アサギという娘

文字数 6,599文字

 サイゴンとホーチミンは、親密な沈黙を分かち合うように歩いた。
 どちらが先だったのか解らないが、今、ニ人は軽く手を握りその温もりを確かめている。ゴツゴツした太い指と、華奢な細い指が触れ合うと安心した。
 それはまだ、ホーチミンが女装をせず、そこらにいる魔族の男子として元気にサイゴン達と走り回っていた頃。やんちゃなホーチミンが大きな魔法を連発し、サイゴンはそれを避けながら剣を振り回すという危険な遊びが好きだった。帰り道には、手を繋いで歩いたものだった。
 芽生えた恋心は、ホーチミンが先だった。
 サイゴンの姉であるマドリードが類まれなる美女で、彼女を見るたびに華やかで美しい蝶のようだとホーチミンは羨望の眼差しを向けていた。憧れは、自身に反映したくなる。
 丁度その頃、街へ出た際にサイゴンが年頃の娘を指してこう告げた。

「見ろよ、ミン。あの女の子、可愛いよな。ふわふわの服を着てる、甘い砂糖菓子みたいだ」

 確かに目立った容姿をしていたが、美しさではマドリードに敵わない。サイゴンは大した意図もなく何の気なしに呟いたのだが、ホーチミンは自分の尊敬対象を貶められたように感じた。屈辱だった。
 流れるような髪に、花の髪飾り。精密な刺繍をふんだんにあしらった、風に揺れる軽い素材の衣服。何処かの令嬢だったのかもしれない、気品があった。
 だが、そんなことはどうでもよい。ホーチミンの闘志に火がついた、サイゴンの発言を無視出来なかった。

「……ぜんっぜん、かわいくないよ!」

 涙声で叫び、勢いよく走り出したホーチミンの気持ちなど、サイゴンには解る筈もない。呆気に取られて消えてしまった友人の後姿を見つめる事しか出来なかった。
 翌日、家の扉を叩く音で目を覚まし、いつものように顔を覗かせたサイゴンは硬直した。

「おはよう、サイゴン」

 ドアの先でにっこりと微笑むホーチミンは、昨日までの親友ではなかった。自分と同じような衣服を身に着けていたはずだったが、今朝は明らかに少女用の衣服を身に着けている。
 言葉を失ったサイゴンに微笑み続けるホーチミンは、くるりとその場で一回転して勝気に微笑んだ。

「可愛いでしょ?」
「……何か悪いものでも食べた?」

 サイゴンは、ようやく言葉を搾り出した。薄桃色したくるぶしまである動きにくそうな衣服を身にまとい、髪には大輪の花を飾っているホーチミンを奇怪な目で見つめる。

「見て、ちゃんと下着も女の子用なんだから」

 ぶわっとスカートの裾をめくり上げ、ホーチミンは可愛らしく小首を傾げる。
 すらりとした脚は、確かに艶かしい。若干透けているように思える、黒色の艶やかな下着が瞳に飛び込んで来た。そこまでは確かに色っぽい。だが、股の部分に当然のごとく違和感がある。

「え、ぁ、い、ぉ、うっわー……」

 股間を凝視し、上手く口が回らず言葉を発することが出来ないサイゴンに、ただホーチミンは不思議そうに微笑むばかりだった。
 二階から、マドリードが興味深そうにニ人を眺める。
 何かの罰ゲームだと、その日限りの悪ふざけだとサイゴンは思っていた。しかし、ホーチミンは以前自分が着ていた少年用の衣服は捨て、少女用の衣服に買い換えていた。「両親は止めなかったのか」と問い質すと、母親に至っては娘が欲しかったことも手伝い、乗り気だったらしい。父親の意見は、聞いていない。
 ホーチミンは、本気で女装に取り組んだ。女装というより、女性になりたかったので立ち振る舞いも研究した。それもこれも、ことの発端はサイゴンが何気なしに呟いた『あの子可愛い』という言葉だ。幼少の友人への気持ちを友情なのか愛情なのか判らぬまま、ホーチミンはそれを半ば強引に“恋愛感情”だと認識した。もしかしたら、異性に興味を持ったことに腹を立てただけかもしれない。
 けれど、思いのほか女装は楽しかった。そして年頃の娘らよりも自分のほうが美しく思えたホーチミンの行動は、激化していく。料理に裁縫、掃除は勿論のことつつましい立派な妻となるべく、母親からマドリードから、近所のおばさんから女性としての心得を習得した。
 それは、真面目で利口なホーチミンにとって、新たな学習のようで楽しかった。あれよこれよと褒められ伸ばされ、着実に習得していく。
 どう反応してよいやら解らず、サイゴンは戸惑うばかりだった。あろうことか好意の矛先が自分へ向けられていると知り、更に混乱する。かけがえのない友人だと思っていたのに、それは自分だけだったのかと悲しくなった。
 ただ、変わり果てた親友であれ、嫌悪感を抱くことはなかった。夜這いをかけられても、押し倒されても、迫られても。
 サイゴンが本気で嫌がったならば、ホーチミンは止めていただろう。

