作られたかのような場所だった。アサギの背ほどの高さから落ちる細くて小さな滝が、浅く広く広がる泉を造っている。ここから先は地層が若干高くなるらしい、なんとも言いがたい神秘的な水音が周囲の大木に反響する。
その滝に差し込む一筋の光が、泉で泳いでいた魚の姿を映し出した。驚くほど澄み切っている泉に、しゃがみ込んで手を入れる。想像以上に冷たい、歓声を上げて顔を綻ばせる。滝の下へと駆け寄り、滑り落ちる水を両手で丁寧にすくうと口へと運ぶ。
喉を軽やかに流れていく水は、大地の味がした。
全身を駆け巡る衝撃に、胸が激しく波打ち、膝が震える。目頭が熱くなる、命の源、生命の糧。大地に包まれて一体になったような感覚に、自分を抱き締める。
――ようこそおいでなさいました、アサギ様。貴女様がこの地を踏むのを、待ち焦がれておりましたよ。
木で覆われた空を見上げてみれば、葉を掻い潜って一羽の純白の鳥がやってきた。旋回した鳥は、躊躇することなくアサギの肩に止まると頬に擦り寄る。水面では魚達が足元に集まり、紫色の蝶は髪に止まる。
「こんにちは! お水を飲む?」
アサギは滝から掬い取った水滴を指先につけ、鳥の嘴に近づけた。美味しそうに飲む姿に嬉しくなって、くるくると廻る。
言葉を失ったハイは、暫し呆然としていた。溶け込みすぎていたアサギに、かける言葉が見つからない。すんなりと森の守護者達に受け入れられるとは、思いもしなかった。昔から知っていたように、寧ろ、その存在を待ち侘びていたように、森全体がアサギを歓迎しているようだ。ハイは、眩暈を覚えた。
……これが、勇者の素質、いや、魅力か。
まるで、不可触の女神。目の前のアサギに跪き、敬いたくなる。
大木の根が自然に出来た長椅子になっているので、ハイはふらつきながら腰掛けると、無邪気に自然と戯れるアサギの様子を飽きもせずに見続ける。微笑を絶やすことなく、眩いばかりの娘を一心不乱に見続ける。
「連れてきて、正解だった」
ハイは、安堵の溜息を漏らした。大きな瞳がくるくる良く動いて、光り輝く。しなやかに動く手足は、舞の様にも思える。柔らかで弾んだ声が、木霊する。瞬きするのも正直惜しい、ある意味これは芸術作品で、切り取って絵画にしたいくらいだった。
「な!?」
木々の葉から零れ落ちた光が、アサギの全身に降り注いだ瞬間だった。
ハイの瞳に、アサギの姿が変化して見えた。瞳は周囲の木々に同化する豊かな緑色に、髪が若々しく瑞々しい若葉のような緑色に。それは森の妖精、大地の女神。深い川底、光を受けて輝き放つ緑の水。アサギの表情とて、普段と何処か違って見える。
ハイは、頭を振った。これまで見てきた笑顔、自分に斬りかかってきた時の気丈な強さ、瞳を潤ませ唇を噛締めていたあの時の……いや違う。
もっと、もっと。
「クッ」
幼いアサギが、自分よりも年上の女性に思える圧倒的な抱擁感を放っている。全てを委ねてしまいたくなる安らぎと、多少の罪悪感と。忘れかけていた母親を揺さぶり起こすような、錯覚。
硬直したハイを正気に戻したのは、アサギの身体がぐらりと揺れ、泉に倒れ込んだ音だった。
「アサギ!?」
水滴を髪に手足に舞わせ、濡れた衣服でアサギは愉快そうに笑うと、泉の中に「ごめんね」と話しかけた。魚に謝ったらしい、飛び立っていった鳥にも、離れた蝶にも同様に謝る。立ち上がり、舌を出して濡れた上着を脱ぎつつハイに視線を投げかける。
「濡れてしまいました……、ごめんなさい」
「は……」
なんという色香。
ハイは生唾を大きく飲み込む。初々しさの残る女の色気、水も滴るイイ美少女。ハイは喉を大きく鳴らした、喉に詰まって息が止まるほどに。呆気にとられていたが、頭を振って滴を飛ばすアサギに大股で近寄ると、細い腕を掴んでくるり、とまわす。
怪我がないか診たが、怪我はない。安堵し、胸を撫で下ろす。
「苔が柔らかいです、絨毯みたい! だから大丈夫です。お陽様の光にあてたら、服は乾きますよね」
脱いだ上着を手頃な木の枝に引っ掛けたアサギは、悪戯っぽくハイに振り返ると微笑する。
なんという扇情的な光景だろう、ハイには全てが卑猥に見えた。肌の健康的な色、柔らかで艶やかな肌は滴が魅惑的に乗ったまま。鎖骨も肩も、臍、いや見事な曲線の腰も露出している。上着の下は、大胆にも程がある衣装だった。
大いに、けしからん光景。
しっとりとした髪、肌に浮かぶ水滴、大きな瞳が、フッと伏せ目がちになれば、淫蕩な空気が流れる。
「ごっふ!」
鼻を押さえたハイは、熟れたトマトの様に真っ赤な顔で俯く。
……いかん、鼻血が出る!
