トビィの反撃
文字数 5,046文字
トビィに咎められる前に、アサギを服従させる。トランシスは、瞳を炯々とさせ口の端に酷薄な笑みを浮かべる。
「アサギは今日も可愛いな」
髪を撫で、顔を寄せて口づけを始めた。恥ずかしそうに俯いたアサギだが、優しく顎に手をかけて幾度か繰り返せば、きちんと自ら舌を使うようになった。
従順なアサギの思考を絡めとることは簡単で、甘い言葉一つで上手く転がすことができる。逢うたびに調教を繰り返せば自ら脚を開くことを、確信する。
瞳を細め、受け止めようと身を捩らせて震えているアサギを眺める。非常に敏感な身体は、煽ればすぐに反応する。頬を赤らめ、声を堪えて恥じらう姿は嗜虐性を駆り立てられる。
自分の色に染まり、好みの女に育てるのがこんなにも愉しいとは思わなかった。確かに時間が必要でもどかしいが、それも至福。
「急がばまわれ、か」
トランシスはほくそ笑み、震えている背中を撫でる。
今まで相手にしてきた女とは違う、上物にして初物。それを“繋がる前に”従順な雌に仕立て上げるというのは、なんとも心が震える余興だった。
「んっ……ふぅっ……はぁっ」
「上手に出来るようになったね。気持ちいい?」
揶揄うように耳元で告げられ、アサギは小さな悲鳴を零した。恥ずかしいが、確かに心地良いとも思える。ぎこちなく頷くと、羞恥心に耐え切れず胸に顔を埋めた。
これは、
「そう、よかった。続きをしよう」
互いの口元が唾液で光る。荒い呼吸が暗い室内に響き渡り、胸の鼓動が速くなる。
トランシスは何度も愛していると耳元で囁き、「愛する者同士が交わす想いの確認だ」と教え込んだ。
「気持ちがイイということは、互いを思っている証拠。もしアサギが苦しいなら、オレの気持ちのほうが強いってことだ」
「……トランシスは、苦しい?」
「全然。もっとオレにアサギの想いをぶつけて欲しい、愛が足りない」
「ぐ、具体的にどうしたらいいの……? その、まだよく分からない」
想いが足りないと言われ、アサギは泣きそうになった。瞳の端に涙を浮かべ、教えを乞う。
「そうだなぁ……。オレの口内の形を確かめるように舌先を動かしてみて」
「で、出来るかな……。私、トランシスみたいに上手くないし」
狼狽するアサギを、口元を歪めて見つめる。
「つまり、オレの口づけは上手いってこと? 嬉しいなぁ」
「ぅ……」
墓穴を掘ってしまったと真っ赤になったアサギだが、消え入りそうな声で告げる。
「たまに頭の中が真っ白になるから、上手だと思う……」
恥じらう姿に、トランシスの喉が鳴る。
「じゃあ、一緒にもっと気持ち好くなろう?」
アサギは、言われた通り懸命に舌先を動かした。トランシスの言葉全てを信じ、素直に実行する。
トランシスは気が狂いそうなほど愉快で、この世にここまで幸福な事があったのかと叫びたい衝動に駆られた。
口づけでこれなら、身体を重ねる時はどうなってしまうのだろう。言うがままに無茶な要望も嫌な顔一つせずに応えてくれるであろうアサギを想像するだけで、滾る。
「うん、アサギの想いが伝わってくる」
「ほ、ホント!? よかった」
「でもね、アサギ。ほら、混ざった二人の唾液が垂れてるじゃんね。きちんと舐めて」
口の端から零れていた光る液を指し、トランシスはにっこりと笑う。
アサギは一瞬硬直したが、そっと顔を寄せ舌を出すと、トランシスの肌を優しく舐めた。
くすぐったいが、面白くてトランシスは我慢していた。
「うん、綺麗に出来たね」
実際アサギの唾液が付着しているので綺麗になったのかどうか微妙だが、そこは問題ではない。
「よかった……。こ、これからも、頑張るね」
「うん、頑張って。オレが教えてあげるからね」
頭を優しく撫でながら、嬉しそうに微笑んでいるアサギに舌なめずりをした。
まだ昼間だ。しかし、前回購入した睡眠導入の茶を飲ませようと思案する。効果のほどは自身で試してあり、普通に眠りに入った。味は苦みと渋みがあり好みが分かれるだろう。
その前に手洗い場で自慰をしなければ耐えられないと、口元を緩ませ腰を上げる。