「ふふっ」
「……なんだよ、気味が悪いな」
「なんでもない」

 歩きながら、指を絡める。
 実は、先日図書館で口付けを交わしたが、それは二回目だ。もっとも、サイゴンの記憶にはない。
 それはかなり前の事。
 秋に開催される豊穣の感謝祭にて、歌って踊って呑んで疲れ果てたサイゴンは道端でひっくり返っていた。苦笑しながらも、ホーチミンは無防備な姿で眠っている親友に膝を貸し、ひと時の静かな甘い時間を過ごした。
 その時、そっと口付けた。
 数回、目蓋を引きつらせて起きるかと思われたサイゴンだが、微笑したまま深い眠りへ戻っていった。会話がなくとも至福の時で、うっとりと身を任せた。身体を温め合ったり、会話を交わさずとも心は満たされる。それを、実感した。

「ふふふっ……」

 過去を思い出したホーチミンは、自嘲気味に嗤った。苦笑する。サイゴンが今、何を思っているのかなど知らない。ただ、拒絶することなく付き合ってくれる彼は優しいし、だからこそ惚れたのだと思っている。この先、彼は普通の女性を伴侶とするだろう。想いは一方通行だが、今この時間だけでも独占していることに感謝した。

「ホーチミン様、サイゴン様!」

 明るい声が響き、ニ人は慌てて手を放すと距離を置いた。

「アサギちゃん、こんばんは。伝えたい事があって」

 魔法の練習から戻り、駆け寄ってきたアサギをホーチミンは優しく抱き締める。

「明日からね、外せない仕事が入ってしまったの。暫く一緒にお勉強が出来なくて、ごめんね」
「そう……ですか。解りました! 寂しいけれど、待ってます」

 後方に立っているハイに目配せをしたホーチミンは、無言で頷く姿を見て胸を撫で下ろした。

「夕飯はこれからだ、一緒にどうかね」

 ハイに誘われたので、今夜も共に食事をすることにする。すっかり魔王に同伴することになれてしまった。過去の自分が知ったら驚くだろうと、サイゴンとホーチミンは肩を竦めて笑う。
 食堂にはすでに飲酒済みのアイセルがいたが、あろうことか魔王アレクも来ていた。

「珍しいですね、このような場所に」
「気分転換だ」

 そう告げて微笑むアレクに、アイセルは軽く目配せをする。気分転換もあるが、妙な動きをする者がいないか探りに来ていた。侵入した人間を手引きした通じる者が、必ず何処かに居るはずである。
 何も知らないのは、アサギのみ。
 談笑しつつも、その場の全員が周囲に気を張り詰めている。

「ねぇ、アサギちゃん。そういえばトビィちゃんと知り合いなんですってね」

 白身魚と南瓜の蒸し焼きを配り始めたホーチミンは、早速食べ始めたアサギに声をかけた。

「はい! ホーチミン様もトビィお兄様を知っているんですね」

 ホーチミンの、喉が詰まる。“トビィお兄様”、間違いなくアサギはそう呼んだ。先程の小説が甦り、脳内を駆け巡る。あの小説の主人公アリアが『トバエお兄様』と呼んでいた声が、アサギの声で再現された。冷静を装い、言葉を選びながら告げる。
 胸がドキドキし、張り詰めてくるのを感じた。

「トビィちゃんは人間だけど有名なドラゴンナイトだったから、知らない魔族のほうが魔界では少ないわ。美形だしね」
「かっこいいですよね、脚も長いですし。思わず、お兄様って呼び始めたんですよ」
「……血は繋がっていないのよね」
「はい、この世界で初めてお会いしましたから。ただ……奇妙な感覚なんですけど、昔会った事があるような気がして。初対面だったけど、なんでしょう、知っていた、というか」

 照れながらそう告げられ、ホーチミンの顔色が変わった。あの小説は、もしやアサギの過去の記憶ではないのか。
 杞憂であれと願いつつも震えるホーチミンを気遣い、サイゴンが机の下で手を握る。

「トビィ? 何処かで聞いた名だな?」
「えっと、一番最初にハイ様に斬りかかった人です……」
「あー……あの、人間にしては俊敏な」

 ハイが仏頂面でそっぽを向いた、アサギがトビィを褒めたため機嫌が悪い。容姿はともかく、剣先を難なく交わしたものの、彼に武勇の才能があることは明白。単純な嫉妬心である。
 膨れっ面のハイは放置し、興味を持ったアレクが会話に参加した。

