外伝7『埋もれた伝承』1:山奥の村
文字数 3,125文字
声が聞こえた。
それは、白々とした空虚感が心を侵食するような、悍ましいものだった。
ゆっくりと瞳を開き、数回瞬きをする。
何処かで聞いたことがある声なのに、思い出せない。すぐ傍にある、知っている声だと確信しているのに。
憂鬱な気分のまま寝台の中で小さく伸びをし、欠伸をする。静まり返った家は、酷く物悲しい。ここには、自分以外誰もいない。凍り付くような寂しさを感じていると、窓の近くで小鳥が鳴いている事に気づいた。
胸を撫で下ろすと、アミィはするりと寝台から這い出る。凍り付いていた自分を溶かしてくれた存在に挨拶すべく窓へ近づくと、静かに開く。
「おはよう!」
その軽やかな声に応えるかのように、鳥たちが一斉に振り向いて囀った。
柔らかな笑みを浮かべたアミィは、差し込んでくる太陽の光を浴びながら深呼吸をして大きく伸びをする。窓から見える風景は、なんら変わらない光景だった。陽が上り始めると村の人々はすぐに作業に取り掛かる。穏やかな村の、日常的な朝だ。
アミィは身支度を整えると、直に家を飛び出した。
村を駆け回っている鶏に混じって木桶を片手に向かう先は、村の中心部にある井戸である。こんこんと湧き出るそれは、いつでも冷たくて美味しい。村の生活を維持する、貴重な水源だ。
山奥のこの村で幾多の生命を育んできた偉大な井戸は、涸れることがないように思える。大雨が降れば地中から滲みだした水が川をつくることもあったが、微量であるし、何より頼りない。歩けば河にも辿り着けるが、多量の水を運ぶには人と馬が必要だった。
この井戸は、村の人々の生命の手綱だ。
村の人々は、毎朝ここで水を汲む。すでに列が出来ていた為、最後尾に並んだアミィは空を仰ぐ。痛いほど眩しい日差しは現実を実感させ、ほっと溜息を吐いた。
「変な夢だった……」
ずっと、誰かが赦しを請うように謝罪を続けていた。
底知れぬ悲しみに誘い込まれるような声に囚われていては、行動に支障をきたす。アミィは顔を左右に振り、声を、そして夢を振り払った。
「おはよう、アミィ」
「おはようございます!」
挨拶を交わしていると、ようやく順番がまわってきた。
「お水いただきます」
深々と頭を下げて、井戸に桶を落とす。ちゃぽん、と小気味よい音が聞こえた。
アミィの両親は数年前に他界した為、一人暮らしをしている。今年で十五歳になるが、親切な村人たちに助けられ、一通りの仕事をこなして生活していた。
豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇を持つ。まるで少女たちの夢物語、御伽噺の中のお姫様のような愛くるしい顔立ちは、見る者全てを魅了してしまうと言っても過言ではない。
華奢ながらも女らしい体つきと、整った容姿もさながら、明るい性格と気立てのよさ、そして働き者であったことからアミィは愛されて育った。困ったことがあっても、必ず誰かが手伝ってくれたので不自由はない。
この村に産まれて本当によかったと、心から感謝した。
他の村では、僅かな金と引き換えに子供を売りに出すこともあるという。街に出ていた村人が戻る度にそんな話を聞かされ、子供の頃は震えたものだった。
「木桶貸して。僕が運ぶよ」
井戸から汲み終えると目の前に幼馴染が立っていて、手を伸ばしている。黒髪の少年は、アミィと同じ歳でリアンといった。
「おはよう、リアン。いつもありがとう。でも私、……運べるよ?」
唇を尖らせて瞳を伏せたアミィだが、急かすように手首がしなるので言葉に甘えて木桶を手渡した。
「これくらい、僕が運ぶってば。そもそも、一緒に行こうって誘ってるのに。一人で勝手に行くんだもんなー」
