不意打ち
文字数 5,408文字
スリザは眩いばかりのアサギを見て、少なからず嫉妬していた。しかし、この蟠りが何か、解らずにいる。
「花の様に、明るく可愛らしく。誰からも愛される、子」
「スリザ?」
自分が何を口走ったのか記憶がないスリザは、アレクの呼びかけに惚けて首を向ける。
酷く心痛そうな面持ちのスリザに、一瞬アレクが言葉を失った。
アレクにとって幼い頃から共に成長し、自分を支えてくれた言わば姉のような存在。それは、初めて見る憂いを帯びた表情だった。
スリザでは、ないような気さえしてしまった。
アレクは、スリザが胸に秘めていた想いを知らない。どう声をかけてよいのか解らず、息を大きく飲み込む。
「アレク様、失礼致します!」
「アイセル」
その場の軋んだ空気が、大声で緩む。
大股で近寄ってきたアイセルに、弾かれたようにスリザは自身を取り戻した。
恭しく跪き、アイセルは俯いた瞬間に唇を思い切り噛締めた。血が吹き出したが、そのまま顔を上げてアレクに挑むような目つきで淡々と語る。
唇に滲む血にアレクは気づき、眉を顰める。
「真に申し訳ありません、部下の件でご相談が御座います。スリザ隊長をお借りしたい」
「たわけ。自分で対処できぬのか、今私は見ての通り忙しい」
足を踏みながらしながら発した怒気を含んだスリザの声に、アレクは目を丸くし唖然と見つめた。ここまで激しい感情を露にした彼女を初めて見て、面食らう。常に沈着冷静だった記憶しかなく、意外だった。
アレクから送られる痛いほどの視線に気付き、スリザは即座に青褪めた。
「も、申し訳ございません、その」
スリザは消え入りそうな声で謝罪し、自分の失態に唇を噛む。アレクの前では、ここまで苛立ちを見せたことが無い。高貴な彼に見合うようにと、常に気を張り、対処してきた。
「いや、驚いただけだ。そなたはいつも落ち着き払い、悠々としているので……怒鳴る時もあるのだな、と」
微笑したアレクだが、瞳を伏せたスリザは羞恥心で胸が締め付けられた。
「アレク様。お言葉ですが、スリザ隊長の表面しか見ていらっしゃらないのです。本当は」
静かに立ち上がったアイセルの言葉は、火に油を注いだ。
激怒したスリザは、早口で
「申し訳ございません、暫し席を外します!」
とだけアレクに告げると、アイセルの右腕を強く掴み、その場から大股で離れる。
「あ、あぁ……」
色恋事に疎いアレクは、アイセルの想いも、スリザの想いも、解らない。首を軽く傾げて二人を見送ったが、再びアサギに目を落としていた。
今は、アサギが気になっていた。それこそ、スリザにしてみれば非常に辛辣なことだった。
スリザとアイセルは、アレクから離れると互いに睨みあう。勃然と憤怒が湧き上がり、自然と肩が震える。
「私をアレク様から引き離した理由はなんだ」
「あんなの、嘘に決まってる。ただ、あの場にスリザちゃんを置いておきたくなかっただけ。単なる、連れ出す口実だよ。落ち着いたら戻りなね、じゃ。あまり無理をしないように」
スリザは大きく口を開けたまま、舌打ちして去っていくアイセルを見ていた。
その、意外に逞しい後ろ姿を見ていた。アレクとは全く違う背中に、瞳を細める。
名前を呼ぼうとしたが、声が出ない。呼べば自分が屈したようで、自尊心が邪魔をする。
確かに、アイセルに言われた通り。あの場から、消えたかった。
勇者アサギは美しく可愛らしく、自分と比較しても仕方がないのだが、羨ましくて仕方がない。自分がないものを、全て持っている美少女。“勇者”だから特別だと、そう言い聞かせた。存在自体が眩いものだと、重々胸に刻んだ。解っている筈だった。
けれども。
いとも容易くアレクの心を変えたことで、心が折れそうになった。長年寄り添い、傍で支えてきたが、それでも溶かせなかった氷は、アサギによって完全に水になっている。恋人のロシファとは違う、大きな存在。
鼻から大それた感情だと押し殺してきた、相思相愛など望んでいない。けれども、せめて魔界で笑顔を浮かべて欲しかった。
それを為しえたのが、やってきた勇者だということをすんなり受け入れられない。
嫉妬、という感情を受け入れられない。
「アサギ様は、可愛らしい」
