勇者の手料理
文字数 5,862文字
大きな寝台の上には、アサギを護るように抱き締めて眠っているトビィと、控え目にアサギの寝間着を掴んで眠っているリュウ。ハイは結局寝台から蹴り落とされ、床で眠っていた。
僅かな光で目が醒め、アサギは何度か瞬きをした。重い瞼を持ち上げると、逞しい胸板が瞳に飛び込んで来る。妙に色香があるそれに驚き、一瞬目を大きく開いた。しかし、鼻を啜って匂いを確認すると安堵して微笑し、再び瞳を閉じた。
それは、知っている香りだった。随分と昔から傍にあった香りで、この腕のぬくもりも知っている。安全な領域だと判断し、すんなりと眠りに戻る。
暫し、その部屋は静寂で包まれた。
その為、魔王アレクが訪ねて来たというのに、誰も起きない。
常に警戒しているトビィですら、“久方ぶりの”アサギに包まれ熟睡している。寝心地の悪さで目を醒ましたハイが気づかなければ、これは、起こり得ないことだった。
「誰か起きていないのか? 開けてくれ」
「はいはい、朝から一体どちらさまかね」
大きな欠伸をしながら扉を開くと、身なりを普段通りにきちんと整えたアレクが立っている。
「おはよう、ふわぁ……」
明らかに寝起きのハイを無視し、アレクは室内を覗き込んだ。まだアサギが眠っていることに気づき、眉を顰める。
「すまない、邪魔をしたか」
「いや……気にするな。そろそろ起きねば。ただ、昨夜結構暴れたのでな、眠くてかなわん」
『昨夜暴れた』が気になるが、アレクはあえて突っ込まなかった。軽く瞳を細め、昨晩の事を思い出したようなハイが不愉快そうな表情で歯軋りする様子を見ている。軽く咳をし、用事を切り出した。回りくどいことは苦手である。
「本日、ロシファを迎えに行く。その後、よければ皆で出かけないか?」
部屋で寝ているリュウを流し見たアレクだが、彼を拒むようなことは言わなかった。
「ふむ、親睦会か!」
「昼には目的地に到着したいから、皆を早急に起こして欲しい。昼食はこちらで用意しよう」
アレクが去ってから、ハイはリュウを掴んで寝台から放り投げた。トビィも同じ様に掴んで捨てるつもりだったのだが、遅かった。気がつけば剣先を突きつけられている。
「愚鈍な魔王め」
不敵に微笑んでいるトビィと視線が交差し、腸が煮えくり返ったハイは、ギリギリという音が外部に聴こえる程歯軋りをした。まさか人間の、それも年下の男に一時でも捻じ伏せられるとは。仮にも元魔王である、本来ならば許してはならない。自分の威厳に関わる。
火花が散る真下で、ようやくアサギが目を醒ました。トビィに頬を撫でられ、気持ち良さそうにまどろんでいる。
「くっそぅ、兄っていいなぁ」
ハイが本音を吐露し、指を咥えてそれを見つめる。
トビィは勝ち誇った笑みを浮かべ、鼻で笑った。しかし、当惑した笑みを浮かべると「まぁ……“兄”が邪魔な場合もあるが」と付け加え、小さく溜息を吐く。目の前の無邪気な小悪魔には、嬉しいことでもあるが手を焼いている。無自覚なので、性質が悪い。誘っているように見えても、彼女にその気は一切ない。異性として認識されていないような気がして、多少遺憾である。
「やれやれ……いつになったら“兄”の枠から抜け出すことが出来るのか」
冷たく硬い床に叩き付けられ、仏頂面で目を醒ましたリュウも含め、ハイはアレクの提案を皆に話した。
はしゃぐアサギとリュウは、手を取り合って歓んでいる。
ハイはその様子を猜疑心に満ちた瞳で見つめていた。リュウの態度は、ひどく曖昧だ。アサギに対して友好的に見えて、稀に攻撃的になる。今更だが、得体が知れない。
トビィとて、目を光らせていた。リュウについては“腹に何を抱えているのか分からない、最も厄介な人男”と認識している。
そんなニ人を嘲笑うかのように、アサギと手を叩きながら微かにリュウは口角を上げた。
「お弁当を持って行くのですか? ……楽しそう! 私も何か作りたいな、……作れるのかな」
何気なく呟いたアサギのその一言に、気を張り詰めていた三人が一斉に反応する。アサギの手料理など、想像するだけで興奮する。
ハイは手料理を食べたい一心で、アサギに縋るような視線を送る。
リュウも懇願するような視線を送った、勇者の料理に単純に興味がある。
トビィは「美味しいからな、是非食べたいもんだ」と、アサギに微笑んだ。
三人の熱烈な視線を受け、狼狽しながらアサギは微笑する。まさか、ここまで過剰に反応されるとは思わなかった。祖母や母を日頃から手伝っていたアサギにとって、料理は日常茶飯事。そもそも、菓子は休日に一人で作っていた。基本、人を笑顔にする料理は大好きだ。だが、ここは地球ではない。人様の自宅へ行って作ることも難しいというのに、調味料や食材が違うであろうこの場所で何が出来るのだろう。
