外伝4『月影の晩に』36:呪いの姫君の暴走
文字数 4,941文字
張り詰めた空気が充満し、家臣達は狼狽した。異様な殺気を感じ、この場から逃げる者もいた。けれども、間近に居た者は身動きすらとれなかった、動けば自分が先に殺されそうだと判断した為だ。
特にベルガーの強烈な覇気は、腕に憶えのある者ならば生きた心地がしなかった。下手に割って入ろうものならばこちらが、確実に命を落とす。
「あのトレベレス様? マローに会わせて」
トレベレスに抱えこまれたままのアイラは、それでもマローを気にして、この状況下で声をかける。
誰の為にこのような状況になっているのか全く解っていないアイラに多少苛立ちを感じたトレベレスは、怒気を含んだ声で叫んでいた。
「後だ、アイラ! 大人しくしていろ」
「で、ですが、マローが」
怒鳴られ、身体を引き攣らせたアイラだが、懸命に願い出た。目と鼻の先にマローがいるのに、近寄り抱き締める事が出来ないもどかしさに眉根を寄せる。彼女は、生死に関わる現状を理解出来ていない。何故こうも二人がいがみ合っているのか、検討すらついていない。ただ、トレベレスが不利だという事は把握出来た。
左腕はアイラを離さず、右手で剣を構えているトレベレスと、両手で普段通り槍を構えているベルガーでは一目瞭然。繰り出される鋭い突きを、剣でどう弾くかが問題になる。
しかし、トレベレスは知っていた。ベルガーは、アイラに傷をつけられないことを。無謀な攻撃はしてこないと、了知している。故に、無謀とも思われる戦いに乗った。口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、牽制する。
悲鳴すら上げられず竦んでいる女官達の中、マローは酷く冷静に視線を飛ばしていた。この状況を冷淡な瞳で眺め、唇を真横に結ぶ。捕らわれていた姫君は、自分である。繁栄の子を産む貴重な姫だと、目の前の男達から教えて貰った。
そうして、姉であるアイラは破滅の子を産む姫だとも告げられた。
屈辱と苦患の日々を繰り返しながら、それでも僅かな望みをかけた。美しい姫を魔の手から救ってくれる助けが来ることを、願っていた。姉は夢見た通り、確かにこうして助けに来てくれた。
だが、しかし。
何故、姉を取り合うようにして、自分を攫った二人が対峙しているのだろう。本来、丁重に扱われるべきなのは、自分ではないのか。何故、呪いの姫に男が群がっているのだろう。城に居た時から感じていた、姉との格差。姉が虐げられている事に、マローは物心つく前から気付いていた。けれども、姉は強かで無欲で、自分の境遇を悲観していなかった為、皆を問い詰める事をしなかった。
マローが身に纏う華やかなドレスや宝石に反し、みすぼらしい衣服を着ていた姉。それでも、姉は綺麗だった。あの人目を引く緑の髪と、瞳のせいだろう。そして、一際色彩を放つのは不思議な空気だと思っている。城内の者は多くが“うつけ”なのか多くが気付いていなかった、しかし、マローは知っていた。
姉から湧き上がる不思議な空気は、安堵が出来る、それから魅了されたように目が逸らせなくなる。あの二人も、自分と同じ様に姉の絶対的な魅力に気付いたのだろうということも解っている。
しかし、釈然としない。
トレベレスがアイラを見つめる際の、慈愛に満ちた瞳は何なのか。まるで、城内で自分が可愛がられていた時の様に、いや、それ以上の笑みだった。偽りではない言葉と仕草は、遠目でも確認できた。それは、アイラがマローを見つめていた瞳に似ている。
二人の王子が身体を張って奪い合おうとしているように見える、その人物は姉。呪いにより、虐げられていた姉である。
ギリリ。
知らず、マローは歯軋りした。胸の中に産まれた漆黒の汚物が湧き上がって、全身の穴から吹き出す様な感覚に肌が波打つ。ドレスの裾を震える手で固く握り締め、忌々しく前方を見つめる。男を翻弄し、戦わせているのは姉。緑の髪の、双子の姉。艶やかな緑の髪は今でも大樹の葉のようで、大きな憂いを帯びた瞳は涙で光り輝き、濡れる唇は熟す手前の果実の様にほんのり赤く、気品のある佇まいが可憐な花の様な双子の姉。
……数ヶ月前まで、あの場所は自分のものだった筈なのに! あの二人の王子に囲まれて、持て囃されていたのは私だった筈なのに!
