外伝4『月影の晩に』6:姫の護衛
文字数 7,150文字
草木に花、貝殻や動物達が掘られた壁を興味深く眺めている心の余裕などない。本来ここは、彼らがまだ立ち入ってはならぬ場所だ。
近づいてくる廊下からの怒気を含んだ声に、数人がドアを一瞥した。しかし、中断してはならぬとばかりに無視をして話し合いを続ける。
「失礼致します! お言葉ですが!」
壊れるのではないか、というくらいに勢い良くドアが開かれた。
激昂しているトモハラは、止める上官を引き摺ってまで、宰相達に直談判に来てしまった。幾度か殴られ、剣で脅されたが恐れも怯みもせず、部屋に突入して机を叩いて叫ぶ。
宰相達は顔色変えず、叱咤することもなく平然とトモハラに視線を向けた。
「極刑は覚悟の上! あの王子達を何故招き入れたのですか!? 危険すぎます、我国の姫が狙われているではありませんか!」
歯を剥き出しにして、訴える。
背後から上官に羽交い絞めにされ、そのままドアへと連れられて行ったが、両手両足で踏ん張り、部屋に留まって咆哮する。
宰相らはつまらなそうに死に物狂いのトモハラを一瞥すると、感情の籠っていない声で言い放つ。
「何を今更。あの四人の誰かに、姫を差し出すから招き入れたのです。今、選定中です。理解したのなら即刻ここから立ち去りなさい」
淡々と告げられたその言葉に、トモハラと騒ぎを聞きつけ駆けつけたミノリは絶句した。
一瞬室内は水を打ったように静まり返った。わなわなと震える唇からは言葉が出て来ず、トモハラは目玉が零れ落ちるくらいに目を見開く。
上官は二人に渋い顔を向け、項垂れる様な溜息を吐いた。血気盛んなこの二人が真実を告げられた場合、どうなるのかは容易く想像がついていた。しかし、まさか宰相らが下級騎士に口を利くとは思ってもみなかった。
「差し出すといっても、アイラ様だけですけどね」
驚愕している二人を尻目に、紅茶を手にして彼らは喉を潤す。啜る音は、嫌でも室内に響いた。抑揚のない声は、背筋を凍らせるほどに威圧感がある。
ミノリは蒼褪め、口元を押さえた。呪いの姫を厄介払いをしたい理屈は解る、しかし受け入れられない。まるで物品を渡す様に、姫を扱うその態度に心底身震いした。奴隷の売り買いが行われることは知っている、けれども、貧困層の娘ではなく、アイラは正当な姫だ。そのような不遇に、脳を揺さぶられる。
「アイラ様を引き取って戴けそうなのは、水か風の国ですねぇ」
「出来れば……火か光の国に押し付けたかったのですが、致し方ありませんね。この際、多少の事には目を瞑りましょう」
「まだ解りませぬよ。アイラ様とて顔はそこそこ綺麗ですから、身体を使えば一度くらいなら。マロー様とアイラ様の部屋は、やはり分けましょう。マロー様だと思い、アイラ様に夜這いをかけてくださると助かるのですけれど」
一国の姫に“情婦のように振る舞い、何処かの王子と寝所を共にしろ”を強要しようと企てている。これは極秘な内容ではないのかと、上官は恐怖心から喉を鳴らした。とても、生きた心地がしない。
「あんたら、何考えてるんだ!?」
上官の力が緩んだ隙に拘束から抜け出したトモハラは、罵声と同時に力任せに机を殴りつける。カップが揺れ、シミ一つなかった純白のテーブルクロスに紅茶が零れてシミが出来た。
しかし、変わらずその者達は平然としている。肝に命じさせるつもりなのか、誰もトモハラを摘み出さなかった。
「若き騎士達よ、あの姫君達に懸想するのはおよしなさい」
歯軋りし睨みを利かせているトモハラの後方で、ミノリは雷に打たれたかのように身体を硬直させた。『騎士達』と釘を刺された。トモハラだけでなく、ミノリもその対象に入っている。自分の恋心に気づかれていると知り、恥ずかしくて赤面した。
だが、トモハラは怯まない。
「我国の者なら、噂を聞いたことがあるでしょう? 良い機会ですからお教え致しましょう。マロー様は我国に繁栄をもたらす、奇跡の姫君です。易々と他国に渡すわけにはいきません」
「アイラ様は災禍の姫、他国を制圧するにはもってこいの言わば兵器。彼女はその運命を背負ってこの世に産み落とされたのですから、従わねばなりません。……そこの黒髪の騎士、あの姫のことは御忘れなさい」
