外伝4『月影の晩に』10:黄緑色の首飾り
文字数 7,377文字
頭を振り、額に指をそえて一呼吸する。嫌な汗が額に滲み、ヌルリと指が滑る。頭痛は、思い出すなという警告なのか。
「……思い、出す?」
何を。
トライは、歯痒い“不可解な感情”に項垂れ、壁にもたれた。とても大事な何かを忘れている、思い出さなければならない気がする。憂患を払うように頭を振ると、舌打ちをして部屋に入った。
トライは騎士らに囲まれていたアイラの元へ駆けつけると、強引に割って入った。不服に唸る騎士らを他所に、いつものように手を取り甲に口付る。こうしていると、ひどく気分が落ち着いた。
けれども、やはり何かが警戒音を発している。『早く思い出せ、お前だけが頼りだ』と、誰かに囁かれた気がして、トライは神妙に頷いた。
「さぁ、今日も剣技と乗馬を愉しもう」
「はい! 宜しくお願い致しますね」
満面に喜色を湛えたアイラに、トライは胸を撫で下ろす。先程の憂鬱さは、アイラの傍にいるだけで薄れていく。
……本当に、不思議な姫だ。
鼻の下を伸ばしている騎士らを一瞥し、揃って部屋を後にする。
鬼灯のように朱色がかった月が、夜空に浮かぶ。
その夜、久し振りにトモハラと夕食の時間帯が重なった為、ミノリは上機嫌で話しかけた。
「よぉっ、久し振り!」
「久し振りって……顔は毎日合せているだろ?」
「つれねぇなぁ、こうしてゆっくり話すのが久し振り、ってことだよ」
浮足立つミノリと違い、トモハラは怫然としていた。
ミノリの周囲に他のアイラ護衛の騎士達も集ってきた。全員、ニヤニヤと口元に笑いを浮かべている。
……何か良い事があったんだな。
トモハルは眉間に皺を寄せて、緊張感がない彼らを一瞥する。
「へへ、今日さ、アイラ姫様に『好き』って言われたんだ」
口にしてから羞恥心が湧き上がって来たのだろう、顔を真っ赤に染め、鼻の頭を掻く。
トモハラは、納得した。恐らくアイラが口にした『好き』という言葉は、残念ながら恋愛感情ではなさそうだ。他の騎士らも思い出しているのか皆放心状態なので、全員に伝えたのだろう。実に、アイラ姫らしいと思った。彼女は姫という立場だが、平民らとの垣根を取り払って過ごしている。労いを籠めてかもしれないが、それでもその単語は嬉しい。
トモハラは、自然と笑みを零した。少しだけ、荒んでいた自分の心が解けた気がした。その後、聴いてもいないのに騎士らは口々にアイラ姫に対する想いを延々と話し続けた。幾度「話が長いです」と口を挟もうとしただろう、しかし、律儀な性格が邪魔をして言えなかった。思えば、ミノリの騎士らは結束力が高いように見える。それは、任務を円滑に遂行する為に良い事だと率直に思えた。
……こういう雰囲気、いいな。
多くの者達から蔑まれているアイラだが、騎士達は忠誠を誓っているのだと知り、安堵した。
温くなってしまったスープを口にしていると、黄色い悲鳴が聞こえて来た。
騒音に吹き出しそうになったミノリは、何事かと周囲を見渡し慌てふためく。
トモハラは、気難しい表情を浮かべて徐に席を立つ。
「何だろう?」
「宝石商が来てるんだとよ。トレベレス様とベルガー様が呼び寄せたそうだ、またマロー様に貢がれるのだろう。金持ちはすごいねぇ」
二人は顔を見合わせると、パンを口内に押し込みスープで喉の奥へと流した。駆けつけてみれば、女達が耳障りな歓声を上げている騒ぎの中心に、悠々と宝石を買い漁っている二人の王子の姿があった。
一際大きく、珍しい色合いの宝石を。装飾が見事な髪飾りに、多種の宝石を散りばめた首飾り。細かい細工の指輪と対の耳飾りは花を模してある。部屋中の光がそこに集中し、異彩を放っている。宝石の純度は、平民ではお目にかかることすら出来ぬ程だ。
トモハラは、人混みをすり抜けて辛うじて近寄り、宝石を眺めた。金額の検討がつかない、そもそも、宝石など購入したことないので相場すら分からない。マローが好むものだろうが、手が出せない。指を咥え、遠目に二人の王子が宝石を購入する姿を見ていた。
騒ぎを聞きつけ、マローが宝石のように瞳を輝かせてやってきた。
到着するなり、王子達はマローに今し方購入した宝石を優雅に指し出す。そうして、恭しく髪へ、指へ、首へと散りばめる。
「まぁっ、何て素敵なのかしら!」
