誘いの本
文字数 2,669文字
踝までの純白の衣装を身にまとい、高く結い上げてある見事な金髪を涼し気なすかし模様の布で結ぶ。凛としているその姿は、一見、良家のお嬢様。実際は、正真正銘の男。睫毛は長く、肌は白くきめ細やか、手足も華奢で美しい。
女性から見て憧れの的であり、逆に嫉妬の対象でもある。
ホーチミンは、アサギに教える魔法を探しに来ていた。多種多様の魔導書が存在する図書館の一角には、誰しもが入れるわけではない。ホーチミンは高等な魔術師であるため、立ち入る許可を得ている。
「何がよいかしら? あぁん、でも、全部教えたい。きっと完璧にこなすもの!」
ホーチミンとて、不得手がある。火炎の扱いにおいて、魔界で右に出るものは恐らくいない。だが、そこが秀でているだけであり、他の属性は苦手である。
以前は、そこまで際立つ存在ではなかった。だが、サイゴンの姉であるマドリードが亡くなった際、ホーチミンの能力が注目された経緯がある。
マドリードこそ、当時の魔界において右に出るものはいなかった。圧倒的能力を誇っていた。故に、何者かに殺されたと知った時は信じられなかった。
本を選びながら、ふと先程の事を思い出す。
サイゴンに口付けてから恥ずかしさのあまり逃亡していたのだが、ようやく心身共に落ち着いたので、こうして図書館に戻ってきた。
ゆっくりと指先を唇に添え、陶酔する。
「……無理やり、口付けちゃった」
近くに居た魔族が、大袈裟に咳をする。
しかめっ面でこちらを見ていたので、苦笑したホーチミンは頭を下げた。それでも、どうしても頬が緩む。自然と、頬が赤く染まる。
実は、二度目の口付けだ。幼い頃、一度サイゴンと口付けを交わしている。
「サイゴンはきっと、憶えていない」
震える声を絞り出し、落胆する。
唇を噛締めると、気を取り直して軽く頭を小突いた。惚けている場合ではない、神経を集中し本を探すことに本腰を入れる。本来ならばアサギをこの場に連れてきて選ばせたいが、彼女には、入室の許可が出ていない。アレクに頼めば直様許可を出すだろうが、受理されるまで時間を要すことは目に見えている。
何より、多くの者はアレクに賛成だろうが、反発する者が存在することを忘れてはいない。人間の勇者を魔界の機密保持区間へ独断で招き入れた場合、アレクの立場が危うくなることも視野に入れていた。
アレクが失脚することは、万が一にもないとホーチミンは思っている。だが、幾ら彼が有能でも、周囲の誰かが罠に嵌められてしまえば、失脚に通ずるやもしれない。有能だからこそ、敵が存在し、そして卑怯な手を使ってくる。正攻法では勝てないと、知っているから。
「やれやれ、過激派って何のために存在するのかしら」
魔王アレクと勇者アサギが揃ってこそ、アレクの夢が達成出来る。
ホーチミンは己の向上の為に魔力を磨いているのであって、人間達と戦う為ではない。そんなことの為に、無駄な労力を使いたくはない。争いなど、ないほうが良いに決まっている。
人間の世界へ出向いた事はないが、たまに人間界で買い物をしてきた女達の会話を盗み聴いた。物珍しいものが沢山あるらしく、実に興味が湧いている。異文化交流がよい事ばかりではないと知っているが、それでも、学ぶべきことはたくさんあると常々思っていた。
種族という境界線が少しでも薄れれば、自分も行きやすくなる。アレクの夢を叶えることは、自分の為でもある。何より、勇者であるアサギが永久に魔界にいるわけがなく、人間界に帰っても、気軽に会いに行けるようにしたい。
「……あら? 何コレ」
本棚に手を翳していたホーチミンの指先が、止まった。眉を顰めて、その“違和感”を覚えた本を棚から引き抜く。触れた瞬間、背筋が凍るような思いをして、身体中に緊張が走った。
それは、他のものよりいっそう古めかしい本だった。
ただ、厚みがない。早い話、本には思えない。茶色の表紙で焦げたような形跡があり、表紙には何も書かれていない。しかも、著者を示す紋章すら施されていない。
不審に思い一瞬躊躇したが、挑むような目つきで表紙を開いた。
白紙だった。
更に捲るが、白紙だ。
ホーチミンのこめかみが引き攣る、馬鹿にされているように思えたし、緊張した自分が馬鹿に思えた。半ば苛立ちを感じながら、次を開く。
ようやく、文字が目に入る。
「序章……? 何、これ?」
瞳を細め、文字を見つめる。訝し気に手にしたまま、所々に設けられてある椅子に移動し深く腰掛け目を落とす。
『私たちを引き離すことが出来ますか
私たちが出遭うことは宿命です
私たちは愛し合うことを止めないでしょう
例え、この身が滅びたとしても
私たちの思い出は消えません
私たちはいつまでも憶えています
私たちが忘れることはありません
例え、この身が滅びようとも
一人、灰色にくすんだ空を見上げ、あどけなさを残した少年、いや、青年は言葉を紡いだ。
我は忘れない、君のことを
愛しい愛しい、君のことを
いつの日か、君をこの胸に抱く時を夢見て
今度こそ、君を抱きしめることを夢見て
我の思い出は消えることなく
あぁ、愛しい君
どうして君はあの時裏切った
あぁ、愛しい君
裏切った君が酷く憎らしいよ、こんなにも愛していたのに
愛しているよ、愛しているよ、戻っておいで
我の愛しい愛しい美しい君
神に愛された、美しい少女
早く、我のモノになれ
我に、殺される前に』
と、書かれている。
「え、魔導書じゃないわね。何故、この場所に? 誰かが間違えて片付けたの?」
呆気にとられ、髪を弄りながら呟く。首を傾げながらさらにめくると、案の定文字がずらりと並んでいた。
「うん、小説ね」
図書委員は非常に真面目で、仕事に対して厳格な姿勢で望んでいる。ゆえに、重要なこの場所に小説を片付ける事など有り得ない。
「まさか……必然、じゃないわよね」
呟きながら、大した枚数ではないので気になって読み始めた。
しかし、身体中から汗が吹き出していることも、身体が小刻みに震えていることにも、気がつかなかった。
それを手にしてしまった以上、読むしかなかったのだ。
それは、誘いの本。
読むべき、本。
キィィィ、カトン……。
何処かで、何かの音が鳴る。