ミノリは、大きく唾を飲み込んでふらつきながら後退した。羞恥心が込み上げる、早くこの場から逃げ出したいがそうもいかない。見てみたかった、憧れていた、そんな存在だが、確かに存在を知った時から慕っていた。公然の秘密となっているだなんて、思いもよらなかった。
「姫ですよ……? 我国の姫君ですよ!? それを兵器呼ばわりするだなんて!」
トモハラだけが威勢よく噛み付くように吼えた、が、子犬同然。爪を立てようが牙を剥こうが、赤子の手をひねる様なもの。
「良いではないですか、あなたの慕う姫君は我国に残るのですから」
「そういう問題ではありません!」
一人に掴みかかろうとしたトモハラを、硬直していた上官がようやく我に返って止めた。再び羽交い絞めにし、力任せにそのままドアから引き摺り出す。
室外に放り出されたトモハラだが、すぐさま施錠されてしまったドアを幾度も叩いて抗議する。蒼褪めて震えているミノリには目もくれずに、必死になった。
「いい加減頭を冷やせ! こんなことをしたらどうなるか」
「俺はどうなってもいい! 姫様達に比べたらっ」
上官を殴り倒し、叫び続ける。あまりの理不尽さに、その瞳から涙が零れた。
世の中には身売りをする女がいることも、兼ねの為に売られていく女がいることも、上流階級であれども交渉の為に身を差し出す女がいることも、純粋なトモハラは知らなかった。姫と言えども、国の為にはその身を投げ出さねばならぬ、それが民を護る事に繋がるのであれば。
けれども、本当かどうかも解らぬ予言に踊らされているこの国にはついていけない。
しかし、もう姫を護る事は出来なくなってしまったと落胆し、自分の行動を恥じた。重要機密を聴いてしまったのだから、身柄が拘束され数日のうちにひっそりと処刑されても仕方がないと思えた。巻き込んでしまった上官とミノリには謝罪しても足りない。
喉が嗄れるまで叫んだトモハラだが、ドアは開かない。
二人は心身ともに疲労しながら、通常勤務である夜勤に戻った。今日は城壁の警備だ、何もないとは思うが、万が一がある。
二人の目は、醒めていた。二人の脳内を、アイラとマローの残像が過ぎる。
可哀想な、アイラ。姫君は、他国に売られてしまう。“子を成す”という行為が何を指すのかくらい、ミノリとて知っていた。王子達を思い浮かべ、ミノリは激しく頭を振るしかなかった。あの中の誰かが、姫を手籠めにして、穢してしまう。泣き叫ぶ姫の顔が浮かび、ミノリは嘔吐した。
そんなミノリに慰めの言葉をかけることも出来ず、唇を噛締めてトモハラは見守る。好きな少女が、他の男のモノになるかもしれないと知れば、誰でも気が狂いそうになるだろう。
例えそれが、報われない想いの相手であろうとも。
所詮、騎士如きでは姫を救う事など出来ぬのだ。己の無力さを嘆くしかなく、あぁ、王子に産まれていればと叶わぬ願いを口にする。それとも、戦争で功績を成し遂げ、英雄扱いをされたら姫を娶る事が出来たりするのだろうかと、ぼんやりと夢物語を描いた。
前方の森からやってきた光は領域を広げ、闇を後退させていく。それは、普段通りの翌朝だった。
僅かな睡眠の後、宿直室で張り紙を見つけた二人は息を飲んだ。
『下記の者、本日付で第二護衛隊に昇進とす
トモハラ・マツリア
ミノリ・カドゥン』
同僚達が不平だと非難する中で、当の二人は穴のあくほどに辞令を見つめ続ける。
姫君の第二護衛ともなれば、ほぼ側近だ。姫君の部屋の前は無論、入浴中も外で待機し、日中は彼女らについてまわる。それは、異例の事態だ、皆から咎められても当然だった。
「な、なんで?」
解雇か処刑を甘んじて受けようと思っていたミノリとトモハルは、納得出来ずに立ち尽くす。
昇進は正直嬉しい、姫を見ていられる時間が増えただけではない、傍で護る事が出来るのだから。昨夜の話を聞く前であれば、飛び跳ねて大喜びしていただろう。
しかし、今となっては複雑だ。
「これは脅迫だとでも? 国に逆らわず、働けと?」
憂鬱で絶望的な気持ちが、身体中に染み渡る。
二人はアイラ姫の姿を思い浮かべた。遠目とはいえ、呪いの姫君とは到底思えない麗しい姿をしていた。天使の様な歌声を発する姫からは、他者を貶めたり不幸を愉しむような気配はない。
