歌姫ガーベラ
文字数 3,838文字
だが、その風は強すぎて、気を抜けば呷られ後退してしまう。息が出来なくて後ろを向き、地面に這い蹲って必死に耐える。
娼館の前に捨てられていた赤子は運良く拾われ、生き長らえた。ガーベラはその場所で健やかに育ち、自然と娼婦になった。それは必然だ。
もし他の場所に捨てられていたら、淘汰されていただろう。もしくは、死を免れたとしても贅沢な衣装や食事など手の届かぬ、貧困層にいただろう。
夜の空気は、清冽な水のように胸に染み渡る。ぼんやりと海を眺め、唇を動かした。疲れ果てて眠ってしまった客の寝息を聞きながら、とぎれとぎれの声を出す。
「何もなき宇宙の果て 何かを思い起こさせる
向こうで何かが叫ぶ 悲しみの旋律を奏でる
夢の中に落ちていく 光る湖畔闇に見つける
緑の杭に繋がれた私 現実を覆い隠したまま
薄闇押し寄せ 霧が心覆い 全て消えた
目覚めの時に 心晴れ渡り 現実を知る
そこに待つのは 生か死か」
窓枠に、そっと指を這わせる。ざらりとした感覚も、愛おしくすら感じた。
自分を生かしてくれたこの場所、娼館マリーゴールド。
ここから出て行きたい願望が過ぎることもあったが、望んではいなかったのかもしれない。新しい事に挑戦する勇気は、持ち合わせていなかった。
引く手数多の人気娼婦には身請けの話が幾度もあった。だが、場所が変わるだけで閉じ込められるのは同じと思い丁重に断ってきた。
いつしか、これまでの不変な生活が全てで構わないと保守的になっていたのだろう。
新鮮なものに心を乱され、狂いそうで怖い。
『とても、綺麗な方ですけど。……何処か、死を覚悟されていたみたいで。何か、あったのかと』
穢れのないアサギの真っ直ぐな瞳は、自分を見透かしていた。
「心を抉ってくれるわね、あの子」
アサギは、率直な思いを口にしただけだろう。けれども、ガーベラの胸には鋭く深く突き刺さった。
誰にも見られたくなかった、ひた隠しにしてきた心を暴かれた気がして恐ろしい。それを認めたくなくて、決意したのかもしれない。
今まで籠の中の鳥だったガーベラだが、風は彼女の籠を倒した。運よく外れた扉から、逃げるようにして足を踏み出す。
一大決心をし、勇者アサギが羨望する娼婦ガーベラは、その日カーツの街を飛び出した。館の主人にも、仲間にもきちんと話し、了承を得ている。仲間たちは狼狽したが、意外にも主人がすんなりと許可を出したので揉めることはなかった。
しかし、行く先は誰にも告げず。
ただ、唄うことが好きな彼女は自分の歌声に賭けた。何処かで歌い手としてやっていけたら、と夢を見た。
アサギはその後も暇を見つけてカーツの街へ来たが、目的のガーベラがいなくなっていたため、ひどく落胆した。
その様子を間近で見ていたトビィは、言わずもがなガーベラを捜すことにした。哀しむアサギは見たくない、ならばその原因を取り除かねばならない。
歌姫を夢見て旅に出たガーベラを、不本意ながらもトビィは追った。
「全く……アサギ様の我儘に主が付き合わずとも」
「言うな、クレシダ。アサギが無理強いしているわけではない、オレが叶えたいだけだ」
「さいですか」
付き合わされるクレシダは、普段通りの仏頂面で言葉少なく不平を零す。
護られていた娼館から一歩出てしまったガーベラに待ち受けていた現実は、想像以上に辛いものだった。過去を切り離し、新たな自分として生きていこうと決意したものの、途方に暮れた。
娼婦ガーベラを知る男たちが、これ幸いと身体を求めたのだ。
人気の美人娼婦を知る男たちは、運悪く各地に散らばっていた。在席していたのが港街だった為、客は各地から仕事でやって来た男たちが多い。ゆえに、地方に散らばっていたのだ。
何処へ行っても、誰かが知っている。まさか自分の知名度がそこまで高いとは思わなかったガーベラは、嬉しいよりも恐れをなした。歌を褒められ知名度が上がれば、その分過去の自分を曝け出すと脅してくる者も増えた。
この惑星で、娼婦ガーベラではなく“歌姫ガーベラ”として生きたいという願いは儚く崩れ落ちる。
男と寝るのが好きだったわけではない、今の自分は娼婦ではないと声を張り上げても、聞いてくれない。
『娼婦だった頃のほうが皆に愛されていただろう?』
『歌声など二の次だ、お前は足を広げ微笑んでいればそれでいい』
歌声を求めてくれる幼き子や老人もいた、けれども男がそれを許さない。
『あんた、娼婦だって? 毎晩この酒場で歌うといいよ! その後、奥の部屋で乗客の相手をしてくれるなら食事も与えるさ』
『なんだい、寝台の上で歌うって意味じゃないのか。ただの歌なんざ必要ないよ』