「卵焼きに、唐揚げなら出来るかな。お米があればおにぎりも作れるけど……」
期待されているようなので、アサギは必死に思案した。しかし、食材を見なくてはどうしようもない。
「私は! アサギの手料理が食べたい!」
ハイは部屋を飛び出し、職務に励んでいたホーチミンに経緯を話す。街へ四人で出掛けてから、すっかり頼れる存在になっていた。
「つまり、アサギちゃんの華奢な指で作られた料理を食べたいから、どうにかしろと?」
「うむ」
ホーチミンは苦笑しつつも、食堂の厨房を借りられるよう顔馴染みの料理人に話をつけてくれた。人に頼まれると、断れない主義である。
「食材は、ここにあるものを好きに使って構わないって。代金はハイ様につけておくそうよ。私もアサギちゃんの手料理が食べたいけれど、仕事中だから……。よかったら、おすそ分けしてね」
「はい! おやつを作っておきます」
厨房へ案内されたアサギ達は、ホーチミンに心から礼を告げた。名残惜しそうに慌ただしく去っていく姿を見送ると、用意してもらった至って素朴な前掛けを装着する。
何処の世界でも男は前掛けに惹かれるものなのか、ハイは至極満面の笑みでアサギを見つめている。それはもう、気持ちが悪いくらいに。
手際よく卵を割りほぐし、砂糖に牛乳、多少の塩を入れて混ぜ合わせ、フライパンでたっぷりのバターを溶かす。熱されたら卵を流し入れて、そのまま器用に広げると、片手でフライパンを上手く調整しながら焼き上げていく。
甘くてふんわりとした香りが漂い始めると、何時の間にやら観客が増えており、その無駄の無い動きに感嘆の溜息を漏らす。時折、拍手まで起こった。
「久し振りにスープが飲みたい、美味しいからな。普通捨てるような部分も惜しみなく使い、優しい味わいに仕上げるのは見事なもんだ」
トビィは微笑しながら、忙しなく動くアサギを見つめた。以前助けられた時に、毎食飲ませてくれた野菜が溶け込んだスープが忘れられない。流石にスープを持ち歩く事は出来ないので作らないだろう、残念だと肩を上げて苦笑する。
目の前に、何処かの情景が広がる。
『食欲をそそる香りが鼻につき、空腹を覚える。上半身を起こし大きく伸びをすると、傍らにかけてあった衣服を羽織って寝台から降りる。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「アリア、敬語」
「ぁ。……えっと、訂正っ。“ごめんね、起こしちゃった?”」
朝食の準備をしていた少女は、振り返ると悪戯っぽく笑った』
トビィは眉を顰めた、今のはなんだったのか。知っている記憶に思える、しかし。以前アサギが助けてくれた時、確かに部屋に食事を運んでくれた。だが、料理をしていた姿など見ていない。
一瞬、目の前が真っ暗になった。嘔吐しそうになり、トビィは焦って壁にもたれこむ。心配そうに誰かが声をかけてきたが、首を振って軽く右手を上げた。大丈夫だ、と言いたかった。
「なん……だ、今の」
胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返す。懸命に料理しているアサギを見つめると、キリキリと胸が痛んで、軋む。
「……大丈夫だ、直に夢は現実になる」
虚ろな瞳で、トビィはそう呟いた。脳裏に甦るのは、恋人のような、いや夫婦のようなニ人。自分だけを見つめ共に歩む、遠くない未来。
「水を」
差し出された水を一気に飲み干すと、幾分か冷静になれた。身体中からドッと噴き出した汗が、べたついて気持ち悪い。額を拭い、再び瞳を閉じる。浮かび上がるのは、愛しいアサギの姿。護るべき、愛しい女の姿。トビィは何度も呟いた、か細い声で「大丈夫だ」と。
トビィに水を差し出したのは、ハイ。顔面蒼白な彼を見過ごすことは出来なかった、幾ら恋敵でも、だ。
それを一瞥したリュウは、明らかにハイが変わってしまったことを再認識した。魔王となる前の彼に戻ったのかもしれないが、アサギが来てから全ての調子が狂っていることに、どうにも違和感を覚える。奇妙な感覚が腹の中で疼いて、拳を強く握り締めた。
「出来ました!」
アサギは卵焼きとおにぎり、そして鶏肉の塩焼きを作った。日本米とは違い、形が微妙に細長いが米っぽいので使用した。梅干しや昆布の佃煮がなかったので、鮭を焼いてほぐしたものを具にした。海苔がないのも残念だが、仕方がない。
ホーチミンらが来たら渡してもらう為、卵焼きは多目に作っておいた。蜂蜜を多めにしたので、おやつにもなる。
今すぐにでも食べたいハイを宥めていると、アレクがロシファを連れて戻ってきた。
「ロシファ様、こんにちは!」
「アサギ、こんにちは。今日は宜しくね」