だが、今は。
マローは隣にあった鏡を見つめ、反射的に顔を背けた。自分の姿に絶望し、涙が瞳にうっすらと滲む。艶やかな自慢の黒髪と肌は、栄養と水分不足で酷く荒れていた。生気を失くした瞳には輝きすらなく、痩せ衰えた老婆に見えた。入浴は毎日出来なかった為、以前の様に花の香りが身体から沸き上がらない。
美しい花は、雑草を取り除かれ、毎日水を与えられ、手塩にかけられて見守られながら凛と佇む。だからこそ、美しく居られる。姫とて、同じなのだと気付いた。
可愛い、愛らしいと褒めちぎられることが、マローにとっての喜びだった。その言葉が水であり、太陽の光であり、肥料だった。それらを与えられるからこそ、優越感に浸り自分を保つ事が出来た。
垣間見た今の自分の姿が許せず、怒りが頂点に達する。
……こんなの、私じゃない! どうしてこうなったの!
姫として裕福に優雅に過ごしていた生活を奪い、自分を貶めた相手は誰だ。
ピシッ。
マローを映していた鏡が、突如として罅割れた。
異変に気付いた女官が、喉の奥で悲鳴を上げる。
絶対零度の氷の微笑でマローは静かに唇の端を上げると、未だに争っている男達を見た。唇を噛締めれば、知らず血が吹き出す。自身の血を舌先で嘗め上げ、唇に押し付ける。紅を差すように艶美に舌を動かすと、唇は毒々しく濡れた。燃えるような口元と反対に、全てを凍て付かせる様な眩いばかりの冷淡な瞳が標的を捉える。
「ねぇ、無視しないでくださる?」
マローは、影のように静かに歩み出した。
ピシッピシッ!
マローが歩く度に、周囲のガラスに罅が入る。
急激に温度が低下した室内の異常さに皆が気付いた頃、マローは氷の様な嘲笑を唇に浮かべて、漆黒の空気を纏っていた。
瞬時に注目を浴び、久方ぶりに満足して、無邪気にマローは笑った。それは、純粋な笑みだった。目立たねば気が済まない、皆の視線を浴びている自分が愛おしい。捨てられた紙屑の様な扱いには、耐えられない。瞳には、星屑のような光が戻っていた。奥底に残忍な煌めきを宿す瞳で、舞踏でも始める様にしゃなりと脚を踏み出す。
血も凍る様な不気味な気配に、皆が固唾を飲み込んだ。
その、数刻前の事。
トモハラの瞳を気遣い、塔を目指し進んでいたトライ王子とリュイ皇子は、森の中で馬に遭遇した。
「デズ!? デズデモーナ」
トライの声に、瀕死で地中に蹲っていた黒馬はゆっくりと顔を持ち上げた。力を振り絞り立ち上がると、満身創痍な様子で歩み寄る。トレベレスに殺されかけ、懸命に逃げ走っていたデズデモーナだった。
元主に抱き締められると、デズデモーナは安堵し、鼻先を身体に押し付け小さく嘶く。
アイラの居場所を知らせる為だとトビィは直感し、「よく頑張った」と背を撫でて励ました。信頼している、利巧な馬だ。
「アイラは? アイラは何処に居る」
リュイがすぐに手配した獣医師にデズデモーナを看せつつ、トライは頬を撫でながら逸る気持ちでデズデモーナに問いかけた。
デズデモーナは首を持ち上げ、懸命に何かを訴える。しかし、流石に馬の言葉はトライにも解らなかった。本調子であれば先導してくれるのだろうが、立ち上がるのが精一杯では無理をさせるわけにいかない。
歯痒さに唇を噛締めていると、クレシダがトライに近寄り、身体を摺り寄せてから皆が見ている中で颯爽と歩み出す。
「その方角に、アイラがいるのか? クレシダ、デズデモーナ」
クレシダは、デズデモーナの言いたいことが解ったのだろう。
二頭の馬を見つめてトライがそう問うと、呼応するように鋭く鳴く。確信し、「よくやった、デズデモーナは休んでいろ」と労いの言葉を優しく投げかけると、挑むような目つきでクレシダの先を睨み付ける。デズデモーナを数人の人間に任せると、そのまま険しい顔つきで駆け出した。