辛辣な言葉を浴びせられ、手荒く身体を奪われ、娼婦に戻ったほうが楽ではと何度も思った。
そのほうが、金になる。
「歌声は褒められるのに……過去の汚れた私が足を引っ張る」
天を仰ぎ、嘆息した。それでも、歌いたい一心で続ける道を選んだ。
その日も、路地裏に連れ込まれた。助けを呼ばぬようにと口に不潔な布を詰め込まれ、強引に手を壁につけさせられた。両手を固定され、身動ぎしても嘲笑を浴びせられながらスカートをまくられる。ひやりとした空気に、身体中が硬直する。
今日もまた、愛撫無しの行為が始まるのだ。
歯を食いしばった。終われば解放される、殺されることはない……じんわりと悔しさから滲んできた涙が心を挫けさせぬように、せめて気丈に振る舞う。
周囲から自分を切り離し、自己防衛に入った。それは、街を出てから身につけた逃避方法だ。それがよくないことだと解ってはいたが、こうでもしないと気が狂いそうだった。
身体に力を入れて待機するが、男は侵入してこない。
我に返ったガーベラの耳に、言い争う声と蛙が潰れたような悲鳴、そして骨が砕ける様な音が届く。
「……何をやっているんだか」
自由になった手で口の布を引っ張り出すと、見知った男の名を呼んだ。
「トビィ」
忘れるはずも、見間違えるはずもない。見事な紫銀の髪が揺れ、全身からことごとく異性を陶酔させるほど匂やかなものを発する男などそういない。
窮地の危機から救ってくれた、美形の王子。しかし、そんな夢物語を見る歳でも性格でもないことは自分で分かっている。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「……詮索しないのね」
「興味がない」
二人は、どちらが言い出したわけでもないが居酒屋へ移動し飲み交わした。
トビィは「アサギの為」と本音を吐露し、ガーベラ自身には全く興味がない事を釘差すように告げる。
そう言われたところで、ガーベラが傷つくことはない。
「でしょうね。貴方、アサギを溺愛しているもの」
愉快そうに笑い、酒を啜る。完璧な王子には、完璧な姫が最初から存在するのだと実感した。そういう世界なのだと、漠然と思った。
「なら、私に相応しい王子は何処にいるのかしら」
トビィに聞こえぬよう、他人事のように呟く。
二人は酒豪で、水を飲むように煽り暫くその店に留まった。
「何処か。……誰もが私の過去を知らない場所へ行きたい。そこで、一からやり直したい」
うっとりと口にしたガーベラに、トビィは若干口角を上げる。
「やり直したい、ねぇ?
「その時は、自分が愚者であったと認めるだけよ」
皮肉めいた言い合いが続いたが、トビィの考えは最初から決まっていた。
惑星クレオへ連れていくことが目的だった。無理強いは出来ないが、ガーベラもその気ならば話は早い。
「一つ提案がある。条件付きだが」
「何かしら、色男」
静かに話を聞いていたガーベラは、最後まで聞き終えてから嫣然とする。
「連れて行って、新しい場所へ。生れ変わるために」
娼婦ガーベラは、トビィの独断で惑星クレオへ移住することになった。
ガーベラは、存分に唄うために。
トビィは、会いたいと言っていたアサギのために。
天界城では案の定波紋を呼んだ。しかし、多く天界人は彼女を歓迎した。美しいものを好む彼らは、ガーベラの容姿と声を受け入れたのだ。稀代の美女で、マダーニやアリナと違い物腰と口調が優美、控え目な態度が好感を与えた。
「連れて来てしまったのか……」
困惑するクレロに、トビィは眉を顰める。
「ただの女だ。何か問題が?」
「いや……杞憂であればとは思うのだが」
言葉を濁すので、トビィは舌打ちをする。
「隠し事はなしの約束だったろ、都合が悪いのか」
「胸騒ぎがするのだよ」
悪意を期待するかのような空気に曝され、クレロとトビィは背筋が凍るのを感じた。
「彼女から目を離さないでくれ、頼む」
絞る様なクレロの声に、トビィは頷くしかなかった。
こうして惑星クレオへ足を踏み出したガーベラは、未知なる土地に歓声を上げた。
真っ白な自分が、旅立てる場所。まさかそんな世界が広がっていたとは思わず、無邪気に喜んだ。
「ここならば、娼婦であったことを誰も知らない。歌姫として成功出来るといいな?」
鼻で笑う小馬鹿にした態度のトビィに反発しつつ、ガーベラは自分の声を信じ高らかに歌い続けた。
「金などいらない。ただ、この歌で誰かが微笑んでくれるならば」
異界の娼婦が、惑星クレオで歌姫として上り詰めるのにそう時間はかからなかった。
それほどまでに、誰をも虜にする歌声だったのだ。