外伝2『始まりの唄』25:息を吸うように嫉妬する
文字数 6,246文字
「出来た……!」
最新の織機で織り上げたものを胸に抱え、その部屋を後にする。次はもっと大きなものを作ろうと、若干頬を緩ませた。
自室に戻ると、女官がすぐに料理を運んでくれた。野菜がたっぷりの食事に満足しながら食べていると、トダシリアがやって来る。食事の手を止めたものの「構わん、食べろ」と促されたので、ぎこちなく口に運んだ。
味は、解らなくなってしまった。あんなに美味しかったのに、視線を感じるだけで胃が小さくなった気分だ。トダシリアが部屋に来たということは、また抱かれるということ。それを考えると、気が滅入る。再び感情が掻き乱され、アリアは申し訳ないと思いつつ食事を残した。
「来い。朝は床で、背中や膝が痛かったろう? 寝台の方がお前は好きだろ」
喉の奥で笑い手を差し伸べたトダシリアを、アリアはぼうっと見つめていた。手早く食器類が片づけられ人が去っていくと、乾いた音を立てて扉が閉まる。
アリアは、差し伸べられた手に朦朧としながらも手を乗せた。
「フン、やけに素直だな。まぁいい」
ドレスを脱がされ全裸で寝台に投げ出されると、観念して瞳を閉じる。そして、慣れてしまった淫楽を貪った。互いに、幾度絶頂を迎えただろう。夜明けが近いのか、可憐な花弁を透かして見るような光が部屋に差し込んで来た。
ワインを呑む為にトダシリアが身体を起こすと、密着し汗ばんでいた肌に部屋の空気が冷たく刺さる。そして、現実に引き戻される。アリアは、先程まで身を任せていた男の横顔を、じっと見つめていた。
部屋に、艶やかな程に豊かで美しい黄色の花が生けられた。
それはまるで、故郷で咲き乱れていた花のよう。一面が黄色と白で彩られた崖で、トバエと出逢ったのだった。
アリアは昔を思い出し、楽しかった子供の頃を懐かしんで微笑む。あの頃は、「トバエお兄様」と幾度も呼び、後をついてまわったものだった。世話焼きの彼は、足手纏いだったろうに、いつも自分の傍に居てくれた。
そして、大事にしてくれた。
「トバエ、お兄様……」
花に触れながら、夫となった凛々しい男を思い浮かべる。
「アリアさん、体調は如何ですか?」
ぼうっ、としていると、女官に声をかけられた。いつから室内にいたのだろう、気づけないほどに心ここにあらずだったことに赤面し、慌てて返答する。
「皆さんのおかげで、元気です。腕の痛みもほとんどありませんし。美味しい御食事にお茶、それに素敵なお花まで……」
「それはようございました。……ですが、確かに用意しているのは私共ですけれど、指示を出しているのはトダシリア様ですから。意外でしょうけれど」
アリアは、目を丸くした。
「え、そうなのですか?」
「はい……」
女官は口籠りながら、言葉を紡ぐ。
「アリアさんは花が好きだから、絶やさぬようにと。そう仰せつかっております。また、食事も薄味で野菜が多く、肉よりも魚。様々な料理を少しずつ食べるのが好きだとも。それに、芳醇な香りの茶を好むから、飽きさせないように用意しろと……」
そこまで好みを話した記憶はないが、何故、知っているのだろう。そして、どうわざわざ合わせてくれるのか。彼の優しさに、どうしても戸惑う。懐柔したいだけにしては、妙に手が込んでいる気がする。
……でも、これこそが高貴なお方の戯れなのかも。彼にとって、造作もないことだろうし。
アリアは困惑しつつぎこちなく苦笑し、女官が用意してくれた茶を啜る。今日は薔薇の香りが仄かに漂う茶だった。村にいた時には想像すら出来なかった、艶めいた茶である。
「美味しいです」
