外伝6『雪の光』20:到達
文字数 5,780文字
その日もトシェリーは後宮を訪れていた。女達は自慢の美声を、竪琴を、ここぞとばかりに披露する。一夜だけで構わない、王に夜伽相手として選んでもらいたい一心で。
しかし、後宮へ足を運ぶものの、未だにトシェリーは誰も抱いていない。砂を噛むような時間を持て余し、ただ虚ろに微笑する。
「トシェリー様は、あの罪深き娘を」
一人の女が、空気の様な扱いに耐え切れず呟いた。ハッとして口を塞ぐが、遅かった。声はトシェリーの耳に届いている。恨みの籠った眼差しを向けられ、女達は喉の奥で悲鳴を上げた。
けれども、力なく肩を下ろしたトシェリーは自嘲気味に嗤う。
「さぁな」
その、思いつめたような声に女達は悟った。あぁ、王はアロスを忘れていないのだと。やはり、愛しているのだと。
『皆で一丸となりアロスを追い出したものの、凍りついた王の心を溶かすには時間が必要。しかし、もしかしたら、このまま溶けないのではないか』
女達はそう考え、戦慄した。これでは、意味がない。
「大丈夫よ、あの小娘にどんな魅力があったというの? 人はね、忘れる生き物なの」
強情な性格のミルアは、戸惑う女達を鼻で嗤った。
しかし、今頃になって女達は怖気づく。王がアロスを忘れない以上、いつか謀略に気づくかもしれない。菓子の材料は、女達が用意したもの。毒の実について、アロスには「この地方で焼き菓子に入れる木の実」と説明した。貴族の男が嗜む香水は、ミルアの息がかかった宦官が手に入れたもの。
アロスは女達の黒い感情など知らず、ただ感謝していた。
女達は、しばしばあの日を夢に見て魘されていた。
トシェリーは猛毒が入っていた菓子を手渡されたことより、他に男がいると知った時に憤慨していた。自分以外の男の手に渡った事に絶望し、愛情は憎悪に一変したのだろう。しかし、愛憎相半ばするというよりも、単純に喪失感から疲弊しているように思える。
この陥れた計画が露見すれば、携わった女達は全員極刑になることを骨が軋むほど理解している。これは、墓にもっていかねばならないことだ。自白することは許されない、たとえ、王の尋問が始まったとしても。
陰鬱な表情の女達は、楽器を奏でる事を、唄う事を、踊る事を止めた。そうして、トシェリーと同じ様に口を噤み、後宮は通夜のように静まり返る。
「トシェリー様! 」
そこへ、語尾のたかぶった声を出しながら宦官らが
怪訝に顔を向けたトシェリーの視線の先には、宦官以外にも近衛兵に宰相がいる。
男達の侵入に、女達は悲鳴を上げた。後宮に出入り可能な男らは限られている。
そして、彼らに武器を向けられ、制止するよう叫ばれながらもこちらへ進んで来る見知らぬ男が二人いた。一人は遠目で見ても判る程、上等な衣服を身に纏っている。隣の男も、多少汚れてはいるものの、質の良いものを身に纏っていた。
「貴族の、男」
二人が目に入った途端、トシェリーが勢いよく立ち上がる。そして、怒涛の勢いで駆け寄った。
「トシェリー様! も、申し訳ございません、このようなところにまで。その、待つように伝えたのですが、その」
しどろもどろに言葉を並べる宰相を突き飛ばし、堪忍袋の緒が切れたトリフが剣を抜く。
「貴様がトシェリーか! こいつらでは話にならんっ! アロス様は何処だ、返して貰おうっ」
ベイリフと共に謁見を申し出ていたものの、アロスの名を出した途端にのらりくらりと交わされた為、入場許可を待たず侵入した。本来、王に謁見するのであれば正式な手順を踏まねばならない。それくらい、ベイリフもトリフも心得ている。しかし、気まずそうに慌てふためく彼らを見て、居ても立っても居られず踏み込んだ。
また、宰相らは彼らを知っていた。隣国とはいえ、手腕のベイリフとアルゴンキンの名は広く知られている。邪険に出来ない相手に困り果てたが、追い打ちをかけるようにトリフが嫌々ながらに見せたブルーケレンの紋章でその場は騒然とした。
無視出来る代物ではない、皆が顔を引き攣らせた。現王に双子の弟がいたことは、触れられなかったが多くの者は知っていた。それを所持していた男の風貌が、トシェリーと同じ髪と瞳の色だった確信する。捨てられたとはいえ王の双子の弟であり、アルゴンキンの片腕であるらしい従騎士。
こうして対面した二人を見て、周囲は固唾を飲んだ。確かに、似ている。
「お前達は一体」
忌々しく二人を見やったトシェリーは、低く呟く。
緊迫した空気を読まず、甲高い黄色い声で叫ぶ女がいた。一斉に注目を浴びたが、それは非難の視線を向けられただけ。
