外伝3『ABHORRENCE』10:嫉妬
文字数 4,434文字
「トリアって……アニスのことが好きだよね」
竪琴を弾いて楽しんでいるアニスに隠れ、兎と穴熊が密談していた。
それは森中の噂であり、悩みの種。悪い人間ではなさそうだが、トリアがアニスを連れて行ってしまう気がして恐ろしい。
「多分、稀に見るイイニンゲンなんだろうけど……」
アニスを無理に捜すわけでもなく、森を荒らすことも、動物を狩る事もしない。供の馬は彼を慕い、善い人間であると認めざるを得ないことは重々承知している。
「いっそのこと、トリアが悪い人間だったらよかったのに」
「ねー。そうしたら、追い返せたのにね。美味しい木の実は貰えないけど」
二匹は落胆し嘆いた。
人間に焦がれるアニスは、トリアが声をかけたらついていってしまうだろう。止めたとしても、彼女はやんわりと断りそうだ。
「そもそも、妖精ってなんだろう。今までは、同じ動物だと思っていたよ」
人間に容姿が似ているアニスを、元人間ではないかと勘ぐるものさえ出てきた。そうなれば、群れに戻るのは自然の摂理。
しかし、果たしてそれがアニスの幸せなのか分からない。
月を仰いだ動物たちは、か細い消え入りそうな声で哭く。それは、悲痛な叫びに似ていた。
部屋を出ると、尖った瞳と目が合った。
「トリア、お前さ。最近、何処にいるわけ?」
今日もアニスのもとへ行こうとしていたトリアは、自室から出たところでトカミエルに呼び止められた。頭をガシガシとかきながら出て来た双子の兄に、怪訝な顔を向ける。何気ない質問をしてきただけで他意はないのだろうが、顔を背け階段を下りる。
答えたくない質問に、心が波打つ。
「別に。関係ないだろ」
「大いにある。お前がいないとミーアが煩い。何処にいるー、何処にいるーって。毎日問いただされるオレの身にもなれよ。一回抱いてやれば?
トカミエルは心底嫌そうに身振り手振りで説明しつつも、後半は棘を含んだ声で嘲笑した。
ミーア、と聞いてトリアもあからさまに不機嫌になると唇を噛む。
「断る。あの女は嫌いだ」
ミーアという女は、街に立ち寄った旅芸人の一味だ。トリアを一目見るなり気に入り、執拗に付け回っている。容姿は整っているが、性格が陰湿。トリアが他の少女と世間話をしていただけで、後日その少女が怪我をする、もしくは発熱する。最初は偶然だと思っていたが、彼女は呪術師であると誰かが噂をしていた。
火のない所に煙は立たぬ。その為、近頃は報復を恐れ媚を売る娘たちも出て来た。
トカミエルには、オルヴィス。
トリアには、ミーア。
頑固な汚れのように執念深い女二人の起源を損ねないように、この街の娘らは緊張している。どちらも厄介な女である。
深い溜息を大げさに吐き、トカミエルは壁にもたれ掛かる。
「で。街中でトリアが買い物をしている姿が目撃されてるんだけど? 何してんの?」
双子だが、親しいわけではない。今までは互いに勝手気ままに過ごしていた、それで問題はなかった。干渉するのが面倒で今まで避けて来たが、何処か秘密裏に行動しているようなトリアが引っかかっていた。誰かにそそのかされ貢いでいる、不義をはたらいているなど、目撃情報は尾ひれがついて広がっている。
嫌悪する仲とはいえ、流石に身内にたてられた不穏な噂は不愉快。その為、トカミエルは本当の事が知りたかった。
「……好きな子が、出来た」
双子の弟が、軽く俯いて微笑みながらそう言ったのを聞いた瞬間、大きく目を見開いてトカミエルは硬直する。
「え?」
息が詰まったような、間抜けな声を漏らす。
好きな異性が出来て当然だろう、驚いたのはそこではない。産まれた時から一緒にいた弟が初めて浮かべた、見ているこちらまで心が温かくなるような笑顔に衝撃を受けた。感情をあまり表に出してこなかったトリアなだけに、トカミエルは動揺を隠し切れず狼狽える。
しかし、薄々気づいていた。
心の奥底で、自分が叫んでいる。
弟が
胸が荒々しく跳ね上がり、呼吸が乱れる。
「新緑の髪に、深緑の瞳。とても可愛らしい子で」
甘い声を聞き、胸を鷲掴みにされた気がしたトカミエルはよろけて壁に手をついた。
「あの子の傍にいたい、護りたい。彼女がいると分かるだけで、心が安らぐ」
目の前に想い人がいるように宙を優しく抱きしめるトリアの穏やかな笑みは、心底惚れていることが見て取れた。背筋が凍った、笑い飛ばそうと思った。
『何一人で盛り上がってんの? 空想家だったんだ、意外と』
そう言って、からかってやろうとした。
けれど、声が出ない。一言一言を愛でるように言うものだから、横やりを入れられなかった。
余程の感情を抱いている、それは分かる。分かった瞬間に、トカミエルは激しい嫉妬と怒りに苛まれた。心の奥底から溶岩のように沸き上がる、重くねちっこい醜い感情。
それが嫉妬だと、トカミエルは気づけなかった。
見ず知らずの娘をトリアが想っていたところで、自分が嫉妬するわけがない。けれども、トカミエルは確実にその少女を知っていた。知っているからこそ、
「……緑の髪に瞳? そんな子、街にいたっけ?」
確かめるように口にした、素朴な疑問。この街にそんな娘は存在しない。
「さぁ、どうだろう」
掠れた声を出したトカミエルの疑問に答えるわけもなく、トリアは薄く笑って家を出た。