羨望の眼差しで見ているし、好きだとも思う。それでも、感情が追いつかない。どうして、あの少女は魔界に新しい風を送り込むことが出来るのだろう。それが良い事だと解っているのに、胸が痛くて重苦しい。
……羨ましい、酷く、羨ましい。あの子が、とにかく羨ましい。私とは違って、護られている子。
気分が悪くなったスリザは、何かに縋る思いで壁にもたれかかると大きく呼吸を繰り返す。眩暈がする、熱い陽射しに目がやられたように、視界が歪む。水面に映った情景を見ているようだ、石を投げ入れた時の様に。
「もし? 大丈夫ですか、スリザ隊長」
高い声の女が近寄ってきた。
誰の声かなど判別出来る状態ではないが、女だということが酷くスリザを安心させた。アイセルはもとより、男に今の弱々しい姿を見られたくなどない。自分が護って来たものは魔王アレクの側近として仕えて来た、厳格な自分。
それがここへきて、若干音を立てて崩れ始めている。これ以上の失態をさらすわけにはいかない、自分の名にかけて。
「あぁ、気にするな。休めば治る」
「冷たいお水でも如何ですか? さぁさ、お座りになって」
優しくて甘い声に言われるがままに、ゆっくりと床に腰を下ろす。
「そうか……ありがとう。お前は、誰だ? 見かけない顔だ」
声も顔も、スリザの記憶にない女。配下の者達の名前と顔をきっちり把握している筈なのに、解らない。幾ら朦朧としているとはいえ、有り得ない。
「最近城に入ったばかりの、駆け出しの魔術師に御座います。お目に書かれて光栄です」
「そうだったのか、すまない。……お前も、美しいな。とても女らしい妖艶な」
スリザは、差し出された無色透明の水がなみなみと注がれている容器を受け取った。冷たさが心地良く、夢中で唇に近づける。
目の前の美女が、百合の花のように楚楚とした艶かさで微笑んでいる。
黒髪に、紅蓮の瞳。身体の見事な曲線美を露わにする衣装を身に纏い、品格ある菩提樹の木の杖を持っていた。
彼女の瞳が怪しく瞳が光るが、スリザは気付けなかった。
「たくさんお飲み下さいませ、スリザ隊長。……ミラボー様がお待ちです」
一口、スリザは口に含んだ。
喉の奥で笑った美女エーアだが、瞬時に杖を硬く握り締める結界を張る。
ガギィン!
鈍い音が響き渡った。
側壁からの三角飛びを喰らわしたのは、アイセルだった。
忌々しそうに来訪者を睨みつけるエーアと、負けじと鬼のような形相で左足を直様繰り出し結界を破壊せんと猛攻撃を繰り出すアイセル。
舌打ちし、エーアは悔しそうに後退する。近距離攻撃を得意とするアイセルに阻まれ、上手く得意の魔法が発動出来ない。結界を保つだけで精一杯で、詠唱している時間などない。重い攻撃に、ミシミシ、と結界が軋む。辛うじて持ちこたえているが、何発か打撃を喰らえば破壊されるだろう。そうなると、目の前の筋肉達磨に全く勝てる気がしない。
魔力で作った結界を、直接攻撃で破壊するなど安易に出来る芸当ではない。
余裕の笑みが消失したエーアは、冷汗を額に浮かべている。アレクの側近である魔族達の力量を見間違えていた。
「答えろ、女狐! 何処の差し金だ!」
「煩い男、忌々しい」
アイセルの両足が宙に浮いている瞬間を見逃さず、エーアは一気に結界を解くと直様杖を前に突き出す。簡易な魔法しか発動は不可能だが、めくらまし程度にはなるだろう。
激しい爆発音と共に杖先から飛び出してきた火球を避ける為に、アイセルは無理やり身体を反転させると宙返りをし、脚で天井を蹴る。
「待て!」
言われて待つわけもなく、エーアは逃走した。
床に舞い戻ったアイセルはすぐさま周囲を窺うが、気配がない。追いたい気持ちを抑え、唾を吐き捨てると倒れているスリザへ駆け寄った。
この状態のスリザを置いていくなど、アイセルには出来なかった。
胸騒ぎがして戻ってみたら、案の定この有様である。先程の女が何者なのかはともかく、あのスリザがこうも容易く敵の手に堕ちるなど有り得ない。精神的に参っているのだろう、それはアイセルが想定していた以上に深刻だった。
「あぁ、スリザちゃん」
アイセルは、何も出来ない自分が歯痒くてスリザを抱き締めた。彼女の気持ちを揺さぶる原因の一つに、自分も混ざっている。だが、どうしても傍に居たい。