「トビィとアサギは知り合いなのか。……マドリードが育てていた子だろう?」
「アレク様もご存知なのですか!? トビィお兄様って、凄いんですね」

 アサギは、驚くばかりだった。トビィが誉められると、嬉しくて自然と笑顔になってしまう。

「やっぱり、トビィお兄様はすごいですね。強くてかっこよくて、優しくて。無敵です」
「アサギちゃんは、トビィちゃんのことが好きなのね」
「はい、とっても! 信頼していますし、尊敬もしています」
「……色恋事とは違うのかしら」
「いろこい?」

 切り込んで訊くホーチミンに、サイゴンが顔を顰め大きく手を揺する。アサギは困惑気味に首を傾げ、ハイは一層不機嫌になり机を指で叩き始める。

「恋愛感情があるか、ということですか? えっと、そういうものではないです。ホントに、頼れるお兄さんで」

 控え目に告げたアサギに、ホーチミンは微笑んだ。女の勘が働いた、女ではないが。

「アサギちゃんには、想いを寄せる人がいるのかしら? ……もしかしてその人、トビィちゃんに似ていたりする? 髪の色とか、瞳とか」

 ホーチミンの質問に、事情を知らないアレクとアイセルは顔を見合わせ首を傾げる。サイゴンだけが喉を鳴らし、緊張気味にアサギの返答を待つ。
 妙に長く感じられる間の後、アサギが当惑して開口する。

「えっと、あの、その人は。私と同じ地球生まれの日本人で、同じ黒い髪と瞳です。正直、トビィお兄様とは似ても似つかないです」

 アサギはミノルを思い浮かべて苦笑した。今、彼は何処にいて何をしているのだろう。無事だろうか、と不安になった。半ば無理やりこちらに連れてきてしまったので、申し訳ない。
 アサギの返答を聞き終えると、緊張していたサイゴンは肩の力を抜いて大きく溜息を吐いた。
 ホーチミンは誤魔化す様に軽く微笑み、不快感を打ち消すために紅茶を口に含む。拍子抜けしたような、安堵したような、腑に落ちないような。嫌な予感に、眉を顰める。

「トビィちゃんみたいな髪と瞳の人って、他に知らない? 知ってる?」
「あ、えっと、私の世界にはあんな綺麗な髪と瞳の人間は存在しません。なので、トビィお兄様しか知らないです」

 不思議そうに返答するアサギに、ホーチミンが口元を押さえる。身体が震え出したので、力強くサイゴンの手を握った。あの小説が指し示したのは“今後トビィに似た男と出遭う可能性が有り、身の破滅に繋がる”という予知ではないのか。
 あれは、小説ではなく予言書では。
 これはホーチミンの直感であり、憶測だ。だが、不可解なあの小説がホーチミンの前に現れたのは、必ず何かしらの意図がある。魔力の高いホーチミンが選定され、導かれたのではないのか。
 アサギを、護る為に。
 押し黙ったホーチミンに、アサギは遠慮がちに問う。

「あの、私からも訊いてよいですか? スリザ様は最近どうしてますか、お姿が見えなくて」
「スリザならば私が出した任務にあたっているので、王宮にはいない。魔界を駆けずり回っている」
 
 間を入れることなく、アレクがそう切り返す。
 その時、アイセルが安堵したように軽く溜息を吐く様を、アサギは見逃さなかった。だが、追求など出来ないのでにこやかに笑うと頷く。

「よかった、なら良いのです。……何かあったのかと」
「不安にさせてすまなかった。スリザが戻ったら、早急にアサギに会いに行かせよう」
「あ、いえ。ご無事なら、良いのです。ただ……いつもアレク様のお傍にいらしたので、不安だっただけで」

 意味有り気に視線を送ったアサギに、アレクは瞳を細める。

 ……この子は、何か気付いている。

 アレクは残り少ない紅茶が揺れるのを視界に入れ、頼りない表情の自分を見つめた。

 食事後、ハイに促されたアサギは部屋へと戻った。
 帰宅間際にアレクが神妙に頷き、ハイもまたそれに応えるように微かに頷く。だが、皆がトビィを誉め、アサギには好きな相手の話まで聞かされ、ハイは意気消沈している。

「大丈夫か」
「……うむ」

 覚束無い状態と、焦点の合わぬ瞳。それでアサギを護る事が出来るのかと、不安を抱いたアレクは軽くこめかみを押さえる。気持ちは分からなくもないが、一喜一憂の幅が広い。
 突風に身体を攫われそうな程脆弱なハイを見送ったアレクは、サイゴンに耳打ちされて自室に三人を招き入れた。そして、アイセルからスリザの現状が告げられる。彼女はまだ、目覚めていない。
 震えて口が開けないホーチミンに代わり、サイゴンがあの小説の話をアレクとアイセルに話した。
 流石に笑い飛ばすことが出来ず、魔王アレクも目を見開き唇を噛締める。