デズデモーナは切なそうな瞳を浮かべ、主人を見送った。自分も駆け出したいのだろう、衝動が堪え切れず震える脚で立ち上がる。だが、今は無理だ。必死に押さえられ、治療に専念させられた。
励ますように、一際大きくクレシダとオフィーリアが鳴く。
その声を聞くと、安堵したデズデモーナはゆっくりと瞳を閉じた。
妙な胸騒ぎがして、トライはクレシダの背を撫でながら知らず自分の剣に手をかける。心拍数が上がり、額に浮かんだ汗を拭う。森の中を一心不乱に疾走していると、何かが前方に見え始めた。
リュイが叫んだ、舌打ちしてトライも忌々しくそれを見上げる。
塔だった、恐らくマロー姫が幽閉されている場所だろう。
「ここに、アイラもいるのだろうか」
トライは荒い呼吸を鎮めながら、馬の蹄の音を極力小さくし、皆に注意を促すと用心深く近づいた。
トレベレスの館から逃げ出してきたデズデモーナだが、指し示した方角と塔の位置が一致した。途中に建っていたトレベレスの館には立ち寄ることもなく、トライ達が塔に到着出来たことは奇跡である。
いや、必然だ。
この場には、“全員”揃うことが必須条件だ。
塔の全貌が見えてきたところで、周囲を包囲するように兵達を広げると、トライとリュイは堂々と塔へと進む。警備はいないようだ、静まり返っているので、もぬけの殻かと思ったが。
ガシャン!
突如響いた騒音に、皆は弾かれたように塔を見上げた。
煌くものが上空から降ってきたので、慌ててマントで顔を隠しつつ後退する。破片は、硝子だ。続いて、絶叫やら悲鳴やらが降って来る。そして、塔から人々が疎らながらに怯えた顔つきで溢れ出してきた。
「何事だ!」
異常事態だと悟り、興奮する馬達を抑えながら懸命に叫ぶトライだが、痺れを切らしそのままクレシダから飛び降りると剣を抜き走り出していた。
訊いたところで、誰も答えてはくれない。トライ達にすら気付かず、いや、気づいていても脚を止める余裕などないように、一目散に塔から離れていく。馬車が盗り合いになり、すぐに周囲で喧騒が始まった。
一体何が起きているのか、検討がつかない。
リュイも愛用の剣を構え、トライに続いた。
ミノリに手を引かれ、トモハラも我武者羅に後を追った。
しかし、塔へと入ろうとしても、出てくる人数が圧倒的に多く、流れに逆らうので上手く進めない。
恐怖心を煽られている人間達は、ベルガーの兵でもあり、トレベレスの兵でもあった。鎧の紋章を確認し、トライは突き進む。
ドン!
地面が揺らぐ爆音に、鼓膜が破れそうになった。耳鳴りに皆が悲鳴を上げ、その場に伏せれば。塔の一部が、崩壊して落下していた。地面には、巻き込まれて絶命した人間が多数存在する。
上階で、何が起こっているのか。
塔が崩壊するなど、地震も大砲もないこの場所では有り得ない。
トライは人々が伏せているこの機に、一気に階段を駆け上る。激しく嫌な予感がした、耳鳴りが止まらない。逸る気持ちを懸命に押し殺し、後方のリュイに目配せする。深く頷き、やや緊張した面持ちで自分についてくる姿を見ると、心から安堵した。共に過ごした時間など、長くはない。だが、全面的に二人は信頼し合っていた。互いに口には出さないが、気の知れた昔からの仲間のようだった。言わずとも行動とて同じ、非常にやり易い相手である。
駆け上ったトライとリュイの瞳に飛び込んできたもの、それは。
「どうして私だけが、こんな凄惨な目に遭わなければいけないの」
両腕を真横に広げ、邪悪な笑みを浮かべながら宙に浮いていたマローの姿だった。
禍々しい姫君だが、怪しく艶めかしい。トライとリュイは、瞬時に悟った。あれが呪いの姫君の正体だと。