呼ぶ声が聞こえ
文字数 2,078文字
渦中のアサギは、天界城に来ていた。慣れてきた純白の廊下を歩き、時折迷いながら初めて行く場所に足を踏み入れようとしている。
目的は天界城の図書室。人間界とは全く違った書物が保管されているであろう場所である。クレロから許可は出ているので、堂々と入ることが出来るはずだった。しかし、アサギに対して警戒心を抱き始めた天界人も少なくはなく、行く先々で疑惑の視線を投げかけられる。
多少の居辛さを感じたものの、笑顔を浮かべて挨拶をしながら横を通り過ぎた。人間が徘徊していては嫌なのだろうとは察したが、疚しい事は何もないので胸を張って歩く。
図書室といっても過去の記録が綴られた書物があるだけらしいが、惑星クレオの歴史に興味があったアサギは読んでみたいと純粋に思った。
琥珀色した扉の左右に、二人の警備兵が立っている。
恐縮して軽く頭を下げると、しかめっ面の二人は面倒そうに扉を開いた。やはり歓迎はされていない。けれどもすんなり中に入ることは出来たので、アサギは顔を綻ばせる。
「ありがとうございます!」
気落ちしていても仕方がないので、素直に感謝を述べた。
「承知の上だと思いますが、持ち出しは厳禁です」
「はい、解りました」
中に入ると、すぐに扉は閉まった。アサギ以外室内には誰もいないようだ。胸いっぱいに空気を吸い込むと、独特の匂いがする。
膨大な書物の中から、何を読んでみようか。
出来れば古いものから読みたいと思い、図書館の奥へと消えていく。思ったよりも広大なその場所の、入口から真っ直ぐ歩いた突き当りで目の前の棚を不思議そうに見つめる。
辛うじて手が届きそうな場所に、気になるものが一冊並んでいた。
大概、背表紙には天界人の文字で年号が記載されているのだが、その本には何も記されていない。
背伸びをして、右腕を懸命に伸ばす。惹かれた本に指先が届くと、強引に引き抜いた。
茄子紺色したその本は、丁重に装丁されているが題名が何処にも記されていなかった。一見、和雑貨店に並ぶノートのようだ。そこまで厚くもない。
首を傾げ、中を開く。一風変わったその本に、興味をそそられても仕方がないことだった。
目を落とし、つらつらと読み始める。とても記録書には思えない内容だが、短そうだったので全てに目を通した。
「“……そのまま互いに息絶えました。”……えぇ!? これで終わり!?」
仄かに光が揺らめき、薄暗い図書室ですっとんきょうな声を上げる。
アサギは手にした本を読み終えた。想像していなかった結末に声が飛び出す。本を閉じたものの、納得がいかないと眉を顰めそれを見つめる。
「…………」
しかし、名前を呼ばれた気がして周囲を見渡した。静まり返っている室内に、何かが反響した気がした。
誰もいない筈だ、だが確かに名を呼ばれた気がする。
声の主を探す為歩き出す。怖くはない、ここは安全な天界城だ。魔物など入ってこられない、誰かが探しに来ただけかもしれない。
耳を澄ませると、やはり「アサギ」と声が聴こえる。
遠くから聴こえたその声に、口元に笑みを浮かべた。
「はい!」
返事をして駆け出した、近づくその声はトビィだ。
扉に向かったアサギと、入ってきたトビィが出会う。
「図書室にいると聞いて。こんな場所に面白いものなんてあるのか?」
「ええっと……これ。読み始めたら、可愛らしい童話っぽかったので最後まで目を通したのですけど。最後、登場人物が死んでしまって驚いていたところです」
つまり幸せな物語ではない、ということだろう。不服そうに眉を寄せているアサギに、トビィは苦笑する。内容よりも、こんな場所に“物語”があったことに驚いた。天界人も娯楽の為に読書をするのだろうか。
「題名は?」
「それが、なくて」
アサギは、手にしていた茄子紺色の本をトビィへと手渡す。
若干黴臭いそれだが、色は然程褪せていない。不思議な触り心地の紙だと思い、手にしたトビィは背表紙を、表紙を、裏表紙を見つめる。確かに何も記載されていないので、低く唸る。アサギが言う通り、これが物語ならば作者や題名など記載があってもよいのではないか。
本を開こうとすると、遠くから新たな声が聞こえた。
「主、どちらにおられますか。主!」
「デズデモーナ、ここだ」
本から視線を外し、相棒である黒竜の名を呼んだトビィは扉に視線を向けた。
何処となく慌てているようにも聞こえたデズデモーナの声に、アサギは首を傾げる。普段冷静な声色とは違い、微妙に高く早口だった為だ。
デズデモーナは黒い長髪、真紅の瞳、頭部に二本の角がある人型の姿で扉から顔を覗かせる。本来は黒竜の姿なのだが、アサギが天界の宝物庫から無断で持ち出した杖の威力で人型に変化することが可能となってから、頻繁にこの姿でいた。
気に入っているのだ。
逆にクレシダは人型に慣れない様子で、竜の姿でいることのほうが多い。
「緊急事態です。クレシダとオフィーリアは待機しておりますので、我らも」
「緊急事態?」
物騒な物言いに、アサギとトビィは顔を見合わせた。