満身創痍
文字数 4,743文字
だが、自慢の肌に傷痕が残ってしまったら、生きていけない。マビルは逃げる事も忘れ回復魔法に専念した。
「ふ、ふぇっ!」
しかし、極度の緊張と焦燥感から、上手く魔法が発動しない。余計に焦り、集中力が続かない。
「これは僥倖。思わぬ収穫ですね」
半泣きで歯を鳴らしていたマビルの耳に、誰かの声が聞こえた。
魔物は、言葉を話せたのか。
唖然と見上げた先で、喋ったのは犬ではない事に気づいた。犬の横に誰かが立っている。
整った顔立ちの男に、喉を鳴らす。そして悟った、相手が人間ではないことを。自分と似た空気を持つその男に、慌てて睨みを利かせる。
「ひょっとして、貴女。予言家とかいう一族が唱えた“影武者”でしょうか。
耳に心地良い男の声に、一瞬聞き惚れる。こんな出遭い方をしていなければ、マビルの恋愛対象だったろう。細い月を彷彿とさせる冷たい瞳に、長い睫毛、形の良い官能的な薄い唇。すらりとした細身の長身、そして綺麗な長い指は理想的だった。
「な、なんなのっ、アンタ!」
しかし、頬を怒りで真っ赤にしたマビルは、歯を剥き出し威嚇する。美形に弱い自分に、少しだけ腹が立った。今はそれどころではない、自分の事を知っているなど有り得ない。
唇を噛み締めると、土の味がした。口内でジャリジャリと不愉快な音が鳴る。
「生きていたとは意外でした。てっきり、魔王戦で巻き添えを喰らい死んだとばかり」
「あれくらいで、あたしが死ぬわけないでしょっ」
「まぁ、構いません。今、死んでください」
美麗な唇から淡々と紡ぎ出された言葉に、背筋が凍る。死の宣告を受け、体勢を整えるべくマビルは気合で立ち上がった。戦える、と言い聞かせる。
相手は一人と一匹。這い蹲らせ命乞いをしたら嬲り殺してやる、と意気込む。冷静さを取り戻すべく、呼吸を正常に戻そうとした。胸の前で拳を作り、息を吸い込む。
「実戦は体験していないようですな。回復する時間を与えるとでも?」
言うが早いか、魔物が突進してくる。舌打ちし全力で空に跳ね上がったマビルは、激痛に顔を歪めた。
痛手を負った状態で動くことに慣れていないどころか、痛みは大の苦手だ。回復魔法が中途半端だったことを後悔する。
「さようなら、アサギ様の“影武者”」
情欲的にも聞こえた重低音の声が耳元で囁かれ、マビルは仰け反った。
甘い言葉を囁かれていた夜が、走馬灯のように甦る。このままでは文字通り『私の腕の中でゆっくりおやすみ』になってしまう。
永久に。
「ぅああああああっ!」
しかし、冷静にマビルを射すくめるように見つめていた男の顔が消える。
骨が軋む衝撃と共に再び地面に落下したマビルの身体には、小枝が数本刺さった。
「かはっ!」
吐き気をもよおす魔物の異臭すら気にならないほど意識は遠のき、視界が薄れていく。
魔物に顔中を舐められていたが、逃げる事など出来なかった。気色悪いと思う余裕もない、全身が鉛のようで動かない。
身体中がギシギシと音を立て、組み合わさっていた骨が全て粉砕されていくように思える。
知らず涙が零れた。遠のく意識で、救いを求める。
……だれか、たすけ。
激痛が、身体中に飛散する。
全身を槍で突き刺され、皮膚から侵入した金属が内部を引っ掻き回している気がした。ブチブチと、血管が切れる音が耳の奥にこだまする。
ここで終わりだと観念した。
助けなど来ない、助けに来てくれる人などいない。ここで朽ち果てるが定め。影武者として産まれた、その終着点だと。
あの村に行かなければよかった。アサギに間違えられなかったら、こんなことになっていなかったと嘆く。
……どうせ死ぬなら、綺麗な姿で死にたかった。