「やだっ、ちょっと、めっちゃ私好みな殿方っ! あぁっ、夢で御逢いしたあの御方よっ! 迎えに来てくださったのねっ、ミルアはここですぅっ」
ミルアを捜し乗り込んできたとは思えないが、身をくねらせ恍惚の笑みを浮かべる。
呆気にとられ脱力したユイは、引き攣った笑みを浮かべた。まさか、ここまで頭が弱い女だとは思わなった、今まで必死に取り繕ってきたが、自分も滑稽で馬鹿。
「ねぇ、あの人達、アロス様って言った……?」
陶酔しているミルアは黙殺し、この男達が何者なのか女達は気になった。明らかに高貴で美しい男が、アロスを知っていることに動揺する。
そしてユイは、知らず後退った。アロスが綴った手紙を、トシェリーは読んだ。女達が知らないだけで、何処かの国の文字だったのだろう。
『そうか、お前
浮かれていて記憶が薄れていたが、手紙を見た時トシェリーはそう言った。ユイは口元を手で塞ぎ、震える足に耐え切れず座り込む。
「まさか」
心の昂りと焦りを抑えきれず、乱れた声が喉から漏れる。
鬱陶しく強烈な視線を投げてくるミルアを無視し、トリフは剣先をトシェリーに向けた。殺気じみた気配に、誰しもが動けなかった。動けば、斬られる。
王を護るべく新たに駆け付けた衛兵は、ベイリフの私兵によって止められた。
「トリフ殿、少し冷静になられよ」
肩を竦めて溜息を吐いたベイリフに、トリフが青筋を立てて怒鳴る。
「これが冷静でいられるかっ! 貴様、アロス様を何処へやった!? 誰に訊いても目を背けるばかりっ! 王だろうが、侯爵アルゴンキン様の愛娘を誘拐し幽閉するなど、狂気の沙汰っ」
鬼のような形相でトシェリーに掴みかかったトリフは、虚ろな瞳で自分を見つめている男を揺さ振る。
一部始終を聴いていた女達は、悲鳴に近い声でざわめき出した。
「侯爵!? え、えぇ!?」
「誘拐? 奴隷市場で買われた小娘じゃなかったの!?」
女達の狼狽を冷静に眺めていたベイリフは、口笛を鳴らす。生気のない顔、錯乱状態、明らかに何か隠している。真相を知っているのはこの女達であると、すぐに察した。
トシェリーは周囲の声に耳を傾ける余裕がなく、ただ、糸のように細い声を漏らした。首元にトリフの剣があてがわれたが、それすら気づけない。
「お前達は……誰だ? アロスの、何だ?」
見当違いな言葉に苛立ったトリフは、トシェリーを拳で殴りつける。倒れ込んだ床に剣を突きたて、吼える様に叫んだ。
「オレはアルゴンキン様に拾われ育てられた、アロス様の婚約者だ」
女達は恐怖で脚が竦み、トシェリーは放心状態でトリフを見つめる。
「些か違うだろう、婚約者“候補”だよ、トリフ殿。……さて、初めましてブルーケレンの王トシェリー殿。少々手荒な挨拶になりましたが、アロス嬢を返して戴きたい。何処でどの様に彼女を手に入れられたのかは知る由もありませんし、興味もありません。ですが、アルゴンキン殿が血眼で探しておられます。御存じやもしれませんが、彼女は数か月前、誘拐されましてね」
口調は丁寧だったが、ベイリフの目は少しも笑っていない。整った顔立ちのおかげで、余計に不気味だった。背筋が凍るような、トリフとは違った恐怖がある。
「あぁ、自己紹介がまだでしたね。私はベイリフ、アルゴンキン殿とは旧知の仲。そしてアロス嬢の婚約者候補です。彼女の意見を汲み取った上で、私かトリフ殿が正式に婚約者として選ばれるわけですが……。未来の妻は、今何処に」
トシェリーは、虚ろな瞳で天井を見つめる。
「婚約者」
一言、そう漏らして呆ける。
「婚約者、婚約者、婚約者、婚約者」
何かにとりつかれたように反芻する声は、徐々に大きくなっていった。
その場は、水を打ったように静かになった。婚約者、という言葉だけが幾重にも響き、呪いの言葉として皆の耳に纏わりつく。
トシェリーは、暫くして腹を抱えて笑い出した。
「貴様っ! 何がおかしいっ」
憎悪に満ちた表情のトリフは、無抵抗のトシェリーを何度か殴りつけた。しかし、それでも虚無の瞳で笑い続ける姿に、皆は慄く。防御も反撃もせず、甘んじて受けている姿は異様だった。
王は気が触れたと、皆は嘆いた。
そのトシェリーの瞳から、一筋の涙が零れる。しかし、誰も気づかない。
「そうか、婚約者か。……
「何を言っているのか知らんが、さっさとアロス様の居場所を吐けっ! 一体何処に隠しているっ! 他に誰が知っている、貴様かっ」
トリフが剣を薙ぎ払いながら、そこに居た全ての者に剣の切っ先を向けた。柄を強く握り締める音が響き渡る。
女達は、真相を告げることが出来ず必死に口を噤んだ。瞳を合わせられず、自ずと頭部が下がっていく。