「ようございました。今日も機織りをされますか? 一緒に参りましょう」
「ありがとうございます!」
女官らは、確かにトダシリアの言いつけ通りに世話をしている。しかし、彼女らは能動的でもあった。最初は、何時まで経っても処刑されない娘を物珍しく見ていた。しかし、置かれている不憫な境遇の中でも周囲を気遣うアリアに惹かれ、憐れみ、世話をしてくれる者達は確実に増えている。
情事後、汚れてしまったアリアの身体を、直様女官達は洗ってくれる。「大丈夫かい、可哀想に」と声をかけ、慰めてくれた。トダシリアに逆らうことは出来ないが、多くの者はアリアの肩を持つようになっていた。彼女が傷つかずに済むよう、移動先を事前に教えてくれる女官も現れた。
どんなに辛い状況に置かれても「有難うございます」と笑顔で応えるアリアに、下々の者達は思い始めた。トダシリアによって引き離された夫婦である国王の双子の弟と、その妻ならば……安心して暮らす事が出来る国を創れるのではないかと。皆に慕われる見事な王と王妃になる、そんな期待を抱き始めていた。
アリアは、今日も無心で機織りを続ける。人柄に惹かれシノから全て糸を購入したが、作ろうとしている物が大き過ぎて、在庫が減ってきた。
「ど、どうしよう……。全然足りなかった」
「国王に頼めば、すぐに手配してくださいますよ。……強請るのは嫌でしょうが」
顔に感情が出ていたのだろう、女官にたしなめられる。アリアは小さく頷き、胃が痛むのを感じた。
今夜もまた、薄暗い室内にアリアの嬌声が響く。毎晩、飽きもせずにトダシリアはやって来て身体を貪った。
結局、アリアがトダシリアの名を呼んだのは一度だけ。
もう一度聴きたいトダシリアは、なるべく優しく接するようにしたものの、こればかりはどうしようもない。しかし、トバエの名も呼ばなくなった。
「あ、あの。欲しい物があるのですが」
「なんだ、寝所で強請るとはアリアも男の扱いが解ってきたな」
「……新しい糸が欲しいのです、足りなくて。その、それがないと機織が」
名を口にすることはなくなったが、欲しがる物はトバエに関するものばかり。機嫌良く話を聴こうとしていたトダシリアだが、傍らにあった上等なワインを殴り倒し、騒音に身体を硬直させたアリアの首に手を伸ばす。
絞められると身構え、ぎゅっと瞳を閉じたアリアだが苦しくはない。うっすらと瞳を開ければ、トダシリアは俯いて微かに身体を震わせている。
「欲しい物は、買ってやる約束だったな。いいだろう……買ってやる」
首から、指が解かれる。
ほっと一息ついたアリアだが、俯いたままのトダシリアが気にかかった。けれども、どうしてよいのか解らず、そのまま無言でニ人は寝台の上にいた。
凍った様な沈黙が、部屋に満ちる。
翌日、直様商人達がやって来た。しかし、そこにシノの姿はない。彼女から購入するつもりだったが、いないのでは仕方がない。アリアは気落ちしつつも、商人達の売り込みに耳を傾ける
トダシリアは目を細めてその状況を見つめていたが、面白くなさそうに立ち去った。胸やけがした、つまらなかった。アリアを見ていたいのに、自分以外の誰かが部屋にいるだけで、虫唾が走る。
その後も何度か、アリアは糸を強請った。その度に多くのの商人が押しかけ、通常単価の五倍以上で糸を売った。どれだけ値を上げても、購入してもらえると知ったからだ。アリアには、価値が解らない。ただ、糸が欲しかった。そして、シノに逢いたかった。あまりにも逢えないので人のよさそうな商人に話を訊いてみると、彼女は本来機織機屋の娘。付属品で糸を扱っているが、王が呼びかけているのは『糸屋』であるため、話がいかないのだろうとのことだった。
