夢の中の一軒家
文字数 2,814文字
アサギにしてみたら、心臓が壊れそうなほどに蕩ける口づけ。
トランシスにしてみたら、
……駄目だ、
口づけを神聖なものとして捕らえているアサギを可愛いと思いつつも、もどかしい。互いを知るのであれば、身体を合わせるのが手っ取り早いというのに。
口づけをしたことがない娘は、当然生娘だろうと思った。衣服から時折覗く胸元を血走った瞳で見つめ、震える手に爪を立てる。何れは手に入る極上の身体に、トランシスは満足した。
「このまま、ずっと一緒にいよう。何処にも行かないで」
耳元で囁くと、アサギは恥ずかしそうに瞳を伏せた。そうして、小さく頷く。
「あ、あの。でも」
「ん?」
家に連れて帰るつもりでいたトランシスは、困惑気味の声に眉を顰める。
「すみません、すぐに戻ります。一旦おうちに帰ります、その、一緒にいたいけれど……」
夢のような出来事が続き過ぎて、現実を忘れていた。幸せに浸っている場合ではないと思い出す。
「え、そうなの? それは、恋人のオレより大事?」
「ええっと、トランシスさんはとっても大事で離れたくないのですが、問題が発生しているので途中で投げ出すのは気が引けるといいますか、ええっと」
上手く説明出来ず、アサギは口籠る。
しかし、トランシスは満足した。『とっても大事で離れたくない』と言ってくれたことに胸が震える。
「そうか。なるべく早く戻ってね……っていうか、帰ること出来るの?」
「一応、やってみます」
失敗して欲しいと、トランシスは心底願った。そうすれば、アサギは何処にも行かない。二人でこのまま暮らせるだろう。
しかし、期待も虚しくアサギは名残惜しそうな笑顔を浮かべつつ、消えてしまう。
「ま、また、逢いに来てもいいですか?」
「当たり前じゃん、逢いに来てくれないと困る。オレはアサギの彼氏だろ?」
去り際、泣きそうになったアサギにそう告げると、安堵したようにうっとりと微笑んだ。その笑顔が忘れられず、トランシスは喉の奥で低く笑う。
「あぁ、本当に可愛い。オレの、アサギ」
身体の関係は数えるのも馬鹿らしいので覚えていないが、特定の彼女は一応作ったことがない。ただ、一度寝ただけで彼女面する面倒な女たちは義母を含め大勢いた。
「なるほどね、これが愛ってやつだ」
犯したい衝動を堪えた自分を称賛する。アサギを大事にしたいと切実に思っている。
上機嫌で、自室のベッドの上に転がった。何度も薬臭い水を飲み干し、火照った身体を鎮めようとする。すでに二回ほど自慰行為をしたが、まだ足りない。思い出すだけで情欲が湧き上がるが、まだ見ぬ裸体を想像し、卑猥な格好をさせて妄想で犯した。『やめないで』と上目遣いに懇願する姿や、『もっと』と甘えて卑猥に腰を振る姿。どれもこれも
「アサギ、か。可愛いな、本当に可愛い。
力なくベッドに沈み込むと、疲労感が手伝いすんなりと眠りに落ちた。
男の夢には、しばしば女が出てくる。それは思春期の男であるならば当然の事であって、珍しい事ではない。『性的欲求の表れだ、よくあることさ』と義父にも笑われた。
トランシスは久しぶりに忘れかけていた義父の夢を見て、低く呻く。綺麗さっぱり忘れたい人物だが、彼は夢の中で優しく微笑んでいる。
「違う、そんなものじゃない。もっと複雑な、大事な夢だ。物心ついたときから、既に彼女は夢の中に居た!」
夢の中で、トランシスは叫んでいた。
声に驚いたのか、義父は消えた。
焦がすような太陽を恨めしく見上げ、止めていた作業を開始する。
ここで我に返った。
鍬を手にして畑を耕している自分に驚き、慌ててそれを手放す。しかし、思い直すと拾い上げて畑作業を始める。
「そうだ、自給自足を始めたんだ。作物を育てないと、飢えてしまう。いつまでも
出来の良い双子の弟や、親しい仲間たちを思い出す。
不慣れながらも、懸命に耕した。
ここは、貧相ながらも自分の家。可愛らしい赤い屋根に煙突がついている小屋は、狭いが気に入っている。玄関まで石を並べただけの道先には、使われない見せかけだけの真っ赤な郵便受けがある。道の両脇には畑があり、すぐそこで鶏や牛が鳴いている。食料のつもりで飼い始めたのに、愛着が沸いてしまった。
この丘で、
澄み切った晴天を仰ぐと、聴き慣れた声がするので振り返って手を振った。
『夢の中で、その綺麗すぎる彼女は、オレがすること一つ一つを丁寧に見ていた。
不思議な事に彼女が歌い、地中に手を差し出せば畑から勢いよく植物が飛び出す。まるで呼び起こされたかのように一気に成長し、甘くて瑞々しい実が幾つもなる。彼女の歌声に動物らは引き寄せられ、集まってきた。
彼女は、オレたちとは完全にまとう空気が違うのだ。
そんな彼女は、いつも夢の中でめまぐるしく笑いながらオレの傍にいてくれた。それが、嬉しかった。彼女とオレの間に、邪魔するものは何もなく。彼女はただ、オレの為だけに。
朝起きて、夜二人で眠りに就くまでオレのもので。充実した安らぎを、夢のオレは感じていた。月明かりに照らし出される彼女の薄っすらと笑みを浮かべたその寝顔を、よく眺めていた。
彼女の髪は、豊穣の大地に立つ、美しく瑞々しい新緑だ。そう、庭先にあるマスカットにも似ている気がする綺麗な色』
トランシスは、目を醒ました。
汗を大量にかいたらしく、衣服は水を被ったようにずぶ濡れで、シーツさえもじっとりと湿っていた。あまりの不愉快さに顔を顰めて起き上がると、傍らの水を飲み干す。
「いつ寝たっけ、今何時だ? っていうか、変な夢見てたような……親父が出てきて、それで……それで……」
首を傾げる。
幼い頃から、何度も同じ夢を見ていた。幸せな夢で、出来れば起きたくなかったが、いざ目を醒ますと思い出せない。
一軒家に二人で住んでいる夢だが、それしか記憶が残らない。時折、断片は思い出すものの、全貌が分からない。
「幸せな夢なんだよなぁ、可愛い子が出てくるんだよなぁ。満ち足りなくて、そんな願望を夢で観てたんだろうな」
胸が、鉄杭で掻き混ぜられるように気持ちが悪い。これ以上思い出せず、深い溜息を吐く。
「でも、アサギっていう彼女が出来たから。夢はもういいや」
キィィィカトン。
トランシスは、手に残っているアサギの感覚を思い出し瞳を閉じた。