外伝2『始まりの唄』19:もしも、の話
文字数 4,050文字
しかし、それがトダシリアへなのか、トバエへなのか、分からなくなっていた。二人は、何を作っても完食してくれる。そして、「美味しかった」と言ってくれる。
「今日も美味い」
「お口にあったようで、よかったです。今日も死刑にされずに済みました」
「小意地が悪い事を言うな、不味いだけでお前を死刑にするわけがないだろう。……それから、昨日の食事についてトバエも『美味かった』と言っていた」
「よかった……」
妙なところで生真面目なトダシリアは、きちんとトバエからの言葉を伝えてくれた。会う事はやはり出来ない、しかし、彼が生きていることだけは分かる。それだけで幸福に思えたアリアは、より一層料理に励む。
また、トダシリアは出来上がりを食べるだけなく、何故か調理中も片時も離さずに傍に居た。
「職務があるのでは? 実はお暇だったりします?」
「そんなわけあるか、忙しい。だが、これとそれとは話が別だ」
一度訊ねてみたのだが、わざわざ時間を作って足を運んでいる事を知ったアリアは驚いた。暴虐な王の意外な一面を知り、困窮するしかない。触れ合う度に、この男が解らなくなる。
「つまらないでしょう? 見張らずとも逃げませんし、毒も盛りません」
「これは監視ではない。……観るのが好きだから、ここにいる」
「一体、何が愉しいのです?」
「さぁな」
アリアの背中を見つめながら、食事が出来るまでトダシリアはワインを味わう。広い厨房では、多くの人間が忙しなく働いている。けれども、時折錯覚した。周囲には誰も居らず、自分の為だけに料理をしてくれていると。ニ人きりで暮らしており、彼女は自分の妻であると。
それは、数年前からトバエが置かれていた環境。恐らく、トバエも同じ様に後ろ姿を眺めていたのだろう。そして、こんこんと湧き出る愛しさを感じていたのだろう。こことは比べ物にならない貧相な狭い家の中で、アリアの愛情を独占して。
知らず、トダシリアは唇を噛締めた。アリアの隣にトバエがいて、共に談笑しながら料理している……そんな映像が脳裏に浮かび、怒りに任せてそこらの物を床に投げつける。
その場に居た全員が騒音に驚き、身体を縮ませた。罵声が飛んでこないか背筋を伸ばして気を引き締めたが、トダシリアは何も言わなかった。
機嫌を損ねたのかとアリアも怯えたが、その大きな音以降は不気味な程静かだったので、気づかれないように深呼吸すると冷静を装って振り返る。頬杖ついて渋い顔をしているトダシリアが見えた、出来上がった料理を運ぶ為に歩き出す。
「今日は根菜をたっぷり煮込んだスープです、パンは胡桃を入れて焼きました」
香辛料の匂いが、食欲をそそる。トダシリアはそれを躊躇いがちに受け取り、夢中で食べ尽くした。軽く頷き、時折嬉しそうに口元を綻ばせる。
その間に、同じものがトバエへと運ばれて行く。アリアはトバエを想い、静かに見送った。
瞬く間に食事を終え、トダシリアは背後に控えていた者に何か囁くと、運ばれていった食事を見つめたままのアリアの腕を掴み、部屋へと戻る。強引に腕を捕まれ、アリアは顔を顰めた。だが、抵抗することなく共に歩く。
部屋に入ると、どっかりと愛用のソファに腰掛けたトダシリアから避けるように、アリアは窓際の隅に移動した。
ニ人の定位置だ。
ほどなくしてワインにマスカット、チーズが運ばれてくる。ワイングラスになみなみと注がれたそれは、美しい琥珀色をしていた。
「辛口だが呑むか? 爽やかな口当たりと、余韻が素晴らしいワインだ」
「い、いえ。ワインは苦手で」
意外そうに軽く瞳を開いたトダシリアは、口元を歪めながら小声で口にするのも忌避したい名を告げる。
「トバエも好きだろう、ワインは。アイツのほうがオレより詳しかった、一緒に呑まなかったのか?」
確かに、トバエはワインが好きだった。葡萄が豊作になれば村中総出でワイン作りに精を出したが、アリアは頷きつつも首を傾げる。二人とも子供の頃からワインを呑んでいたのだろうか、トバエとアリアが出逢った時はワインなど嗜んでいなかった。二人が共に暮らしていたのはそれより前の筈なので、違和感を覚える。しかし、王族は子供の頃から水を飲むようにワインを呑んでいたのかもしれないと、勝手に解釈した。
「……後悔している」
ワインを呑みながら、トダシリアが呟いた。グラスを片手に立ち上がると、部屋の隅にいたアリアへと足先を向ける。
一瞬身体を引き攣らせたアリアだが、トダシリアが近づくことはなかった。窓辺に移動し、風に当たりながら外を見つめ、言葉を続ける。
「オレとトバエの立場が逆だったら、よかったのに」
「……え?」
何を言い出したのかと、聞き間違いかと、アリアは狼狽する。
