押し潰されそうな空間
文字数 3,596文字
ユキから『いってきます』と愛らしいスタンプが届いていたので『楽しんで!』と返信した朝。
アサギは、気怠さを感じそのまま昼頃まで眠った。時間が勿体ないと思ったが、倦怠感に負けた。
しかし、部屋に閉じこもっていても気が滅入ってしまう。
「ぅー……」
昼食をのろのろと食べ、あてもなく行動することにして自転車にまたがる。足を動かしていたほうが、余計な事を考えずに済みそうだった。
ジリジリと熱い日差しが降り注ぐ。あの日を思い出し、項垂れた。
道路に出て漕ぎ出した瞬間、硬直する。
「よ!」
「ミ、ミノル?」
思いもよらない人物と出くわし、心臓が口から飛び出そうになった。
動揺したアサギは、名前を呼んだものの次の言葉が出てこず唖然と佇む。学校ではずっと避けていたが、まさか、休日に遭うとは。
「どっか行くのか? 新しいゲーム買ったから、うちで一緒にやらねぇ?」
「え……? ゲーム?」
アサギの胸中は乱され、足が小鹿のように震える。
……憂美さんと逢わないのかな。どうしてここにきたのかな。私は、どうしたらいいの?
異世界で魔物と対峙した時より、恐怖を感じている。家で眠っておけばよかったと、心底後悔する。ミノルは以前と同じような口調で話しかけてくるので、余計に混乱した。
……あ、あれ? 私との約束も勘違いだったかな、それとも、本当に忘れているだけなのかな。
アサギの中で混沌とした考えが、雲のように蠢いていた。
「そ。トモハル達連絡つかねぇし」
彼女とは逢えない、トモハルらも不在。暇をもてあまし、最終的に選ばれた。アサギは、そう考え着いた。
「えと……用事があって」
アサギはぎこちなく微笑んだ。代わりでも声をかけてもらえたことは嬉しい、しかし二人きりで遊ぶ自信はない。震える手に精一杯の力を籠め、自転車を押し進める。
「一人でかよ?」
「そ、そうだけど……」
「一人ならたいした用事じゃないだろ、来いよ」
「で、でも、その」
お使いを頼まれていると、何故言わなかったのか。アサギは、自分の頭の悪さに嫌悪した。
……嫌いな私といて、ミノルは楽しいのかな。
じわりと、涙腺が弛む。
……そもそも、彼女がいる人の家に行ってもいいのかな。ミノルに恋愛感情がなくても、あの子が知ったら哀しむんじゃないかな。
知らず、頭が下がっていく。
しかし気落ちしたアサギには気づかず、ミノルは怒気を含んだ声を出した。熱さも手伝い、煮え切らない態度に苛立っている。
「後ろ、ついて来いよな」
アサギは脅迫されているように感じ、頷いてしまう。ふらつきながらミノルを追うと、カーブミラーに自分が映った。気持ちが顔に出ており、どんよりとした虚ろな瞳と視線が絡む。
……どうしたらいいの。
何も出来ない自分が、情けない。こんなことなら、ユキ達と出掛ければよかったと憂鬱になる。
ミノルの家に向かう事が、以前はとても楽しかった。それなのに、今はこんなにも億劫だ。前を走る背中が、知らない人に思えた。
……あ、また。
次のカーブミラーで、自分の服装が目に入った。胸元と裾にレースをあしらった黒のコンビネゾンで、後ろの腰には大きなリボンがついている。何故このように子供染みた服装なのか、
その服は非常に似合っており、寧ろ大人びている。しかし、今のアサギにはレースやリボンが酷く幼稚に見えた。“ミノルが好きな女の子”は、アサギにとって羨むべき存在。彼女が身につけないようなものを好む自分に、劣等感を覚えた。
何処かで工事をしていたら遠回り出来る、と思う程に切羽詰まっていた。思いも虚しく家に到着したので、自転車を停める。まごついていると、促された。
「お邪魔します」
蚊の鳴くような声で告げると、ミノルの声がワントーン高くなる。
「家には誰もいないからさ、適当に寛げよ」
誇らしげにそう言ったミノルに、アサギは絶望する。せめて先週のように母親がいてくれたら、まだ気が楽だった。
二階にあるミノルの部屋へ、キシキシと軋む階段の音を聞きながら上る。そうして、隅のほうに居心地悪そうに正座した。
開いたままの窓から風が入り、カーテンを揺らす。
隣はトモハルの家。不在だと知っているのに、顔を覗かせてくれないか期待してしまうアサギは幾度もそちらを見る。
「今クーラー入れるから」
ジュースにスナック菓子が広げられ、準備が整うとゲームを開始する。
それは、アサギには未体験のゲームだった。最近出たばかりのもので、人気なことは知っている。説明を受けたが上の空で、何度やってもミノルには勝てなかった。
「ミノルは上手だから、私じゃつまんないでしょ」
重苦しい空気を感じ、アサギは引き攣った笑みを浮かべた。息が詰まる空気に耐え切れず、ジュースを必要以上に飲む。
「鈍臭いな、こうすんだよ」
「え?」
ミノルはアサギを引き寄せ、背後から抱える形でコントローラーを握った。二人の手が触れ合い、互いの熱を感じる。
しかし、アサギは瞬時に蒼褪めた。
「こうすると早く動くから」
愉快そうに覗きこんだミノルとは真逆で、アサギは強張った表情で唇を噛み締めた。吐息が髪にかかり、揺れる。
……怖い!