美意識の高いマビルは、最期の時も自分が自分である為にその願いを手放さなかった。美しく、誰からも好かれる自分がいなくなったら、それこそ死だ。
「チッ、運が良いようで」
瀕死のマビルを今にも喰らおうと、三つの大口を開けていた魔物を鋭く制しアイは眉を寄せた。
……さようなら、あたし。
土に埋もれ、全てを諦め意識を手放したその時、遠くで聞こえた舌打ちと男の声。焦りを帯びたその声と、珍しい桃色の髪の男を脳裏に描きマビルは沈む。
「上等な肉だろうが、我慢しろ。後で別の肉を用意する」
泥に塗れたマビルを忌々しく見下ろし、顔にかかったその煌めく髪をかき上げたアイは遥か遠くを見つめた。誰かが、こちらへ向かっている。
いや、
「破壊の姫君様」
敬愛の念を籠めうっとりと呟いたアイは、そちらの星雲に向かって深く頭を下げた。姿を想像するだけで、歓喜に満ち溢れた身体が暴走しそうになる。肌で感じ取るその凄まじい力は、全てを凌駕する。
「あぁ、早く貴女様のお力を解放して差し上げたい。さすれば、宇宙の星は一瞬のうちに消え失せ、新しい宇宙を創造する礎となる。それこそ、皆が待ち焦がれた楽園そのもの。
アイと三つ頭の魔物は、闇に紛れるようにしてひっそりとその場から消えた。名残惜しく、恋する若者のように遠くの空へ純粋な瞳を向けたまま。
小雨が降る。
しとしとと降り注ぐそれは、容赦なくマビルの身体から体力を奪っていく。血を流し過ぎた、さらに内臓は破裂している。
命の糸は、切れる。
『マビル』
「っ?」
ピタリと張り付いていた瞼をこじ開けると、ぼんやりと岩肌が見えた。
背中が痛いが起き上がる気力もなく、小さく呻きながら茫然と眼球を動かす。恐る恐る右手を動かすと、指先が硬く冷たいものに触れる。
ザラリとした質感で、土の感触ではない。砂のように細かくはなく、石のように思える。
腹で深呼吸を繰り返し、全身の感覚を取り戻す。
「ぇ……?」
今眠っているのは、土の上ではなく岩の上だと気づいた。混乱する、ここが何処なのか記憶があやふやになった。
忌まわしい魔物と魔族が何故か立ち去ったことは、うっすらと記憶に残っている。脅威が去ったところで、このまま死を迎えるのが道理だとも思っていた。
けれども、生きている。
そして、先程と違う場所に何故転がっているのか全く解らない。生きたいという願望が働き、懸命に這いずって身を隠せる場所まで到達したのか。
「ここは、どこ?」
周囲に妙な気配はない。マビルは何度か半身を起こそうとしたが、上手く力が入らず挫折を繰り返す。寝そべったまま先程よりは安全な場所に安堵の溜息を漏らし、少し眠ろうとした。体力の回復を待たねば、何も出来ない。今は魔法すら使う気力がなかった。
「つか、れた」
岩の上で眠ることは容易い事ではなく、疲れ切った身体ですら拒否をする。浅い眠りを繰り返し、ようやく回復魔法を唱えられそうな程意識の集中が可能になると、ただ、起き上がりたい一心で神経を研ぎ澄ます。
暗い洞穴に、魔法を放つ際に発する光が舞う。
ぼんやりと霞む瞳に、真綿の様な光が揺れているのが映った。心地良いその光は、精神を落ち着かせてくれる。
立ち上がると頭部を打つ程度の高さの洞穴は、耳を澄ませば水音が聞こえた。頭を打たないように若干腰を屈め、炎の魔法を唱える。浮かび上がった洞穴の全貌を眺めていると、水音が周囲に反響していた。
水琴窟が奏でるように神秘的だ。
近くに水源があると判断し、喉が渇いたので水を求める。回復魔法で身体を癒しても、喉の渇きまでは癒せない。暗闇が支配するその狭い空間を、人差指に火の光を灯し移動する。
