終止符を
文字数 6,395文字
スリザを庇い瞼が斬れ、見難い視界で男らの前に立ちはだかる。普通ならば倒せる相手だった、けれども、手負いのスリザを気にして上手く力を発揮できなかった。また、アサギの安否も気になっている。冷静さを保てない状況下で、増援が現れてしまった。
「くそっ!」
己の不甲斐なさに、顔に悔恨の色が表れた。
足手纏いのスリザは、情けなく首を横に振ると「死なせてくれ」と懇願した。しかし、アイセルが聞き入れるわけがない。
「アサギ様がいないと。アレク様が」
「魔界が、いや、世界が滅ぶことになったとしても。それでも俺は護りたい女を護る。それが俺の運命であり、進むべき路だから」
スリザを庇い続け、アイセルは深手を負い続けた。
だが、身を挺して自分を庇うアイセルを見て、スリザがどれだけ心を痛めただろう。彼女もまた、自分の無力さに絶望していた。両親の生首を突きつけられても、動揺してはいけなかった。
流れすぎた血液でスリザは昏睡状態に陥り、また、アイセルにも限界がきた。互いの指を絡め合って、その場に静かに崩れ落ちる。
「愛しているよ、スリザ」
唇から零れたアイセルの言葉が聞こえたのか、それとも偶然か。スリザはぎこちなく微笑み、小さく頷く。自分も想いを告げようとしたが、唇を動かす力すら残っていなかった。
動かなくなったニ人を、忌々しそうに見た辛うじて生きていた男達は、容赦なく剣を構える。死んでいるだろうが、このままでは腹の虫が治まらない。警戒しつつにじり寄る中、背後から声がかかった。
「止めなさい。もう、命は尽きた」
凛とした声に振り返り、宙に浮いているアサギを唖然と見た男達は、その美しい姿に引き攣った笑みを浮かべた。スリザを犯していない鬱憤が溜まっているが、目の前に相応しい女が現れた。相手は小さな女、ただ一人。誰が言うでもなく目的は同じで、獲物を取り囲む。
下卑た笑みで視姦されつつも、微動だせずアイセルとスリザを見つめる。血まみれで寄り添っている二人は、大輪の薔薇の花弁に埋もれているようだった。
「運命の恋人である、アイセルとスリザ。本来ならば、ここで命を落とす筈が無い。……本当ならば」
静かに、瞳を閉じる。
アイセルに手を引かれ、照れながらもスリザは街を歩いている。身体の線がくっきりと分かる艶めいた衣装を身に纏い、髪には大きな薄桃の花を差していた。色とりどりの薔薇が見事に咲き誇っている二人の家に戻ると、珈琲を淹れて窓辺でゆったりとそれを飲む。そうして、幸せそうに微笑みを交わした。
「……ごめんなさい、
顔を上げたアサギの瞳から、大粒の涙が零れた。震える腕で、剣を掲げる。そして、再び瞳を閉じる。
「数年、待って欲しい。本来あるべき姿に、必ず戻す。『ごめんなさい、アイセル様、スリザ様。必ず、戻しますから』それまで……預からせて欲しい」
男達の後方で奇怪な音がし、振り返った。ニ人の遺体が、透けて消えていったのを目撃した瞬間。
「そなたらを罰してよいのかどうか、解らない。いや、いけないな。私は、その権限を持っていない」
抑揚のない声が聞こえたと思えば、アサギの姿も消えていた。
呆然としてその場に立ち尽くしていた男達は、急に眠気に襲われて倒れ込んだ。暫くして起き上がると、顔を見合わせ肩を貸し合い歩き出す。
何をやっていたのか、記憶がない。
ただ、何故か涙が止まらなくて泣き続けた。胸に、温かいものが流れ込んでくる。愚かで罪深いことをした気がして、罪悪感でいっぱいになる。
けれども、温かな何かに優しく頬を撫でられた気がして、解らないままに謝罪すると歩き出す。途中、手負いの魔族を何人か救出した男達は、魔界の端へと避難した。
「運命の恋人、捜さねば。サイゴン、ホーチミン。……何処に」
腕には、スリザの双剣カストール・とポルックス、そしてアイセルの手甲ランヴォルキーニ。優美に浮かびながら、ニ人を捜して飛ぶ。