胸が切なさで硬直し、気を失いそうになった。
同じ年頃の姫君が娼婦のように振る舞い、王子の夜伽を務めるなどと。そして、その計画を知らされて、護衛につけと。それは、国の方針であり公然の計画だ。つまり、アイラが王子の寝所に出向く際には、トモハラとミノリは護衛として御供し、その“最中”ドアの前で待機せなばならない。
身をもって、自分達の立場を解らせるつもりなのだろう。この上ない屈辱である、それこそ、死の方が楽だ。これが、二人に与えられた処罰。
「ミノリ!」
正気を保てず、ついに壁に倒れ込んだミノリを抱き起こしたトモハラは、悔しくて唇を噛み締める。
ミノリがアイラに抱く慕情には、以前から気づいていた。それは自分がマローを見ている様に、ミノリの視線の先にはアイラがいたからだ。客観的に見て、それは瓜二つ。あぁ、自分もこうしてマロー姫を見つめているのだな、と切ない気持ちを何度味わっただろう。
どうすることも出来ぬ、無力感と絶望感で、二人は押し潰されそうになった。
だから、叶わぬ夢を見てしまう。
……あぁもし、あの二人と同等の立場だったら。
と。
新たな場所に配属された二人は、浮かない顔つきで茫然と佇んでいた。同僚となる騎士らは怪訝な視線を向け、一体どう取り入って昇進したのかと囁き合う。けれども、二人に直接訪ねる事はなかった。その中には妬みや嫉みも混じっている。
「急な事に動揺しているのは十分に分かるし、同情もする。しかし、遊びではない。浮ついた気分でいるのであれば、即刻辞めてもらう。姫の側近であることを誇りに思い、誠心誠意忠義を尽くせ」
隊長の野太い声に、二人は我に返る。熱烈で叱責的な口調に、身が引き締まった。今は、精一杯彼女らを護らねばならないと思い直す。
顔を上げ瞳に光を灯した二人に、隊長は微かに口角を上げた。
「姫様方に御挨拶だ。粗相のないように」
喉を鳴らし、緊張で身体を震わせている二人は、脚と手を同時に出して隊長の後に続いた。野次が飛んだが、二人の耳には届かない。
普段は立ち入る事が出来なかった、庭へと脚を踏み出す。ここは以前、トモハラがマロー姫と偶然会話出来た場所に近い。あの時の興奮と感動が甦り、胸が早鐘を打つ。
姫は王子達と茶を楽しんでいたが、そろそろドレスを着替える為に一旦部屋へ戻る頃だった。
「マロー様、アイラ様。貴重な御時間を割いてしまう事を御許しください。新しく護衛の任に着きました二人の騎士のご挨拶に参りました」
不思議そうな顔をして、姫君達は顔を見合わせる。
マローは跪いている片方の騎士を見て、非常に嫌な予感がした。嫌なというよりも、胸が一瞬跳ね上がったことに狼狽した。恐らく、知っている人物だ。以前庭で勝手に腕を掴んできた、あの小汚い男だ。直感で、そう思った。
マローは、トモハラを忘れていなかった。
「歳も近いです、なんなりと二人に申しつけくだされば良いかと」
「人手ならば間に合っているでしょう? 下がりなさい」
興奮で、胸が激しく波立つのを感じた。冷静さを装って冷たく言い放ったが、声が震えていなかったか心配になった。何故この男に反応してしまったのか、自分に苛立っていた。急に身体が火照り出し、喉が渇きを訴える。空のティーカップを恨めしく見つめ、代わりに果実を口元に運んだ。しかし、甘さが感じられない。居た堪れなくて一刻も早く立ち去る為に、慌てて立ち上がる。
こんな自分は、知らない。とても怖く思った。
「マロー、駄目よ。話を聞きましょう、これから良くして下さる方達ですよ」
「ぅ……」
アイラにそう宥められ、マローは不貞腐れながらも渋々椅子に腰を下ろした。ドレスを握り締め、騎士を視界から外すべくそっぽを向く。
「何処か、具合でも悪いので?」
ベルガーの耳打ちにマローは俯き、小声で「……いいえ」と呟いた。しかし確かに、頬が熱い。熱があるようで頭がぼうっとするし、動悸もする。
「トモハラと申します。宜しくお願い致します」
「ミノリと申します。宜しくお願い致します」
平常心を保とうとしたのだが、出来なかった。自分の身体が動かない、言うことを聞いてくれない。嫌な筈なのに、瞳が勝手にトモハラをそっと盗み見た。まるで、誰かに動かされているようだった。