息の弾みに悦びを昂らせ、マローは手を叩く。特に指にはめられた巨大な黒蛋白石が気に入ったらしい。
「遊色や七彩色の揺らめき方が素晴らしいですね。マロー姫様の天真爛漫なお姿に似ていると思いました」
ベルガ―がそう告げ、端正な唇を上げる。
トモハラは、熱に浮かされた表情でマローを見つめていた。興奮して頬を紅潮させ、宝石のように大きな瞳を煌めかせている姿が、愛しくて仕方がない。
「うふふ、ありがとうございます。光栄ですわ」
ドレスの裾をつまみ、二人の王子にお辞儀をする仕草も可愛らしい。
……確かに宝石は美しいけれど、何よりもマロー様が美しいのです。それらの宝石など、霞んでしまうほどに。
暫くして、引き潮のように人々は去った。
飛ぶように売れたので上機嫌で後片付けをしていた宝石商の元へ、トモハラは引き寄せられるように近寄る。愚かだと思いつつも、あの笑顔を間近で見たいと願ってしまった。
「あの、すみません。一番安い宝石って、どれですか?」
「あぁ? 騎士様かい? ふぅむ……これかな、中流家庭向けの首飾りだよ」
トモハラの足先から頭部まで見つめ、微かに眉を顰めた商人だが、客に変わりはないと判断した。買って貰えそうな宝石を一つ、みすぼらしい箱から取り出す。
それは、お世辞にも綺麗だとは言えない宝石だった。
素人のトモハラが見ても判るほど、輝きが少ない。加工が悪いのもあるだろうが、そもそも純度が低い。薄緑色で、貧相な木の実程に小さな宝石が頼りなさげに揺れている首飾りだ。とても、マローが喜びそうなものではない。あの王子達が購入していた宝石とは、月とすっぽんの差である。
しかし、トモハラは幾度か躊躇したものの、結局購入した。宝石に違いはない、今の給料では精一杯である。これでもかなり無理をした、上機嫌で帰っていった商人に深く頭を垂れ、それを大切に懐に仕舞う。
後は、渡すだけ。
翌日の昼食時、いつもの様に王子二人に囲まれていたマローは、早速昨夜戴いた宝石達を身に着けていた。
常に跪きマローの傍にいるトモハラだったが、ドレスを着替えたいと言い出したので、衣裳部屋へと向かう。
「この宝石の良さが生かされていない気がするの。別のドレスにするわっ」
朝から不満げにしていたマローの理由はこれだ。用意してくれた女中に文句を言いたかったが、今は着替えてしまいたい。
王子二人はその場で食事を楽しみ、去って行く姫を見送る。
トモハラはマローがドレスを着替えている間も、部屋の外で跪き待機していた。暫くして、満足そうに微笑み出て来たマローに、勢いで声をかける。
「あの、マロー姫様」
顔を上げ、神妙な面持ちでマローを見つめる。
マローは即座に身体を硬直させたが、ゆっくりとトモハラを見下すと不機嫌そうに小さく「何?」と返答した。
付き添いの女官達が口々に「直接声をかけるなど、無礼な!」と非難した。
しかし、気にも留めずトモハラは昨夜購入した宝石を懐から取り出すと、跪いたまま両手で恭しく差し出す。その手は、緊張して震えていた。
マローは不思議そうに首を傾げ、それを見下ろす。
「何かしら?」
「マロー姫様のお気に召すか判りませんが、昨晩来城していた宝石商より購入致しました。どうぞ、お受け取りください」
輝きすらない、みすぼらしい石が装飾された首飾り。
暫しの沈黙の後、女官達の嘲笑が廊下に響き渡った。外の木々に止まっていた鳥達が驚いて羽ばたいた、何事かと通りすがりの城人が集まってきた。
「たかが騎士ごときが、マロー様になんという無礼を。このようなもの、マロー様がおつけになるはずがないでしょう。身の程を弁えよ!」
女官の言葉は、気にしない。叱られるのは、想定内だ。トモハラはマローの声を待ち、ただ瞳を閉じて宝石を掲げている。
「……いらない。もっと美しく輝く大きなものが欲しい。そもそも、そんな貧相な宝石、似合わないでしょう? 屈辱だわ」
平手打ちするような厳しく冷めた口調で、マローはそう告げた。トモハラの手に乗っていた宝石を右手でパシリ、とはたき、床に落とす。
途端に歓声が女官達から上がった、当然だとばかりに。湧き上がる下卑た笑い声は、止まらない。
「見縊らないで、誰だと思っているの? お前は騎士なのでしょう?」
「……申し訳ありませんでした」
爆笑の渦の中で、悪口雑言が飛び交う。