「トランシス、今日の予定ですが」
「ぅん?」
「トビィお兄様が剣を教えてくれるって」
浮かれていたトランシスだが、悪意のない言葉に気が遠くなった。
「え……?」
曇りのない笑顔を向けられ蒼褪める。身体が急速に冷え、暴れたがっていた下腹部が萎えた。
にこやかに微笑んでいるアサギが、悪魔に見えた。背後でトビィが薄ら笑いを浮かべている幻覚が見える。小馬鹿にしたように見下し、鼻で嗤われた気がする。
稽古という名目の暴行だろうと、安易に想像出来る。素直に返事が出来ないトランシスは、言葉を濁した。
「えー……そ、そっかぁ」
「私もトビィお兄様に剣を教えてもらったの。丁寧だからすぐに上達できるよ」
「あー、うん」
「声をかけてくるね」
「あ、いや、今日は体調が悪いから次回にしてもらえると」
二人が犬猿の仲であることを、アサギは全く気付いていない。鋭い子なのにどうして気づいてくれないのか、トランシスは苛立った。
わざと気づかないフリをしているようにも思えて、多少苛立つ。
以前、売り言葉に買い言葉だったか、話の流れで剣を教えてもらうだのそんな会話をした記憶は確かに残っている。しかし、あれは社交辞令というその場限りのものであって、本心ではない。そもそも、貴重な時間に胸糞悪い相手と会うなど馬鹿らしい。
「アサギ、今度にしよう。オレは腹が痛い」
その語尾が情けなく掠れる。
「アサギ、オレはアサギと一緒にいたいんだー……」
「アサギ、入るぞ」
バーン!
声と同時に大きくドアが開き、冷酷な微笑を浮かべたトビィが室内に入ってきた。まるで外で会話を聞いていたかのような絶妙さに、トランシスは絶句する。
幻覚が現実になった。
アサギは明るい笑顔を浮かべると、二人から発せられる不穏な空気には気にも留めず軽やかに話し出す。
「丁度良いところに! 予定通り剣の稽古をお願いしたいと思います。ただ、トランシスは少し体調不良で……」
「こちらは問題ない。オレもその確認に来たところだが、そうか、体調不良か」
仮病だと見抜いたトビィはアサギに近寄り、大胆にトランシスの目の前で抱きしめる。目を見開き青筋浮かべている顔に向かって、余裕たっぷりの笑みを投げた。
「はいはいはいはい、どうもどうも。オレのことはお構いなくトビィさん、お忙しいとお聞きしています。結構ですよ、またの機会で」
歯を剥き出して大股で駆け寄ったトランシスは、アサギを抱き締めて奪い返した。
「いやいや、遠慮しないでくれ。でも、そうか。体調不良なら仕方がないか」
言葉に棘を含みながら、アサギの頭上で二人の睨み合いが続く。互いの本心は透けて見えるので、目で会話することも簡単だった。
『逃げようという魂胆は丸わかりだ。先延ばしにしたところで、恥をかくのは同じだぞ』
『ばーか、ばーか、だぁれがお前なんかに剣を教えてもらうかよっ!』
『意気地なしめ、生死の境を彷徨うのがそんなに嫌か』
『意気地なしでもー、生死の境を彷徨うのもー、アンタの妄想ですー、残念でしたー』
『とりあえず、アサギは離せ。不愉快だ』
『ばっかじゃないのー! アサギはオレのなんでいい加減触るのやめろよ、この盗人が!』
『盗人は貴様だろう』
『アサギが選んだのが、後から来たオレだっただけでーす。ばーかばーかばーか!』
血走った瞳で互いに一歩も引かず、アサギを抱く腕に力が籠る。歯軋りしながら、火花を散らした。
「あ、あの、トランシス、トビィお兄様。な、なんだかとっても身体が痛い、です」
アサギのか細い声に、二人は我に返った。
慌てて手を離したのはトビィで、トランシスはこれ幸いと腕の中に抱きかかえる。
「あー、ごめんごめん。痛かったね、アサギ」
隠しようもない得意顔でこれみよがしに身体中に手を這わせたトランシスに、トビィの瞳に凄まじい怒りが宿る。怒りで握っている拳が震えた。
その様をトランシスは舌を出して嘲り笑う。大声で嗤い出したいのを懸命に堪えた。
『アサギはオレの名を先に呼んだ!』
『だからどうした、このドアホ』
ビキィ!