グシャリ、と何かが降ってきた音にトビィは剣を引き抜いた。砂埃が舞う中で、低く呻いている、それ。誰だか気づき、全身の毛が逆立つ。剣を構え、俊敏に近づいた。
眩暈と吐き気がするものの、どうにか起き上がったオジロンは、背後のこの世で最も羨望し、嫌悪する気配に身を凍らせる。見れば、自分の身体は折り重なる魔族達の死体の上。降り積もる灰が悲鳴をあげた口に入り込み、咳き込む。
「んひぃっ、げふ、ごふっ」
逃げようとしたが、腰が抜けて動けない。視界の悪いその中でもくっきりと見える、以前渇望したここにあってはならぬ光。呼びたくもない所有者の名前を、震えながら口にした。
「トビィ!? トビィなのか!?」
「久しいな、オジロン」
耳障りな声に、皮肉めいて微かに口角を上げたトビィは斬りかかった。
声にならぬ悲鳴を上げ辛うじて避けたオジロンは、燦々と現れた光り輝く剣と、正当な所有者の姿を見て戦慄する。
「トビィ!? と、剣!? 馬鹿な、そんな馬鹿な!? 死人が
「オレはこの通り生きている。残念だったな」
淡く光る水竜の加護を受けた剣を構え、トビィは冷めた瞳で一瞥する。
オジロンの股間が、生暖かいもので溢れた。泡を吹く勢いで、トビィを見上げる。砂塵さえも隠すことが出来ない、ゾッとするような美貌の人間が立っている。
それは、数か月前に嫉妬心から殺したはずの男だった。夢を見ているのでは、いや、夢であって欲しいと願った。
しかし、これは現実。
死んだ筈の小国の姫も、トビィも、そして破壊したはずの剣もそこにある。
わけがわからず、オジロンは腹の底から絶叫する。発狂しそうだった、身体は震えるばかりで動かない。
侮蔑の視線を送ったトビィは、改めてどうしてこんな弱者で下劣な男にやれてしまったのか、過去の自分を腹立たしく思った。
「どうして生きてるんダァァァァァ!」
「殺し損なったんだろうな。オレを殺せるほど優秀じゃないだろ、お前」
淡々と告げながら近寄るトビィに、オジロンは盛大な悲鳴を上げる。
「死んだ、確かに死んだ、殺したんだ! 剣も破壊した!」
覚えている。
あの時トビィは森で確かに息絶え、その後愛剣を折った。まさか本当に幻覚だったのかと、オジロンは喉を掻き毟る。記憶が混乱して、気味が悪い。生き返ることなど有り得ない、何を信じればよいのか解らなくなる。
これは、夢か現か、幻か。
「大方都合の良い幻覚を見たのだろう。剣もオレも、見ての通り無事。……さぁ、昔話はここで終わりだ。生憎オレは、お前の様に甘くはない。切り開いて心臓を取り出し、地面に捨て、足で踏み潰してやろう。マドリードの、そしてジュリエッタの仇、取らせてもらう」
「悪かったァアッ! ゆ、許してくれエェェェェッ!」
命乞いをしたオジロンだが、情けをかけるトビィではない。
鼻水と涙で汚れた顔を蔑んだ瞳で見下ろし、一気に剣を横に振る。軽々と、首が飛んだ。転がった首は砂に埋もれていくだろう、絶望感をその目にくっきりと表し、目の前で起きた不条理に納得出来ぬまま。そのままトビィは心臓を一突きし、その中で何度か剣を左右に動かした。
「腑に落ちない点はある。マドリードがお前ごときに殺られるわけがない……」
真実はビアンカと対峙し相撃ちだったのだが、そこまでトビィは知らない。引き抜いた剣の血をオジロンの衣服で拭うと、トビィはアサギの名を呼びながら歩き出す。
ふと、上空に気配を感じ、見上げて声をかけた。
「クレシダか!」
「主、よう御座いました。ご無事で」
砂埃から巨体が現れる、無傷のクレシダが降りて来て会釈した。直様背に乗り込んだトビィに、嬉しそうに一声吼え上空へと浮上する。
「何事ですか。寝ていましたらば、騒音で目が醒めまして」
「寝ていたのか。……オレも正直現状が掴めないが、早急にアサギを捜す」
「御意」