彼女に逢いたくて少しずつ糸を購入していたものの、無意味なことを悟った。
「あ、あの。また糸が欲しいのですが」
「またか。一体何を作っているんだ」
苛立ちつつも与える約束をしている為、呆れながらもトダシリアは翌日に商人を招き入れた。
その日は手が空いていたので、隣の部屋の露台で過ごすことにした。アリアが糸を選び始めるとワインを飲む為に立ち去ったが、直ぐに戻ってきた。『糸を選び終えたらお前もこちらに来い、付き合え』と伝える為に。
その日は晴天で、緑が濃く光っている。
「いやー。相変わらずアリア様はお目が高い! それに、この美しい指先で触れてもらえるのであれば、糸も本望!」
「えぇ、本当にアリア様はお美しくいらっしゃる。噂では歌声も素晴らしいとか、よければ一度お聞かせいただけませんか」
トダシリアは、唖然としてその光景を見つめた。
商人達が、アリアを取り囲んでいる。まるで、甘い菓子に群がる蟻の如く。見れば、アリアの腰に手を回している商人もいる。困惑気味に微笑んでいるアリアだが、その表情からは嫌悪感が微塵も感じられなかった。
何かが、音を立てた。
アリアは、トダシリアの妃ではない。確かに熱を上げている女だが、側室でもない。
トダシリアが不在な事もあり、商人達は美しいアリアに気に入られようと下心丸出して近づいている。親しい仲になれば、今後の発注を独占出来る。今まで、交渉の場に王が不在だったことも手伝って、彼らの態度は増大していた。
ある者が、何かが裂けるような悲鳴を上げた。
何事かと振り向いたアリアの瞳に飛び込んできたのは、剣を引き抜き、宙に火炎を漂わせたトダシリアの姿。憤怒の念が噴出している彼を、久し振りに見た気がした。
「隠れてコソコソと……下衆共がっ!」
ぽーん、と、何かが数個宙に浮かび、ゴトン、と床に落下した。
床に転がったものと、視線が合った。遅れて、誰のものとも解らぬ悲鳴が一斉に上がる。
商人数人の首が撥ねられた、見れば首のない身体が数体、無様な音をたて遅れて床に倒れこんだ。身の危険を感じ逃げ惑う商人達に、容赦なく火炎が襲い掛かる。
街の惨劇が甦り、止める為にアリアは慌ててトダシリアに必死にしがみ付いた。
「お、おやめください! な、何故、何故こんなっ」
けれども、逆上しているので全く効果がない。
聴く耳を持たず、トダシリアは扉から逃亡しようとしていた商人の背に剣を投げつけた。骨を砕いて見事に心臓に突き刺さり、商人は絶命する。夥しい量の血痕に塗れた室内が燃え始め、その場は騒然となった。
買ったばかりの糸は焼け落ちてしまい、室内にいた商人達は弁明すら許されず皆殺しにされた。
身体中が凍てつき、身動きがとれなかったアリアの顎を荒々しく掴んだトダシリアが吼える。涙が伝う頬を、幾度も平手打ちした。すぐに真っ赤に腫れあがった両頬だが、余憤を吐き捨てる様に叩き続ける。
アリアの口内は切れ、鉄の味で充満している。くぐもった呻き声を出し、血を飲み込んで嘔吐しそうになる。
「そうか、お前っ! 糸が欲しいのではなく、この商人の誰かに色目を使っていたんだな!? 通りで頻繁に呼ぶと思ったら……ハッ、オレに隠れて逢瀬を愉しんでやがったな!? この阿婆擦れがっ! どいつだ、どいつがお前の男だ! オレというものがありながらっ」
「ち、ひが、ひがぃましゅ」
「オレには微笑まない癖に、こんな下卑た男共に花のような笑みを零しやがってっ」
惨劇に気づいた者達が、慌てて消火活動にやって来た。食い止めなければ、火災は瞬く間に広がってしまう。けれども、彼らの言葉すら今のトダシリアには通じない。