トビィとは違う、手の大きさと温もり、そして香り。アサギの全身に、鳥肌がたつ。
何故ここまで触れてくるのかさっぱり分からず、アサギは泡を吹きそうな程緊張した。彼女がいる人は、他の女の子に対しても大胆になるのだろうかと余計な事を考える。
ミノルが、知らない人に見えて仕方がない。
「あのさ、本腰入れてプレイしてくれねーと、俺がつまんねーんだけど。アサギなら上手く出来るだろ、反射神経よいし、手先も器用だし」
「う、うん、が、頑張る……ね」
身動ぎし、あからさまにミノルから離れたアサギは愛想笑いを浮かべる。
拒絶されたようで、ミノルは顔を顰めた。人の感情に鈍感だとしても、挙動不審なアサギに気づく。瞳を細め一瞥し、わざとらしく溜息を吐きゲームを再開する。
言葉を交わすことなく、二人はコントローラーを握り締めた。
言われた通りゲームに集中するアサギは、勝たねばならないと暗示をかける。
反して、ミノルはアサギの横顔を見つめていた。簡単に勝ててしまうので集中していなくてもよいことと、先程触れ合った肌を思い出した為だ。身体の芯が熱くなるのを感じた。髪の香りだったのか、自分にはない甘くて柔らかなそれに頬が赤くなる。コントローラーを握る細くて綺麗な指は、触り心地が良かった。憂いを帯びているような綺麗な横顔に、艶やかでぷっくらとした唇が妙に際立っている。
ミノルは喉を鳴らした。
『アサギとキスしたわけ? で、上機嫌なわけだ?』
トモハルの声が、脳で反響する。そう言われ、ずっと意識していた。
こうして二人きり、アサギとキスをするなら今しかないと思った。そのつもりで、招いた。
キスなど、簡単だった。
あれから毎日、憂美とキスをした。
……まぁ、アサギも一応彼女なんだし。キスくらいしとかねーと、平等にな。
ミノルは、どちらが
おそらく、アサギを選ぶことになると解っていた。
しかし、告白してきた憂美は断るには惜しい容姿だった。
それだけ。
自分よりも遊び慣れていた憂美に、背伸びをして付き合った。手を繋ぐことに抵抗はなく、他の小学生があまりしていないようなキスだって体験した。
大人になった気がした。
自分が誇らしく思えた。
次は、得た魅力をアサギに伝えねばと思った。これでトビィのように自分も気にしてくれるに違いないと、何処となく納得していた。
トビィへの敗北感と羨望が、歪んでミノルを支配する。
抱き締めることもキスをすることも容易いと思っていたのに、実際アサギを前にすると出来ない。緊張で頭の螺旋が吹き飛び、やり方を忘れてしまった。
脳は正直だ。本当に好きなのはアサギで、遊び相手の憂美とは違うと、完全に分けている。
「クソッ」
それに気づかず、上手くやらねばトビィに盗られると、勝手にプレッシャーを背負った。普段のほんわかした明るい笑顔のアサギであれば談笑しながら雰囲気を作れたのに、余所余所しい態度に困惑する。
二人の間に、大きな壁が出来ていた。
「あ、勝てた!」
ゲームどころではなかったミノルに、ようやくアサギは勝利することが出来た。これで少しは流れがよくなるだろうと笑みを浮かべ、首を動かす。
「ミノル?」