彼女らが去った後も、心中でその声は響いていた。トモハラは薄っすらと瞳を開き、床に転がっている宝石を見つめた。軽く溜息を吐くと拾い上げ、痺れた脚に力を入れて立ち上がる。
別に、恥ずかしくなどない。すんなり受け取ってもらえるとは思っていなかった、少し期待してみただけだった。じっと、手の中の宝石を見つめる。
「もっと、稼がないと。マロー姫に相応しい宝石が買える様に、働かないと」
ぼそ、っと呟く。
暇な城内で、女達は噂話に勤しむ。べらべらと喋って歩く女中らにより、別の女達がやって来て、誹謗中傷を始めた。
「まぁ、なんて身の程知らずな!」
「騎士に選ばれて、有頂天になっちゃったのね。お気の毒に」
しかし、虫の大群の羽音の様な耳障りなそれが突然止まった。
不審に思いトモハラがようやく顔を上げれば、目の前にアイラが立っている。
アイラの姿を見て、トモハラを笑っていた者達は蜘蛛の子を散らすように去って行った。
「本当にごめんなさい、マローが酷い事を……」
トモハラの目の前でゆっくりと頭を下げ、打ち沈んだ調子で謝罪する。
騎士に頭を下げる姫などあってはならぬと、トモハラは顔面蒼白で首を横に振り額ずいた。
「いえ、身の程知らずな俺の行動が引き起こした当然の結果ですから。お気になさらず」
アイラはそのまましゃがみ込むと目線をトモハラと強引に合わせ、瞳の奥を探るようにじっと、見つめ続けた。
双子姫はどこも似ていないと思っていたトモハラだが、確かに間近で見れば似ているかもしれないと思った。それは、瞳の大きさや唇の色合いだ。申し訳ないが、圧倒的にマローのほうが美しいと思っている。それは、今後も変わらないだろう。
惚れているのがマローなのだから、仕方がない。
「あ、あの、アイラ姫様。どうか、立ってください」
甘い香りと大きな瞳に、胸がどぎまぎする。真っ直ぐに瞳を見つめ返してくるので、あたふたと視線を逸らすが、外しきれない。
……あぁ、今ここにいるのがマロー姫だったら良いのに。
夢現で、そんなことを考える。
「その宝石、どうするのですか?」
呆けてマローに見つめられている妄想をしていたトモハラだが、我に返った。握り締めている貧相な宝石を、アイラが小首を傾げて指していた。軽く苦笑いしてから、自嘲気味に溜息を吐いた。
「売って、また別の宝石を買う足しにします」
「そうですか。では、私にそれを売ってくださいな」
「は?」
すっとんきょうな声を上げたトモハラの目の前で、アイラはいそいそと髪や腕、首についていた装飾品を外し始めた。大口開けてぽかん、としているトモハラにはお構いなしに、ずっしりと重いそれらを差し出す。
「これで足りますか? どうか売ってください」
「いや、ええと」
唖然と、差し出された宝石を見つめる。誰が見ても、トモハラの小さな宝石の数百倍の価値がある宝石だ。絶句し、宝石に眼を落とす。
そんなトモハラの様子に、アイラは瞳に悲哀の色を浮かばせた。落胆している様子に、つり合わない、と判断したのだ。
「では、部屋へ取りに行きます。どうか、待ってて頂けます? ごめんなさい、無知で。どのくらいあれば足りるのかが、わから」
アイラは強引に宝石を押し付け踵を返すが、言葉を被せて死に物狂いでトモハラが止める。
「いえいえいえいえいえいえ! 十分過ぎます、戴き過ぎなんですよ! 足りないのではありませんっ」
耳飾が一つ掌から零れて床に落下したので、青褪めてそれを拾い上げる。トモハラは、哀しそうな顔をしているアイラに全てつき返した。姫からこんなに宝石を貰って、どうなるというのだろう。
「戴けません、お返しいたします」
「……売ってくださらないのですか?」
「そういうわけではありませんが、姫様から宝石を下賜していただくだなんて」
「そうですか、ならば」
互いに宝石を突き返していると、アイラはにっこりと不意に微笑み、両手を背に隠した。
当然、宝石は派手な音を立て、床に全て零れ落ちる。
慌てて拾い上げようとするトモハラだが、全て拾いきれるわけがない。落下し、床に飛散した宝石達を拾い上げると、再びアイラに差し出す。
しかし。
「落ちていた宝石を拾ったので、トモハラ、それらは貴方の物ですからね」
「は?」
くすくすと愉快そうに笑い、アイラは呆けているトモハラに近寄ると再びしゃがみ込む。