中庭で眠っていたクレシダは、城が崩壊する音で目が覚めた。自身にも瓦礫が降りかかってきたのだが、慌てて上空へと避難した為無事だった。周囲は砂塵で覆われ、トビィを捜そうにも視界がままならず、ただ上空を旋回していた。
数か月前、森で離れてしまった際、トビィは行方知れずになった。再び巡り会えたのに、また離れてしまうことは耐え難い。クレシダにとって、彼は唯一無二の存在。人間でありながら、昔から常に寄り添っていた親にも思える。取り乱しているようには見えないが、これでも焦燥感に駆られていた。
何度か魔物に襲われたが、クレシダの相手ではない。ただ、前方に何か強大なモノがいることだけは解ったので、近寄らなかった。危惧の念を抱く存在が、そこにある。
「デズとオフィは無事だろうか」
「大丈夫でしょう、デズ達はここから離れた海岸におりますゆえ」
アサギの名を叫びながら、トビィはクレシダと共に上空を旋回する。時折派手な音が聴こえてくるが、それは幾重にもなって四方から届く気がする。方向感覚が狂わされ、酷く、不気味だった。
低く呻き倒れているホーチミンを発見したのは、サイゴンだった。
猛然と駆け寄り、愕然とする。腹部に穴が空いており、息も絶え絶えに瓦礫の下敷きになっていた。辛うじて顔と見慣れた衣装が見えたので、発見出来た。
「ミン! しっかりしろ! 回復魔法は、魔法はどうした!?」
瓦礫を蹴り上げホーチミンを救出すると、震える声で叱咤する。
その姿を見て、嬉しそうにホーチミンは微笑んだ。唇は真っ青で、体温はすでに冷たくなっている。視界も虚ろだが、声と暖かな温もりでサイゴンだと解った。一目見れたのならばもう十分だと、意識を手放しそうになる。回復魔法を唱えられるほど、力は残っていない。
先程、奇襲に遭い弾き飛ばされたホーチミンは、運悪く半壊になっていた柱に身体が突き刺さった。
それでも動かねばと、渾身の力で魔法を唱え柱を崩壊させどうにか引き抜いた。思った以上に体力の消耗は激しく、回復の魔法を使おうとしたのだが、柱を壊した衝撃で他の壁が倒れてきた。その、下敷きになってしまったのだ。
救出に来たサイゴンも無傷ではない、自慢の右腕は骨折していた。弾き飛ばされ、身体を受け止めようとした際に利き腕で受身を取ったのが間違いだった。左腕でも大剣を振るうことは出来たが、得意の技が普段の様に扱えない。
どうにか左手を駆使し、アレクを、アサギを、トビィを、そして何より幼馴染のホーチミンを捜さねばと躍起になっていた。
自分が何者かであるかも解らないような、虚ろな瞳で飛びかかってくるつい先程まで同僚だった魔族達を、容赦なく斬り捨てながら捜していた。だが、声を荒げていたので、居場所は直ぐに察知され、溢れるように魔族達が押し寄せた。
これではまるで、意志を持たず、満たされるわけでもないのに肉を喰らい続ける死者。
「いま……かいふくまほう、かけてあげる。あさぎちゃん、たすけに、いって……つたえて。とびぃちゃんに、にたおとこのひと、みても、ちかよらないで、って」
自分よりも軽傷なサイゴンを、愛する人を救う為に、ホーチミンは残しておいた気力を振り絞る。
しかしサイゴンはその動作を制し、力なく首を横に振った。瀕死のホーチミンの頬に触れ「駄目だ」と何度も頷く。
「い、行けない……ミンを置いては、行けない」
嬉しそうにホーチミンは微笑んだ、自分を心配してくれているサイゴンに、感謝した。生きていてよかったと思った、十分だと思った。足手纏いに、なりたくない。
「いって。やくそく。……だいじょうぶ、よ。すぐに、おいつく」
「喋るな、ミン! 解ったから、解ったから! 待ってろ、今直ぐに救援を呼ぶからな、アサギ様やハイ様なら助けられるはずだ!」