何処まで続いているのか解らないが、自暴自棄になりかけていたので後先考えず進んだ。もう、何かあっても怖くない。
一度、生を手放したのだから。
最深部に到着すると、小さな水たまりが出来ていた。地中から染み出た水がそこに溜まっているのだろうか、滴が一定の間隔で零れ落ち波紋を広げている。
綺麗な水か解らなかったが、躊躇している余裕はない。水を目にした途端耐えきれず、喉を大きく鳴らすと貪るように飲む。
口内は土まみれだったが、吐き出す余裕もなかった。普段のマビルからは考えられない行動だが、それほどに切羽詰まっていた。
獣のようにゴクゴクと顔をつけて夢中で飲み、満足して揺れる水面に映る自分を見る。
「…………」
疲弊した、みすぼらしい顔が映っている。それが自分だと認めるのに、時間を要した。このような浅ましい姿になってまで、生きたかったのだろうか。自身に問う。
普段なら、水ではなく甘い果実で喉を潤したのに。
頬の土と共に、幾筋も流れる涙を拭った。
水面に火の球を浮かべると、より鮮明に醜い自分が映る。傷だらけの顔が、さらに引き攣った。
悲鳴を上げ、回復魔法を連呼する。腕に傷、首にも切り傷。唇にはかさぶた、瞼は落ち込んで窪んでいた。
愛らしい自分を見つめることが好きだったマビルにとって、これは拷問だ。
泣き喚く体力が戻ってきたので、のたうち回る。しかし、冷静さを失っているので魔法が上手く発動しない。
「は、早く! 早く回復しないと! こんなの、イヤ!」
恐怖に怯え震えながら、大声で哭いた。
「“アサギ”さえ、いなければっ……!」
憎悪の矛先はアサギへ向いた。
全ての元凶は、アサギ。
アサギが勇者としてこの惑星へ来た時から運命の歯車は緩やかに回転し、マビルを渦中へと引き摺りこんだ。
いや、アサギが産まれると定められた時からか。
誰からも愛され護られ、美しく咲き誇るアサギから、少し離れた場所で俯いたまま出番を待つ。誰にも知られないように、ひっそりと生きていく。
「そんなの、絶対嫌なのにっ」
憎い。
悔しい。
どうして、こうも違うのか。
殺したいけれど、殺せない。何故ならばマビルはアサギの力量を認めていた。まざまざとその能力の高さを見せつけられ、挑むほど馬鹿ではない。
あちらの魔力が高くて殺せないのなら、せめて、何か一つでも勝るものを見つけねばならない。そんなもの、存在するのだろうか。しかし、
「でなければ、これで終わるっ!」
マビルは大きく震え、自身の腕を抱き締め悲鳴を上げた。
……本当に、痛いんだ。身体も心も悲鳴を上げるの、とっても痛いの。
涙を零すなど弱者がすることで、自分には似合わないと罵りつつも、とめどなく溢れてくるそれを止められない。
……誰も助けてくれない。泣いても、叫んでも、あたしのトコには誰も来ない。
これが、アサギならば。
泣けば誰かが手を差し伸べ救ってくれる。夜は誰かと寄り添い包まれて深い眠りにつく。柔肌に傷などない、出来る前に誰かが庇ってくれるから。
人間の勇者で、次期魔王となる“はず”の、最強の“姉”だから。
「影武者のあたしは、死ななきゃいけないの? 一体、なんで産まれたのっ」
身体中の水分がなくなっていくのを痛感するが、それでも涙は止まらない。
「あ、あたしだって。あたしだって!」
掠れる声は、閉鎖された洞穴にすら響かないほど、か細いものだった。
……誰か。誰か、助けてよ! あたしを護ってよ!
嗚咽を繰り返し、ぐったりと岩肌に横になる。人肌とは程遠いそれに、情けなくなった。こんなものに縋るしかないだなんて、どうかしている。
それでも、今は自分以外の何かに触れていたかった。
「いたい、よ」
痛いのは、身体なのか、心なのか。もう、何も解らない。