「一旦、整理してみようか。何故だろう、未来は光が溢れている筈なのに。迫ってくる影が濃すぎて、光が呑まれる」

 脱力してそう告げるアレクに、三人は静かに俯き瞳を閉じた。陰鬱な空気が部屋を支配した。

「三人は、スリザを襲撃した人間の女の調査を第一優先としてくれ。私は本を探る、何か語りかけてくるかもしれない」

 三人が顔を上げて力強く頷くと、満足そうにアレクは微笑した。

「そなたらが、私の傍に居てくれて本当によかった。一人では無理だった」

 弱々しいアレクを励ますようにサイゴンは立ち上がり、その手をとった。

「貴方様だからこそ、我らが集っているのです。全ては、貴方様のお心があればこそ」
「ありがとう」
「アレク様、ハイ様に『アサギ様から目を離さぬように』と念を押してください。あの子は勘が鋭い、自分から首を突っ込みそうな気がします」
「確かに……」
「トビィには、俺から話します。恐らく、こちらに向かっています」

 不気味な糸に、この場の全員が絡め取られている気がして。アレクは頷きながらも不安を隠し切れずに、瞳に暗い影を落としている。

「もし、アサギの髪と瞳が若葉のような緑であったならば。全ては一致するのか……」
「考え過ぎやもしれません。そうなると、アサギ様の髪と瞳の色が突然変異で変わらねばなりませんし。予言を含め不可解な事は頭に置きつつも呑まれてはなりません」

 苦笑しそう告げたアイセルだが、彼自身はアサギが予言の娘であると信じて疑わない。

「そういえば……アサギちゃん。たまに太陽の陽があたると、若干緑っぽい髪の色をしていないかしら? 若葉というよりは、深い森林の深緑的な」

 ぼそ、と呟いたホーチミンに、全員がそれを思い出して石の様に硬い表情を浮かべた。

「……なんにせよ、気を引き締めよう。彼女を護らねばならない、私の全てを懸けて。光溢れる未来を、潰してはならない」
「御意に」

 信頼できる三人の魔族を見送ると、アレクは深い溜息を吐きながら、恋人のロシファから貰った茶を淹れた。啜っていると、無償に恋人に会いたくなった。本当は、いつでも会いたい、四六時中傍に居たい。

「逢いに行くか」

 気弱に呟き、闇に紛れて姿を消す。
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登場人物紹介

アサギ(田上 浅葱) 登場時:11歳(小学6年生)

 DESTINYの主人公を務めている、謎多き人物。

 才色兼備かつ人望の厚い、非の打ち所がない美少女。

 勇者に憧れており、異世界へ勇者として旅立つところから、この物語は始まった。


 正体は●●の●●●。

ユキ(松長 友紀) 登場時:11歳(小学6年生)

 アサギの親友。

 大人しくか弱い美少女だが、何故かアサギと一緒に勇者として異世界へ旅立つ羽目になった。

 トモハルに好意を抱いている。

ミノル(門脇 実) 登場時:12歳(小学6年生)

 アサギのことを嫌いだ、と豪語している少年。

 アサギ達と同じく、勇者として異界へ旅立つ羽目になったが、理不尽さに訝しんでいる。

 トモハルとは家が隣り同士の幼馴染にして悪友。

 多方面で問題児。

トモハル(松下 朋玄) 登場時:11歳(小学6年生)

 容姿端麗、成績優秀であり、アサギと対をなすともてはやされている少年。

 同じく異界へ勇者として旅立つ。

 みんなのまとめ役だが、少々態度が高慢ちきでもあったりする。

 なんだかんだでミノルと親しい幼馴染。

ダイキ(中川 大樹) 登場時:11歳(小学6年生)

 剣道が得意な、寡黙な少年。

 人づきあいが苦手なわけではないが、自分から輪の中に入っていくことに遠慮がち。

 同じく、異世界へ勇者として旅立つことになる。

 やたらと長身で目立つことがコンプレックス。

ケンイチ(大石 健一) 登場時:11歳(小学6年生)

 ミノルと親しい可愛らしい少年だが、怒らせると一番怖い。

 同じく異世界へ勇者として旅立つことになった。

 従順だが、意に反することには静かに反論する。

リョウ(三河 亮) 登場時:11歳(小学6年生)

 作品のメインである一人。アサギは「みーちゃん」と呼んでいた。

 アサギと親しく、出会ってからは常に一緒だったが、勇者に選定されず、地球に取り残されてしまった。

 常にアサギの身を案じ、地球で不思議な能力を発揮している。

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