微かにロシファはリュウに視線を送ったが、視線が合うことは無かった。あちらも警戒しているのだろう。次いで、アサギの傍らのトビィに視線を向けた。噂に聞いていた、人間のドラゴンナイト。ようやく姿を見ることが出来たと、瞳を細めて観察する。
……不思議な取り合わせだこと。
ロシファは唇を尖らせると、アレクの腕に抱きついて歩く。些か照れながら早足になる奥手の恋人に、苦笑して。
「運命は、動き出したのね」
ロシファは、アレクの腕をきつく掴んでそう漏らした。
これが、吉と出るのか、凶と出るのか。
アレクが息抜きをする際にお忍びでよく訪れるという森へ、一同は向かった。
「実を幾つも幾つも、恩恵を受けてならせたもう
至上の楽園に育つ大木 誰しもが欲し手を伸ばす
魅惑で甘美なその実を 惜しげもなく人々に分け与えん
一口齧れば笑み溢し 二口齧れば涙溢れ
三口齧れば生命湧き出る
全ての生命の根源は ただ皆に分け与える
実を口にし、幸せそうに微笑む生命達を
この上ない喜びだと思い 大木は歓喜する
風に乗って声を出し 多くの生命を呼び寄せる」
トビィとハイに手を繋がれて歌いながら歩くアサギは、零れるような笑みを浮かべている。
そんなアサギを見て、一同も知らず微笑む。
「それはアサギがいた世界の唄? 素敵ね」
「……多分そうです」
ロシファに問われたアサギは、動揺した。ぎこちなく頷いたが、自分が何を唄っていたのか分からない。小学校で習った唄ではない、流行りの歌謡曲でもない。
……今の、なんだっけ。
心の中で、嵐のような感情がざわめく。知らない唄を口にした自分に、アサギは震えた。
そして、唄う事を、止めた。木々を見つめ、緑を瞳に入れると心が和む。
アレクがこの森を選択したのは他でもない、この近辺に捕らわれの身の少女がいるからだ。見たことはない。だが、存在は知っている。
アイセルの妹である、マビル。予言に関わる重要な娘を、この森へ幽閉した。それは独断ではなく、家族らと相談のうえ出した結論だった。いつか現れる次期魔王と対面させる予定であり、共に魔界を護り抜く存在であるよう願った。有事の際に魔王の代わりになれと言うつもりはない。常に寄り添い、分かり合える姉妹のような……それこそ産まれた時から共にいる双子のようになって欲しいと。
マビルを隠したのは他でもない、反乱分子らから護る為だ。昨今、何が敵か解らない。そもそも、アイセルの両親の死とて不可解であり、彼女を森から出すわけにはいかなかった。
……この森の何処かに、アサギに瓜二つの娘が。
アレクは、トビィと談笑しているアサギを見て、森に視線を送った。
風が、ざわめく。
「おねーちゃん?」
妙な気配に導かれ、森で遊んでいたマビルは全速力で駆け抜けると一同を見つけた。乱れた衣服を正しながら、一同の後を追った。上気した頬は、走ってきたからではない。先程まで森へ誘導した魔族の美少年と、秘め事をしていた為だ。
森に捕らわれ、暇を持て余しているマビルは快楽に身を任せる。そうしていると、誰かの体温で自分が一人ではないことを実感し落ち着く。ただ、飽き性なので男はクルクル替わる。それは、恋ではない。ただの気まぐれ、一時の快楽。
……男なんて馬鹿げた存在に捨てられるなんて、許せないの。あたしは、自分から捨ててやる。この身体が欲しいのでしょう、だから優しいあたしは与えてあげる。可愛いから当然なんだよね、でもね、貴方達はあたしに何か与え続けられるの?
口から唾を吐き出すと、白濁した男の体液が混ざっていた。
口元を拭いながら、初めて自分の対であるらしい勇者アサギを見たマビルは、唖然と大口を開け、何度も瞬きする。
「あああ、あたしのほうが、どー見たって絶対可愛いじゃんっ」
大声で叫んだ。
自分の身体に触れながら、目の前を歩くアサギと比較する。肌と髪の艶、ぷっくらと膨れた魅惑的な唇はどちらの勝ちか。大きな瞳に宿る煌きは、睫毛の長さは、高い鼻は、華奢な手足に、細くくびれた腰、豊かな胸と、思わずむしゃぶりつきたくなるような尻に太腿。わなわなと小刻みに震えながら、憎悪を籠めた瞳で睨み付ける。
「どう見ても、あたしの勝ちでしょーがっ!」
そもそも、アサギの魔力が異常に低い。とても次期魔王とは思えない、本当に屑の人間らしい魔力だった。魔力、と呼べるものかすら疑わしい。
けれども、周囲を取り囲んでいる男達にマビルは喉を鳴らした。どれもこれも、極上の男だった。顔だけならば全員平均以上、身長も長身で申し分ない、肩書きも完璧だ。何より、トビィの美しさには溜息を吐いた。あそこまで綺麗な男は初めて見た、と思わず手を伸ばす。
「キレーな男! 傍に置いておいたら、どれだけ愉しいだろう。あと、身体つきも艶めいた感じで閨事も上手そうだし、総じてとても好み!」
※2020.11.28 上野伊織様から頂いたアレクを挿入しました。