トビィの殺気で、部屋が揺れる。
何事かと、館に居た者達が怪訝に周囲を見渡したほどだ。
「トランシス、どうする? 今度にする?」
不安そうに見上げるアサギに、トランシスは唇を噛んだ。有耶無耶にできないので、先に済ませてしまうべきか悩む。
「今日なら、無様な負け方をしても体調不良のせいに出来るな」
喉の奥で嗤い、小さくそう告げたトビィに腸が煮え繰り返る。
「やかましい! いいだろう、稽古をつけてもらう」
勢いでそう言ってしまい、トランシスは酷く後悔した。
「まずは基礎体力を見てやる。その後実戦だ」
「なら、私はお昼ごはんを作ってようかな」
「あぁ、それがいい」
喜色満面で告げたトビィはアサギを下に行くように促し、仏頂面を浮かべているトランシスの服を掴む。
「さっさと来い、愚鈍」
「ぐぇっ。何すんだよ、自分で歩くっ」
怒りに瞳を揺らして見上げたトランシスだが、鳥肌が立った。
トビィが、冷酷な視線でこちらを見ている。どこにも笑みの欠片はなく、そこには殺戮者が立っていた。背筋が凍りつき、嫌な汗が身体中から吹き出す。
トビィは有無を言わさずトランシスの衣服を掴んだまま引き摺り、アサギの部屋を後にした。
「いたっ、いって! 後で覚えてろよ!」
「その台詞を吐く奴はな、決まって敗けるんだ」
強い力で床を引き摺られ、抵抗しようにも出来ない。二階から一階への階段にさしかかると、流石に蒼褪める。けれども、トビィはほくそ笑んで振り返り「これも訓練の一環だ」と告げ、容赦なく階段から突き飛ばした。
「トビィ殺す、絶対殺す!」
「残念だな、オレに殺されるの間違いだ」
入口から外に蹴り出され、すでに青あざだらけのトランシスはようやく自分の足で立ち上がった。不覚にも、足が震えている。これは恐怖ではなく、今までの痛みのせいだと言い聞かせてた。
それを見逃すはずがないトビィは、あからさまに肩を竦めて首を横に振ると、気の毒そうに瞳を伏せる。
「アサギが作ってくれる昼食、口に入らなくて残念だな。知っているか、スープがとても美味だ」
「そんなことくらい、知ってるっつーの! アサギが作るのは何でも美味いんだよ!」
肩幅に足を開いたトビィは、余裕たっぷりに両手を後ろで組んで顎を引く。
凝視したトランシスは、剣の稽古ではないと悟ると安堵の溜息を吐いた。これなら死なずに済みそうだ、と思ったのだが、そんなことに安心してしまった自分に腹が立つ。
舌打ちし、唾を吐き捨てる。
「来いよ。枷をしてやらないと貴様は一瞬で死にそうだからな。剣なんて持ってみろ、一撃であの世行きになる。……それじゃぁ、つまらないだろ?」
喉の奥で嗤ったトビィに、トランシスは完全に頭に血が上った。ここまで馬鹿にされては当然だ。
大声を上げて突進すると、素早く右手で殴り掛かる。しかし、それは虚しく宙を切った。
「え」
「遅い。勇者たちですら、こんな無防備な戦いはしない」
目の前からトビィが消えたと思った途端に背後から声がして、気づいたら地面に叩き付けられていた。
「ぐぁっ」
「想像以上に弱い。……期待外れだ」
憐れむような声が上から降ってくる。トランシスは両腕に力を籠めて起き上がろうとしたが、背の骨が軋んで地面に顔が埋まった。
全体重をかけた右足を背に乗せたトビィは、さらに力を籠める。
「どうした、起き上がれよ」
ぞっとする薄笑いを浮かべたトビィのその表情は、悪魔のようだった。
館の入口前は、庭になっている。騒ぎに気づいた通りすがりや、窓から顔を覗かせている好奇心丸出しのアリナなど、多くの観客がいる。
トランシスを徹底的に叩き潰す為、集まってきた人々にトビィは軽く視線を送った。
「無様だな、お前」
グリグリと踏みつけながら、意地悪く声をかける。
アサギがいなければ、トビィは本性を出す。もし、ここにアサギがいたならば、こんなことは出来なかった。
「性格悪いな、お前っ」
「お互いさまだろ」
「なんだか騒がしいけど、大丈夫かな……?」
二人の為に昼食を作っているアサギは、悔しさで唇から血を滲ませているトランシスに気づいていない。