置いていけないのなら、共に行くしかない。近くに二人が居てくれたら、確実に助けられると判断したサイゴンは、傷口に自分の破った衣服を宛がうと、歯を食いしばりホーチミンの身体を持ち上げる。
「……ごめんねぇ、かのじょ、つくらせなく、て。わたし、おんなのこに、うまれたかった、な」
「そんなことはどうでもいいだろう! 解ったから、もう口を開くなっ」
けれども、ホーチミンは語ることをやめなかった。最早、自分の命が尽きることを悟っていた。ならば、伝えておきたいことがある。すでに瞳に光はなく、サイゴンの姿すら見えない。
「めんどうな、おさななじみ、なんて、むし、してくれて、よかった、の」
「面倒だなんて思ってない、無視なんて出来るわけないだろう!? ……大事な幼馴染だ、それに、大事な……大事な奴なんだ。恋かどうかわからないけれど、それでも、俺はミンが」
好きだったんだ。
と、唇が動く。
布が赤く染まっていったが、勢いが緩くなる。流れ出る血がもう残り僅かなのか、凝固しつつあるのか。
「好きだった」
目の前のホーチミンは、安らかな笑顔を浮かべている。半開きの瞳は、澄んだ色をしていた。サイゴンの腕の中で、愛しい人の無事を知り逝くことが出来たので、本望だった。
けれど、サイゴンが振り絞った声を、結局ホーチミンは聞く事が出来なかった。とうに、息絶えている。
「ご、ごめんな。もっと、俺が意地を張らずに優しくしてやれば。男同士だったから、どうしてよいのか解らなくて。居て辛かったら、逃げてるさ。彼女作らなかったのは……ミン以上に可愛い子がいなかったからだよ。ミン以上の子は、見つけられなかったよ」
告げても、ホーチミンには聴こえない。
サイゴンは、それでもホーチミンの身体を優しく抱え泣きながら歩き出す。
「あぁ、こうして横に抱き上げて欲しいとか言ってたな。仕方がない、してやるよ。ミン、……お前もう少し食べないと。軽すぎるぞ? みんなで、美味しいものを食べよう。いつもの食堂でもいいし、ハイ様達とまた街へ出てもいい。スリザ隊長とアイセルも一緒に合同逢瀬だ。愉しみだな。でも、会計はきちんと個人で負担しような?」
最愛の人を目の前で失った衝撃が、大き過ぎた。護れなかった後悔の念が押し寄せ、狂っていたのだろう。サイゴン自身が解っていなかった、ホーチミンが占める心の割合を。
魔界の剣士は、酷く脆い。死を受け入れられず、都合のよい幻覚を見る。腕の中で微笑んでいるホーチミンは、唇を尖らせると愉快そうに舌を出した。
「待ってろ、ミン。アサギ様なら救える、きっと救ってくださる。あの子は、何でも出来るんだ。さぁ、行こう。一緒に、行こう。すぐに元に戻るさ」
ぶつぶつとホーチミンに語りかけながら、死体を大事そうに抱えて歩いた。両腕で抱きながら歩いていたので、自慢の大剣は手放した。ただ、優しい眼差しを向けて歩き回った。愛しい人を抱くのに、剣など無粋な物は不要だと。木漏れ日溢れる公園に来て、森を探索しているように、時折眩しそうに崩れた天井を見上げる。
そこに青空など広がってない、塵しかない、分厚い雲しか見えない。
何処からか、容赦なく弓が飛んで来た。背に、足に突き刺さる。それでも、気にせずぎこちなく歩く。
森の中で、矢など飛んでこない。周囲には人など、いや敵などいない、二人きりの世界に矢など存在しない。サイゴンは痛みを感じず、幻覚の中にいた。
しかし、実際に身体には矢が何本も突き刺さっている。徐々に動きは鈍くなり、そのままゆっくりと倒れた。
ホーチミンの亡骸だけは、何かから護る様に必死で腕に抱えていた。
「行こう、ミン。大丈夫、アサギ様なら……」
周囲に、魔族達が集結していた。スリザ直属の部下であり、サイゴンとも当然面識がある。実力者の彼が武器を持っていないと知ると、下卑た笑みを浮かべ一斉に剣を構える。その者達の瞳はやはり虚ろ、完全に惑わされている。
容赦なく、動かないサイゴンに剣を突き立てた。