「そうか、そうだったのか。アロス、お前には最初から……婚約者が」
うわ言のように呟き続けるトシェリーは、虚しくて小さく笑い続ける。
混沌とした後宮内に、忙しなく別の宦官らがやって来た。その場の異様な雰囲気に怯えながらも、駆け足で近寄り耳打ちする。
「トシェリー様、その、あの。このような時ですが、あの、名医が見つかったと。今、来賓室に通しておりますが、その、如何しましょう」
「めいい。……医者」
アロスの声を治す為に探していた医者が、今頃見つかった。
「アロス……アロスの声を」
力なく起き上がったトシェリーに、トリフが剣を向ける。
しかし、トシェリーはその刀身を指で掴み、血を流しながらも前に進んだ。
舌打ちし、トリフは存在を無視するトシェリーの胸ぐらを掴む。
「だから、そのアロス様は何処にいるっ」
「……迎えに、行かなければ」
渾身の力でトシェリーを掴んでいた筈だが、手が外れた。思いとは裏腹に、身体が勝手に動いて自ら離してしまったように思えたトリフは、茫然と自分の手を見つめる。
足を引きずりながら、自由になったトシェリーは進む。
女達が一気に青褪めた。医者が治療を施しアロスの声が発せられた場合、全てが終わる。女達の企みは全て曝され、死刑になることは必然。王を謀ったのだから、当然の報い。首謀者であるミルアを、女達は自然と見つめていた。一人で責任を負えばよいのだと、責任転嫁するように。
「トシェリー様。報告書に目を通さなくてよいのですか?」
そんな中、ひっそりと歩み出たのはガーリアだった。
「あの哀れで愛らしい娘さんの報告書を、要請していたでしょう?」
「女、お前は何を知っているっ」
まともに会話できると判断し、トリフはガーリアの腕を掴んだ。
射抜かれるような視線と交差した瞬間に、柔らかに気丈にガーリアは微笑む。
ベイリフは頭を抱え、落胆気味に開口した。
「落ち着きたまえ、トリフ殿。誘拐犯やもしれぬとはいえ、相手は一応国王」
「何が国王だ、ただの外道だろうがっ! あの豚男ラングが主犯かと思っていたが、裏で手を引いていたのは貴様なんだろう!? アロス様の美しさに見惚れ、誘拐騒ぎをでっち上げたのがオチじゃないのかっ」
埒があかないと判断したベイリフは愛用の槍を手にすると、細い瞳を鋭く光らせ、瞬時にトリフの剣へと突き出す。
金属音が響き渡り、火花が散った。
激怒し睨んできたトリフに物怖じせず、更に槍を突きつける。
「その程度の男だったか、貴殿は。今はアロス嬢の行方が先決だろう、目的を見失ってどうする。焦り過ぎではないか?
トリフは非を認め悔しそうに舌打ちし、剣を収めトシェリーに向き直る。だが、物言わぬと解るとガーリアに詰め寄った。
「すまない、手荒な事をした。知っているのであれば、教えて欲しい」
ガーリアはトリフとベイリフを見比べ、儚い溜息をつく。
「……流刑地カシューに。あの美しいお嬢さんは、罪人として運ばれていきました。ここから北に向かった、極寒の地で御座います」
「罪人!? そんな馬鹿な!?」
「馬鹿なことが起こり得るのが、この後宮で御座いますわ。麗しき異国の殿方様」
婀娜めいた眼つきで微笑したガーリアに舌打ちすると、トリフとベイリフは踵を返した。居場所が解ったのならそこへ赴くだけで、ここに用はない。
放心状態の女達に軽く視線を流すと、ガーリアは静かに自室へと戻っていく。追いかけてきた女官達に、小さく零した。
「何から何まで、素敵なお嬢様だったわね。貴族の娘で、父の愛を一身に受け、類稀な美貌を持って、王に寵愛されて。更に、なりふり構わず探してくれる素敵な殿方が傍にいて。……ただ、嫉妬心を身に纏った醜い女達から逃れる術は持ち合わせていなかったのね」
窓から外を見ると、霙が雪に変わっていた。肌を刺すような寒さに、大きく身体を震わせる。
「雪が降る、降って積もって凍えてしまった
強かに雪は降り積もった、儚げに見えて牙を剥いた
温かさで解ける雪、空から舞い降りる小さきもの
けれども地面に降り積もった雪は、狡猾で
緑の息吹を覆い隠す、その純白で覆い隠す
息が出来ぬようにと覆い被さり、緑の息吹を凍えさせる
美しき白、けれども何れは泥に塗れて見苦しく
雪が降る、降って積もって凍えた緑
雪が解けるのを待ち侘びた、息を吹き返すために待ち侘びた
暖かな太陽が降りそそぐのを、待ち侘びた
凍えながらも、待ち侘びた」
ガーリアは、故郷で聞いたことのある詩をアロスの為に唄う。
雪は降り積もる。けれども、太陽がアロスを照らすようにと祈って唄った。
「私に出来ることは、ここまでよ」