愛馬クレシダに乗って出かける様子を窓から見下ろしていたトカミエルは、唇を噛み締め激昂に耐える。名状しがたい不快感が心を抑えつけ、足元をふらつかせながら自室に戻ると寝台に倒れ込んだ。
「どうして。……行かせたく、ない」
無性に腹が立つのは、弟が幸せそうだからか。
いや違う、そうではない。
「気持ちが、悪い……」
自分の中で何が起きているのか解らない、ただ、憤慨している自分が腹の内から殴打している。トリアを行かせるなと、悲痛な叫びが聞こえてくる。
「ウ、ゥエッ」
込み上げてきた胃液が鼻にまわり、口元を押さえ咳き込んだ。
「緑の、髪。そして、瞳」
おぼろげに、そんな少女が浮かび上がる。自分の中に巣食っていた何かが爆発し、暴れている。深呼吸を何度か繰り返し、ようやく正常な脈に戻ったことを実感したトカミエルは気分転換に街へと出かけることにした。
多少眩暈はしていたが、気の知れた仲間と騒げば忘れて楽になれるだろうとぼんやりと思った。安酒を煽ってもいいし、密かに悦楽にふけるのもいい、気を紛らわすことが出来ればそれでいい。
立ち上がり、まだ芳しい状態ではないような気はしたものの、家から出たくて部屋を出る。
玄関の扉を開こうとした瞬間、帰宅した父親と鉢合わせる。
「あぁ、ちょうどよかった。トカミエル、トリアは何処だ?」
「さっき出ていったよ」
脇をすり抜けようとしたが、首根っこを掴まれ小さな悲鳴を上げる。
「そうか。トカミエルだけで構わないから付き合いなさい」
嫌な予感がして、眉間に皺を寄せ反抗的な態度を示した。
苦笑した父は、機嫌の悪い息子を宥めるように努めて優しく伝える。
「そんな顔をするな、美味い物が食べられるぞ。先日、名立たる富豪が越してきただろう? そこの若旦那さんが、食事会を開いている」
弾んだ声の父だったが、トカミエルは唇を尖らせ本音を吐露した。
「うっわー、窮屈そう!」
「我慢しなさい、折角の誘いだ。さ、行くぞ」
「えーっ」
悲痛な嘆きなど気にせず、父親はトカミエルを引きずって家を出た。
選択権など、最初からなかったのだ。代々武器屋を営む父は、昔から強引だった。暴れるだけ体力の無駄と察し、抵抗する気が失せ大人しく歩く。
「畜生、トリアの奴上手いこと逃げやがって」
「そう言うな。美味い酒があるぞ」
「堅苦しいのが嫌なんだよ。不味い酒でいいから、友達と呑みたい」
「顔見知りも何人か来ているさ」
「けど、へりくだった挨拶をするんだろ?」
「それは父さんの役目だ、安心なさい」
「うーん、……それなら」
街に製鉄業を営む富豪が来ることは、かなり前から噂になっていた。最初は嫌悪していたが、『正当な金を払うから街の人間を雇用し屋敷を建てて欲しい』と依頼がきてからというもの、一部の者は手の平を返した。トカミエルはどうにも虫が好かなくて近寄らなかったが、いざ見てみると想像以上に巨大な館が完成している。
広大な土地に時間をかけて建てられた屋敷は、門を潜り抜け手入れされた庭を通らないと辿り着けない。忍び寄るように姿を見せた館に、息を飲む。
「でっけぇ……」
「羽振りがよい御方だよ。うちの武器も幾つか発注してくれた」
「街の人間に媚びてるだけじゃん」
「そう言うな、上客だと思いなさい」
この街は、一から汗水たらし造り上げたもの。結束を高めてきた街の人々にとってその均衡を壊しそうな者の参入は、正直疎ましい。
しかし、その辺りは富豪も心得ているようで、顔見せを兼ねた懇親会を開き皆の機嫌を損ねぬように配慮しているようだった。
「トカミエル! こっちだ!」
庭に入ると、すぐに友人たちから声をかけられた。トカミエルは安堵の溜息を漏らし、所狭しと並んでいる華やかな食事を一瞥する。父と離れ彼らと合流し、飲み食いを堪能する。
「うめぇっ!」
来るまで不満を漏らしていたトカミエルだが、料理を食べ始めると苛立ちが消えていく。ほろ酔いで楽し気に笑った。
……あぁ、腹が空いていたから無性にイラついていたんだ。
トカミエルは、逆らわない寄り添ってくる品の良いワインを煽りながら納得した。
先程のトリアとのやり取りが、今にして思えば不思議だ。何故心を焦がし、身を切り裂くような思いを抱かねばならなかったのか。弟が誰を好きになろうと知ったことではない。
「後で森へ行こう」
友人たちと上機嫌で会話をし、食事を堪能する。こんな馳走は滅多にお目にかかれない。見たこともない食材と、華やかな盛り付けに心は躍る。食べ慣れている食材なのに、調理次第で味にこうも気品が出るのかと感嘆するものも多々あった。
給仕がワイングラスを運んできたので、はしゃぎながら子供たちは手にした。嫌な顔一つ見せず対応する給仕に、尊敬の眼差しを送る。
「金持ちは違うよなー」
「イイ人が越してきてよかったな。 金持ちってさ、嫌味な奴が多いじゃん?」
子供たちの心は、すでに掌握されたらしい。
現金なもんだと肩を竦めたトカミエルは、不意に奇妙な視線を感じワイングラスを口につけたまま瞳を動かした。値踏みされているような気味の悪い感触を肌で感じ、気づかぬふりをして注意深く相手を探す。
武器屋の息子である為、幼い頃から武術を嗜んできた。自身の力量には自信がある。ゆっくりと庭を歩きながら、ワイングラスを何杯か空にし時折チーズを摘まむ。