空を仰ぎ、後頭部をトントン、と叩く。
異様なハイの行動に、アサギは首を傾げた。
「あの、ハイ様。そろそろお昼ご飯にしましょう」
籠を手にすると、ハイを軽く引っ張る。木の根に並んで仲良く腰掛けると、籠の中を覗き込む。
「わぁ!」
アサギは歓喜の声を上げた。まるで遠足時に母が作ってくれたような雰囲気に、瞳を丸くする。色とりどりの食材が、ところせましと並んでいる。見目麗しいそれは、食べるのすら躊躇してしまう。母からのお弁当は、いつも美味しくて素晴らしくて、嬉しかった。
母親を思い出し、アサギは籠を反射的に抱き締めた。急に家族に会いたくなった、こんなにも会わないことは初めてだ。目まぐるしい生活だったが、忘れていたわけではない。深く考えないようにしていた。
寂しくて、泣いてしまうから。
「どうしたアサギ? 嫌いなものがあるのか?」
急にしょげてしまったアサギが不安になり、ハイが覗き込む。
アサギは首をゆっくりと横に振り、ぽすん、と広いハイの胸にもたれかかった。
「ぉ、おぅっふ!」
「ハイ様って、お父さんみたい。……少し違うかな、なんだろな」
ときめいたのも束の間、勇者アサギの一言“お父さん”は、魔王ハイ・ラゥ・シュリップに痛恨の一撃を叩き込んだ。
……父親か。まぁ、歳が離れているし、当然かもな。
項垂れるが、慕われていることに変わりはない。嫌わないでいてくれるのならば、それで良い。問答無用で拉致して来たが、嫌悪することなく会話し笑って、理解してくれる。
もう、それだけで十分だった。それ以上を望んだら、幸福が壊れると言い聞かせる。
「そなたが、傍にいてくれるのならば。……それで良い」
言い聞かせるように、ハイは呟く。
その呟きが、はっきりとアサギの耳に届いた。
アサギがハイを見上げれば、ハイがアサギを見下ろす。
風が森を吹き抜け、純白の鳥が何羽も透き通った木々の上空の青空に舞った。滝の飛沫の音が、何重にも響きわたるようにこだまする。
「ハイ様?」
アサギの唇はほんのりと染まった桃色で、熟す前の甘い果実のようだ。ハイの姿を映す大きな瞳は、純粋で美しい。
今はその宝石のような瞳に、ハイしか映っていない。
アサギの抱き締めていた籠が、ハイによって地面に下ろされた。
「アサギ」
熱に浮かされたハイの全身が、アサギを欲する。独占欲が、こんこんと湧き出る泉の様に身体中から溢れ出す。
魔王も、人間の男。遺伝子の中に前もって組み込まれている、欲求であり、本能。
「ハイさ、ま?」
アサギは開きかけた唇を、硬く閉ざした。雰囲気が違うハイに気付き、喉の奥で悲鳴を上げる。
それは、乙女の直感。
「アサギ、アサギ、アサギ!」
大きなハイの声に驚き、身体を一瞬引き攣らせ抵抗するように離れようとした。しかし、小柄なアサギの抵抗など無意味。
ハイは両腕でアサギを抱え込み抱き寄せると、再び名を呼ぶ。アサギ、と憂いを含んだ甘い声で。
何事かと見上げたアサギは、徐々に近づくハイの顔に硬直した。
その頃。
「クレシダ! 速度を上げろっ」
「何事ですかな、主」
「デズも、オフィもだ! 急ぐ!」
「何事ですか!?」
「アサギの貞操の危機だっ、嫌な予感がするっ」
「……は?」
トビィが大空を舞いながら、憤怒して相棒の竜達を攻め立てていた。
「……あの幼女趣味大馬鹿変態魔王が、何かやらかしている気がするっ」
恐るべき、トビィの直感。