「あの時、城に残ったのがトバエで、旅立ったのがオレだったならば……今頃オレとアリアは夫婦だった。そうだったら、よかったのにな」
たった一人で生き抜いてきた迷い子のようなトダシリアを見て、身体が硬直し絶句する。唐突な発言に混乱し、瞳に狼狽の色を浮かべた。
そんなアリアを他所に、トダシリアは続ける。
「そうだろう? 間違いなくそうなっていたはずだ、違うか?」
「で、でも、貴方が国王の座を捨て旅に出るなんて、有り得ないことですから。私の夫はトバエだけだと思います」
アリアは、上ずった声でそう答えた。それは違うと、直様反論できなかった。一瞬躊躇したのは、トダシリアの言うような過去が存在していた場合を考えてしまったから。
「そうだろうか」
射抜くような視線を向けられ、アリアはたじろぐ。
もし、トダシリアが国王の座をトバエに譲り、アリアの村に来ていたならば。この瞳で微笑みかけられ、幼い頃に両手を広げられていたならば。或いは、いや、間違いなく。
「ふ、夫婦になんて、なっていません! わ、私はトバエだから愛して夫とし、妻となったのです。あ、貴方を愛するだなんて」
『彼が村に来ていたら、間違いなく恋に堕ちていた』
脳裏に過った考えを捨てるように、焦ってアリアは叫ぶ。しかし、耳元で誰かが思考を肯定する様に囁いたので、途中で言葉を飲み込んだ。確かに脳裏には描かれていた、手を取り合い村を歩く自分とトダシリアの姿が。何故かそれが自然に思えた、そして「そうだったらよかったのに」と思ってしまった自分がいた。蒼褪め、幻聴を聞かないように耳を塞ぐ。
トダシリアは、皮肉めいて笑った。震える声で否定したアリアを瞳の片隅に入れ、グラスのワインを一気に飲み干すと、早足で近づき壁に押付け唇を奪う。アリアが動揺し、心揺れていることなど明らか。今の言葉が本心ではないと思っていた、知っていた、願っていた。
押し返すように抵抗したアリアだが、唇をこじ開けて深く舌を突き入れると、一瞬仰け反り大人しくなる。催促する様に舌を舐め上げれば、たどたどしく舌を絡ませてきたので唇を離した。
二人の唇から、唾液が糸を引く。
「強がるな、間違いなくオレを愛していた。他にお前を愛し、愛する男などその村にいたのか? いないだろう、自然にオレ達は愛し合った筈だ。……つまり、アリア。お前は自分と同じ年頃の男なら誰でも良いんだ、偶然トバエがその場にいただけで」
「ち、違いますっ」
荒い呼吸のアリアは、必死の形相でトダシリアを睨みつけた。だが、涙を浮かべていては全く威圧感がない。
「違わない、認めたくない必死の抵抗だろ? 口では何とでも言える、その頭の中を覗き込めたら、オレが今言った通りになってるんじゃないか?」
面白がって顔を近づけ、鼻先を軽く噛む。「もっと想像してみろ」と耳元で囁けば、アリアの顔が真っ赤になる。
吹きかかる息に声を上げそうになったアリアは、慌てて唇を噛締めた。囁かれずとも、すでに想像はしていた。想像してしまったから抵抗している、トダシリアが隣に居ることに違和感がない。トバエと同じ瞳と髪の色が、混乱に陥れた。そして、言う通りかもしれないと項垂れる。村には他にも男はいたが、幼い頃から共に過ごしていた相手を自然に選んでいたのだとしたら。
不意に、ニ人の視線が交差する。慌てて顔を背けるアリアだが、顎に伸びてきた手がそれを阻み、再び口付けされる。深く激しく、絡まる舌。乱暴に口内を犯されることにも、慣れた。慣れるどころか、アリアから絡めてしまうことにも気付いていた。最初は強要されたので仕方なくだった筈だが、今は違った。
……この人は、私の気持ちが揺れ動いているのを知っている。
後頭部を撫でられ、腰を引き寄せられる。彼の硬い情熱の証と共に壁に押付けられ、口付けされる。震える両足の間に割って入ってきたトダシリアの右脚は、いとも容易くアリアの足を開かせた。唇が離れ、首筋を噛むように舐められると大きく身体を震わせる。逞しい背に腕を回し、必死に衣服を掴んで声を堪える。
……恐らく、私を屈服させたいの。私を陥れて、トバエに屈辱を与えたいのです。そうでなければ、こんな何も知らない田舎娘に執着する意味が分からない。
淫靡な音が室内に響く。何時の間にかはだけた胸元には、新しく赤い痕が幾つもつけられていた。それでも、必死に声を我慢する。思い通りになるものかと、堪えた。掴んでいる衣服からは暖かな体温と、最近間近に感じるトダシリアの香りがする。眩暈を起こしそうだった、その香りを昔から知っている気がして混乱してしまう。素直になったほうが楽なのかもしれないとも思った、だがそれでは自分が許せない。
「“愛する”とは、なんと軽薄なんだろう。出逢えたことが運命なのか? もし、オレ達のどちらもアリアに逢わなかったら、お前は誰の妻になっていたんだろう」