不貞腐れたようにそっぽを向くリアンに、アミィは苦笑する。
「だって、リアンはまだ寝ていたでしょう?」
「起こせばいーんだよ、起こせば! 友達だろ」
「友達だから、気持ちよく寝ている時は邪魔したくないのに」
「ぅぐ。……わ、解ったよ、今度から僕が早起きしてアミィの家で待つ」
「そ、それもちょっとだけ困るかな」
他愛のない会話をしながら歩いていると、声をかけられた。
「おはようアミィ、朝食を食べていけって父さんが。おいで」
「おはようアミィ、一緒に朝食を食べよう。今日はオレが燻した肉つきだ」
双子のトリュフェとトロワが、片手を上げてやって来た。
珍しい紫銀色の髪は何処にいても光に反射し、明け方の星のように煌めく。計算されてつくられたように端正な顔立ちの二人は、村の女たちに人気があった。
「おはよう、トリュフェ、トロワ。いつもありがとう!」
兄であるトリュフェが短髪で、弟のトロワが長髪なので間違えることはない。アミィが知る限り、昔からこうだった。二人はアミィの五つ年上である。
双子といえど、顔立ちは似て非なるもの。トロワのほうが背が高く大人びた雰囲気で、兄のトリュフェは幼さが残る。
「先日届けてくれた野菜の礼だ、気にするな」
「その前は痛み止めを調合してくれただろう? 親父がすっかり良くなったと喜んでる」
アミィは二人に優しく微笑んだ。
こうして朝食を食べに行くのは、ほぼ毎日だった。二人から誘いが来るので、断ることはない。一人より大勢での食事が楽しい為、正直楽しみにしている。その御礼として、自分が作った料理や野菜に薬草を届けていた。
リアンは肩を竦めると、木桶を指して「家の前に届けておくよ」と苦笑した。彼が毎朝楽しみにしているアミィとの時間は、ここまでだ。“お迎え”が来ることを知っているので、少しでも長くいる為に、一緒に水を汲みに行きたかった。
「ごめんね、リアン。ありがとう」
「気にしないで。たくさん食べて来いよ!」
「うん。またね!」
礼儀正しく腰を折ってリアンを見送ったアミィは、双子と共に方向を変えて歩き出す。
「水くらい、言ってくれたらオレが運ぶのに」
「私から仕事をとらないで、トロワ」
アミィを真ん中にして横になって歩く三人は、見ていてとても華のあるものだった。
しかし、双子の表情が険しくなる。
「おはよう、アミィ。今日は森へ入る予定だが……一緒に来ないか?」
双子の家の手前で現れたのはベッカーだ。
代々村に住んでいたアミィたちと違い、何を好き好んでか最近都会から引っ越して来た洗練された男である。深緑の短髪と鋭い瞳が特徴の男で、一度妻を亡くしたという噂がある。しかし、自身の過去は勿論私生活も話さないので、真相は定かではない。
その為、様々な憶測が村の中で飛び交っていた。
三十近い男だが、引き締まった筋肉は衰えなど感じさせないほど若々しく逞しい。形良く尖った鼻と、滅多に笑みを浮かべず頑固そうに結んだ薄い唇は、色気を醸し出していた。
「返答は後だ、朝食が冷める」
「今日はオレ特製の肉の燻製なんでね、またなっ!」
アミィの代わりにぶっきらぼうに返答した双子に、ベッカーは呆れたような溜息を吐いた。
「やれやれ。アミィは君たち二人の所有物ではないだろう」
そこは、険しい山奥の村だった。
あるのは自然の恵みのみ。不変こそが最高の贅沢であると信じて疑わない場所で、五人の男女は暮らしていた。
誰もが解っていた、このまま共に過ごすことは出来ないと。
永劫不変など、有り得ない。何処かで均衡が崩れると知っていた。それでも抗って引き伸ばし、最悪の事態を免れ、“たった一人が手にすることが出来る最上の生活”を夢見て暮らしている。
四人の男が欲したのは、アミィ。
村の人気者であり、嫋やかで慎ましく、抱き締めたくなる娘。
それは、愛しい女。