「王、火が! この火を消し止めてください!」
「やかましいっ! 今はこの女の折檻が先だ!」
何度も平手打ちをされているアリアに、耐え切れず一人の女官がトダシリアに縋りつく。
「おやめ下さい、トダシリア様! アリアさんは」
「黙れっ」
女官を足蹴にし、炎を放った。
悲鳴を上げた女官は、燃える身体で床を転がる。肉が焦げる嫌な臭いが漂うと、その場で放心状態となっていた他の女官らは声にならない悲鳴を上げ卒倒する。
これが、王に歯向かう者の末路。
娘がアリアと同じ年頃だと話してくれたその女官は、母のようだった。田舎の出だというので、会話も弾んでいた。命を顧みず自分を救おうとしてくれた彼女に、感謝よりも詫びが先にくる。黒い炭になってしまった彼女に腕を伸ばしたが、無情にも身体は離された。
燃える部屋を後にし、トダシリアはアリアの脚首を掴んで引き摺る。
「な、なんてこと、なんてことを、トダシリア様! あ、あんなに人を殺してっ」
「それがどうした、オレくらいの身分になれば当然だろうが! それとな、今のはオレではなく、お前が悪い。お前が糸を買わなければこんな状況にならなかったろう!? オレは部屋の一室を失った、どうしてくれる。被害者はオレだ、何故お前が被害者面してるんだ!?」
子供の言訳のようなトダシリアの言い分に、眩暈がした。恐怖に慄いてばかりではいけないと、アリアは腕に爪を立てて勇気を奮い起こす。
「部屋よりも、人の命が大事でしょう!? 貴方は強いです、でもその力を皆に誇示する前に少し考えてみてくださいっ、トバエだったらこんなことしません!」
部屋の寝台にアリアを放り投げ、トダシリアが圧し掛かった。無理やり衣服を破り、いつものように強引に犯す。
「止めてください! 人が、人が亡くなったのに、こんなことっ。火だってまだ」
「煩いっ!」
外では女官達が右往左往していた、アリアの泣き声が聴こえるがどうにも出来ない。今入って行こうものならば、二の舞となって焼かれてしまう。
「お前が悪いっ! お前がオレの思い通りにならないからっ!」
「っ、ひぐっ、アアアアアアアッ!」
どのくらいの間、憤怒を鎮める為快楽を貪っていただろう。
気を失ったアリアの隣で頭を抱えるトダシリアは、それでも抑えきれない憎悪と嫉妬で胸が焼けそうだった。心を少しは通わせられたのではないかと、自分に心酔しているのではないかと、心の奥では繋がっているのではないかと、そう錯覚していた。
先程の、男らに囲まれていたアリアを思い出すだけで腸が煮え繰り返る。
……一体、何をしたらこの女は自分のモノになるのか。
自分にのみ笑いかけ、自分にしか興味を持たず、他のモノには無表情で接し、言葉を発しない。そういう女にする為には、どうしたらいいのか。
「お前の笑顔はな、オレの為にだけあればいい。お前の全ては、オレのものだ……。何故、解らない。何故、拒否をする」
涙を流し、眠りについていたアリアの首に無造作に手をかけた。指を首に巻き付け、蛇が獲物を仕留める様に、いやらしくゆっくりと力を籠めていく。
「ト……ト」
寝言が、聴こえた。
どうせ“トバエ”だろうとトダシリアは鼻で嗤い、肩を竦め爆笑する。
「ト……私は、貴方を、好きな」
「夢の中でもトバエか、お気楽なもんだな」
トダシリアの顔が、歪む。馬鹿らしい、とばかりに首からそっと手を離し、衣服を纏うと部屋を後にした。
静まり返った室内は、蝋燭の火すら灯らず、月の灯りすらない。
「トダシリア、様」
残されたアリアの唇から、トバエではない名前が零れた。その瞳から、大粒の涙が溢れ出る。
闇の中で、何かがゆぅらり、と揺れて消えた。
キィィィ、カトン。