途端、偶然顔を上げたトモハラと視線が交差した。
血液が逆流しているような、身体中が麻痺をしているような。上手く呼吸が出来ず、がたがたと震える。
「宜しくお願い致します」
椅子から立ち上がったアイラはドレスを摘んで会釈をしたが、マローは何もしなかった。いや、出来なかった。ただ、俯いていた。
「失礼致しました」
隊長に連れられてトモハラとミノリが去って行くと、ようやくマローの脈拍が穏やかになってきた。
二人は、庭から少し離れた場所で、警備の為配置につく。
安堵したのも束の間、これから先、始終トモハラの視線を受け続けねばならないと知ったマローは、小さな悲鳴を上げた。考えるだけで、非常に心苦しく感じた。
「マロー姫、やはり体調が優れないのでは?」
「も、もう休みますっ」
トレベレスに肩を支えられて立ち上がったマローは、不安そうに覗き込んで来たアイラの手を握り締める。焦燥感に駆られた女中達が嵐の様にやって来て、マローを取り囲んだ。
「本日は湿気が高く、日差しも強い。さぁさ、冷たいところでお休みいたしましょうね」
虚ろに頷くマローだが、痛いくらいの視線を感じて顔をそちらへ向けた。
トモハラが、マローを見つめていた。
「んぅっ」
身体が、仰け反る。
庭から廊下へ、そして部屋まで。一定の間隔で、トモハラはついてきた。
身体中がざわめく、こんな感覚をマローは知らなかった。アイラと部屋に戻り、水を何杯も飲み干して、ベッドに横になる。
「大丈夫?」
「……大丈夫よ」
傍らのアイラの手を握って落ち着いたマローは、突然立ち上がると勢いよく大股で歩き、ドアを開く。するとそこには、綺麗に腰を折ったトモハラが控えていた。
慌ててドアを閉め、深呼吸を繰り返す。
「マロー、本当に大丈夫?」
「……だ、大丈夫よ」
言ったものの、落ち着けないマローは再び水を飲み干した。その後、気が触れたかのように部屋を廻っていたが、ドアの前で数回足を止めた。何度目か立ち止まった時、喉を鳴らしながら、静かにドアを僅かに開く。その隙間から瞳を走らせ、トモハラを見つめた。
不思議なことに、外にトモハラがいるというだけで。
それが、解るだけで。
「なんだろ」
「え?」
左胸を押さえた、目を閉じて心臓の鼓動に耳を傾ける。視線が合うと、何故か上手く動けない。蜘蛛の糸に絡まった蝶のように、もがくことすら出来ない。
けれど、その視線から解放され、近くにトモハラが居ると知ると不思議と落ち着く。傍に居ると困る筈なのに、居て欲しいと思ってしまう。
そんな、矛盾。
「なにこれ」
「え?」
マローは、ドアを閉めて部屋から廊下を見るように壁を見つめた。そっと耳を押し当てると、トモハラの鼓動が聞こえる気がした。くすぐったくなって、心が緩み、ふわりと優しく包まれる感じを覚える。自然と、笑みが零れてしまう。
その表情は、アイラのそれに似ていた。
アイラは首を傾げて不可解な行動をとるマローを眺めていたのだが、幸せそうな表情を浮かべていたので、釣られて微笑む。
「私はリュイ様の御見送りをして来ます。マローは体調が悪いのでしょう? 休んでいてね」
「はい、ありがとう」
マローの分まで精一杯見送ろうと、アイラは張り切った。
「とても楽しい時間を過ごす事が出来ました、感謝いたします」
「こちらこそ、ありがとうございました」
城門から去る際に、リュイは意味深な視線をアイラに贈ったが、口元に笑みを讃えたままその真意に気づく事は出来なかった。
帰国した皇子の列を迎賓館から望遠していた三人の王子らは、各々の思いを秘めて小さく笑う。
その夜、マローは夢を見た。
マローの近くに、トモハラは立っていた。
立ったまま、笑みを浮かべてこちらを見ていた。
周囲には、誰もいなかった。
言葉を交わすことは無かったが、彼の視線を独占しているという事実が嬉しくて、いつものベッドに横になった。
アイラがいないのに、寂しくはない。姉の気配に似ているからだと気づき、瞳を閉じる。
眠りに就いても、トモハラは片時も離れずにその場に立っていた。
彼女が、悪夢に魘されないように。