スリザがアレクの傍に居たいように、アイセルもまた、スリザの傍に居たい。
抱かれながら、スリザは腕の中で大人しくしていた。ただ、微かに呻いている。
唇に水滴が付着していた為、片眉を上げたアイセルは我に返った。
「何か飲まされてた?」
傍らには、容器がひっくり返り液体が零れている。
「っ! ごめん、スリザちゃん」
一旦躊躇したが、容赦なく鳩尾に拳を叩き込む。隊長といえども、身体は女だ。アイセルの攻撃に、無論顔を顰めて嘔吐した。
アイセルは懸命に背中を擦る。
「痛いだろうけど、何か飲まされた。吐き出して!」
スリザは嗚咽を繰り返している。
アレクに報告すべきか、しかし、それよりも。迷ったが、アイセルはスリザを抱き抱えるとそのまま走り出した。
行き先は、スリザの執務室。気位の高い彼女は、この現状を誰にも見られたくないだろうから、と配慮した。俊足に駆け、部屋に飛び込む。
閑散とした部屋は、驚くほど生活感がない。本当にここで仕事をしているのか、というくらいに、綺麗に片付きすぎていた。
仮眠用の寝台にゆっくりとスリザを寝かせ、アイセルは爪を噛んだ。一応吐き出させたが、何を飲んだのか解らないので最悪ホーチミンを呼ぶつもりだった。
「しっかり、スリザちゃん……。でも、君の精神は本当に繊細で儚いから、もう、限界だよ。君は、君が思っているより、脆弱だ。強固な鎧を心にまとっても、内側から崩れてる」
水差しに、僅かに水が入っていた。零すわけにはいかないので、
「緊急事態だから」
と、言い訳をしながら、口移しで飲ませた。知られたら激昂するだろうが、すでに唇は奪っている。
暫くすると、スリザは寝息を立て始めた。
アイセルはようやく胸を撫で下ろすと、力なく床に座り込む。張り詰めていた緊張の糸が、切れた。
しかし、問題はこの先である。
「あの、女」
先程の女が、スリザに何を飲ませたのかだ。ただの水とは考えにくい、零れてしまったが、特定する為に保管せねばならない。
「あれは、人間だった」
魔族は、人間との違いを香りで判断する。間違えようがない。
白昼堂々と姿を現した、人間の女。一体何者なのか。
どっしりと床に座り込み、アイセルは頬杖をついた。念の為、医者を呼ぶべきなのか、それともホーチミンを呼び、魔力の波動で探ってもらうべきか。後者の場合、この現状にしつこすぎる質問攻めに合うだろうが、致し方ない。低く呻いて、深い皺を眉間に寄せる。
スリザの体調を考えると、これしか方法が思い浮かばなかった。
静かに立ち上がると、スリザの額に手を置き熱を確かめる。
正常だった。
「少し休みなよ、アレク様には伝えておく」
アイセルは部屋を後にし、マントを翻した。
「アレク様」
やはり、アレクに報告することにした。
まだアサギを見下ろしていたアレクは、緊張した面持ちのアイセルにやんわりと微笑む。
「どうした」
徐に声をかければ、驚いた様子もなく普段の調子でアレクがこちらを向いた。静かに歩み寄り跪いてから、労いの言葉を受け取った後、立ち上がってそっと耳打ちする。
身長は、僅かにアイセルが高い。
告げると、アイセルは直様腰を深く下ろして跪いた。
アレクは、目を見開きながら耳を疑った。動揺し、瞳が大きく開く。
「それで、スリザは?」
「今は、執務室に。信頼出来る医師を、お願い致します」
「あぁ、そうだな。しかし……まさか城内で堂々と」
「今はアサギ様もいらっしゃいます、心配です。俺は、あの女を探ります。許可をください」
「そなたのことは信頼している、腕も確かだ。しかし、油断はするな。あのスリザが、容易く堕ちたのだから」
それは貴方の御心ゆえです……と、アイセルは言いたかったが、堪える。
乙女の心は、硝子細工の様に繊細だ。脆く儚く、弱く危ない。
考え込んでいるアレクに罪はないが、目の前の到底自分では勝てない相手にアイセルは若干青筋浮き立たせた。アレクが色恋沙汰に鈍感なことは、承知。ロシファとの出会いの馴れ初めなど知らないが、よく恋人関係に持ち込めたものだと、以前から感心していた。
「発つ前に……少しよいだろうか」
アレクは、アイセルの背筋が凍るほどに冷たい声を出し、踵を返した。