「この城の姫から、騎士様へ。お願いがございます、どうか貴方が持っている小さな緑の宝石がついた首飾りをくださいな」
そう言って、破顔した。売ってもらえないのなら、命令して譲って貰うだけのこと。けれど、せめてもの代金として宝石を受け取って欲しかった。
アイラはトモハラの手から、するり、とマローに購入した首飾りを抜き取ると、満足して微笑む。未だに呆けている姿に苦笑し、静かに語りかける。
「これは。トモハラがマローに購入した、他の何物にも代えられぬ大切な物です。その落ちていた宝石よりも、数百倍の価値があります。だから、私がマローに届けます。正統な持ち主に、戻してきますね」
「え……」
驚愕し、トモハラの心臓が高鳴った。
「想いが籠もった、素敵な贈り物ですよね。……ありがとう、トモハラ。貴方の想いは、私が確かに届けると、約束致します」
アイラはそう告げると、柔らかく微笑んだまま立ち上がり、そのまま静かに立ち去った。
凛としたその後姿と靡く髪を見つめていたトモハラは、ミノリが騒いでいた理由が、今、はっきりと解った。腰が抜けたように力なく床に座り込んだまま、震える手を懸命に抑える。
「アイラ姫、貴女は」
まさか、自分の名を覚えているとは。そして、気遣ってくれるとは。トモハラはその場で、深く頭を下げると瞳を閉じる。滲み出そうな涙を堪え、笑顔を浮かべる。遠のいていくアイラに、精一杯の敬礼をした。アイラの優しさや思いやりは、巷で噂されている破滅の子を産む呪い姫とは結びつかない。
しかし、それよりも。
トモハラは、自分の贈り物がマローの手に渡るであろうことに喜びを感じていた。不要な物だろう、身につけることはないだろう。だが、微かに期待をしていた。必死に願をかけた。所詮は一国の姫と平民出身の騎士、想いが通う事などあるわけがない。
けれども、今後も騎士として傍に置いてもらうべく、災いが彼女に降りかかろうものならば死に物狂いで楯となり、護るべく。大好きな笑顔を絶やす事のないように、マローを想って願いを封じ込めた。
「俺、気味が悪いかも」
自嘲して笑う。トモハラでなくとも、誰からも愛されるマローは護られるであろう。しかし、真っ先に自分がマローを護りたいと願った。それくらいならば、出過ぎた願いではないだろう、と。マローの為に死ねるのであれば、本望である。
トモハラの目から見て、あの二人の王子はどうもいけ好かない。それが、あの宝石に願をかけた本当の理由かもしれなかった。
「マロー、良いかしら?」
「どうしたの、姉様」
部屋で茶を啜っていたマローに、アイラは毅然とした態度で声をかけた。振り返った妹に、そっと両手で包み込んだ首飾りを、丁重に差し出す。
不思議そうにマローはそれを見た、首を傾げ、瞳を幾度か瞬きさせる。
「これを。マローを護るように、願いがかけられた首飾りです」
マローは、首を捻った。
「どこかで見たような……」
「大事になさい。ほら、とても綺麗でしょう? 小さいかもしれないけれど、光の輝きは劣っていませんよ。私には、今までの宝石の中で一番輝いて見えます」
そうは思えず、マローは本心かどうか何度もアイラの表情を見返した。
「そうかなぁ? うぅん、でも、姉様がそう言うのなら、大事にする。ねっ、つけて!」
訝しんだものの、アイラに言われるとそんな気がしてきた。それは、あの騎士が差し出してきた首飾りに似ているような気がしたものの、まさかそれであるとは思いもせずに。後ろを向いてアイラに首飾りをつけてもらうと、ドレスの下に隠した。小さすぎて気に入らないが、御守りならば、肌身離さずにつけておこうと思ったのだ。
トモハラの願いは、成就された。経緯はともかく、マローは身につけているのだ、トモハラからの首飾りを。
「……マロー」
「なぁに?」
アイラはマローの髪を撫でつつ、普段からは想像できぬ、笑ったことなど一度もないというような真顔になった。全てを魅了するほどに愛くるしいが、他人の痛みを気にしないマローに眉を顰める。何れは女王となる身ならば、それではいけない。民を愛せねば、国は崩壊する。
「もし。悪い事をしたと思ったのなら、素直に謝りなさい。嘘をついてしまって、悪かったと思ったのなら、遅れてでも構いません。きちんと、思いを伝えなさい」
「ふぇ?」