外伝2『始まりの唄』1:プロローグ~恋歌~
文字数 3,267文字
艶やかでぷっくらとした唇は、温かい。
乾いていた口内が水分を欲し、女は無意識で軽く唇を開く。
気づいた男は微笑し、口に含んでいた水を女へと移した。若干、唇から零れて顎を伝う。それを、指で掬い取る。
女の細く白い美しい喉が、コクン、と動いた。
もっと、と水を欲して身体を掴み強請る女の髪を撫で、そのまま口内を探るように舌を動かす。ひとしきり堪能すると、うっすらと瞳を開いた女の鼻先に口付けてから、男は再び水を口に含んだ。
甲斐甲斐しく子に餌を与える親鳥のように、水を与え続ける。
微睡みながら、二人は歌う。
私たちを引き離すことが出来ますか
私たちが出会うことは宿命です
私たちは愛し合うことを止めないでしょう
例え、この身が滅びようとも
私たちの思い出は消えません
私たちはいつまでも憶えています
私たちは、忘れることはありません
例え、この身が滅びたとしても
我は忘れない、君のことを
愛しい愛しい、君のことを
いつの日か、君をこの胸に抱く時を夢見て
今度こそ、君を抱きしめることを夢見て
我の思い出は消えることなく
あぁ、愛しい君
どうして君はあの時裏切った
あぁ、愛しい君
裏切った君が酷く憎らしいよ、こんなにも愛していたのに
愛しているよ、愛しているよ、戻っておいで
我の愛しい愛しい美しい君
神に愛された、美しい少女
早く、我のモノになれ
我に、殺される前に
***
その日は、雲一つない美しい空だった。
突き抜ける様な青色の空の下、盲目の吟遊詩人が弦を震わすような声で高らかに唄う。その男は、この日の為だけに呼ばれた幸運な男だった。王からは、一生暮らせるのではないかというほどに莫大な報酬を頂いている。その為、吟遊詩人は高鳴る胸を必死に押し殺し、努めて冷静に唄っている。
しかし、彼を招き入れた当の本人であるトダシリア王は、それを聞き流していた。娯楽のために吟遊詩人を招いたのではない、弟との今生の別れを華々しくするために呼んだだけだった。
ゆえに、トダシリアの意識は弟にのみ注がれている。口元に爽やかな笑みを絶やすことなく、けれども瞳には憎悪の光を宿し、食い入るように弟を見つめていた。
小鳥が、チチチと啼いた。
トダシリアは王宮の露台から、たった二人の共を連れて去っていく双子の弟を先程から飽きることなく眺めている。見た事がないみすぼらしい衣服に着替えた弟は、本当に自分の弟なのかと疑う程にその光を失っているように見えた。
天と、地の差。
さながら、露台は雲の上。地面に這い蹲る様に去って行く弟は、身の程を弁えず神に挑み敗北した卑しき者。
とはいえ、二人は争ったわけではない。
弟は、自ら王位を放棄した。
トダシリアは宝石の様に輝く大振りのマスカットを一粒咥え、口内で押し潰し、舌でねちっこく甘さを確かめながら優越感に浸っている。弟は、こちらの気配に気づきながらも一度も振り返らなかった。そこを憎らしく思ったが、もう、過ぎた事。消えた者に執着しても、致し方が無い。
弟が遠ざかり、徐々に小さくなっていくと、ようやく口を開く。無論本人には聴こえないが、天気と同じ様に晴れ晴れとした笑顔と明朗な声で叫んだ。
「さようなら、おぉ、愛しい弟トバエよ! 兄は悲しいよ、胸が張り裂けてしまいそうだ!」
歌劇のように芝居がかって流暢にそう告げてから、下卑た声で爆笑する。乾いた空気に、品性の欠片もない笑い声が響き渡った。周囲では不安そうに様子を窺っている家臣達が、肩を竦めていた。誰しもが皆、落胆している。そうして、やがて来るであろう不条理な王の仕打ちに怯えていた。
笑いを止めないトダシリアは、血走った瞳で露台から手にしていたマスカットを放り投げた。
当然それは、地面に落ちてひしゃげてしまう。取り寄せた最高級品であり、庶民は勿論、家臣達や貴族ですら、滅多に口にすることが出来ない高価なもの。
傍らにある新たなマスカットに手を伸ばし、トダシリアは鼻の穴を膨らませると先程の弟を思い出す。腹の底から湧き上がる歓喜に、酔いしれながら高々と叫んだ。
「祝いの酒を! 女達を呼べ」
手を叩くと、下腹部に薄布のみを纏った、ほぼ全裸の美しい女達が駆け寄ってきた。弾む様に揺れる魅惑的な胸を惜しげもなく晒し、酒や果実をそれぞれ掲げている。
「さぁ、愉しませろ」
身体をしならせながら群がる女達は、我先にと王に詰め寄った。
胸の谷間に果実を挟み、瞳を輝かせて擦り寄る女。悩まし気に眉を寄せ、酒を差し出す女。あからさまに胸と局部をトダシリアに擦り付け、誘う女。
今日は無礼講、極刑にされることはないので女達も羽目を外す。
トダシリアは満足そうに頷くと、目の前にあった形の良い柔らかな胸を揉みながら、別の女の谷間に挟まれていた果実を器用に口で取り上げる。
「さぁ、順番においで」
馴染みの椅子に腰かけると、数人の女達は地面に跪いて彼の脚に手を伸ばした。愛おしそうに草履を丁重に脱がせ、脚の指を嫌な顔一つせず口に含んで舐め上げる。身体を解す様に、丁寧にふくらはぎまでを舌先でなぞる。酒を注ぐ女は、豊満な胸をトダシリアの口元へ寄せ、誘うように目配せをした。
上機嫌のトダシリアはすぐにその女の胸にむしゃぶりつき、腰を手繰り寄せ薄布を取り払った。酒の入った器に女の陰毛を浮かべて啜り、雌と酒の匂いが感覚を麻痺させる感覚を愉しむ。
目も当てられぬ、酒池肉林が始まった。
頭を抱え、家臣らはそっと視線を外す。女達の嬌声が響き始めると、吟遊詩人の唄はもう誰にも届かない。
その、少し前。
「おぉ、愛しい弟よ見ろ! 旅立ちの日に相応しい、なんとも麗しい抜ける様な青空ではないか。天の神もお前の行いを善と認め、賞賛しているのだろうよ」
芝居がかった口調のトダシリアに、弟のトバエは無表情のまま一瞥した。
その様子にトダシリアは眉間に皺を寄せ唇を尖らせると、勢いよく足を踏み鳴らす。白けた弟の態度に、一気に苛立ちが募ったらしい。
「なんだよ、人が時間を割いて別れの挨拶に来てやっているのに。最後くらい『有難う兄さん』と礼を言えないのか?」
「煩い」
重い溜息と共にトバエが静かに呟くと、瞬時に周囲に緊張が走る。皆の皮膚がピクピクと引き攣り、一斉に目玉だけ動かして、トダシリアの顔色を窺った。
普段ならばここらでトダシリアは怒り狂うが、流石に今日は心穏やかな様子で、芝居がかった口調を続ける。最近観覧した舞台劇を大層気に入ったらしく、頻繁に真似をしていた。
そのおどけた様子を見て、皆は心から安心して溜息を吐いた。
「目つきが悪いぞ、トバエ。ここから先、お前は一般市民。世渡り上手になる為には笑顔が大事だと聞いた、練習しておいたほうがよいだろう。優しい兄からの助言だ、有り難く思え」
トダシリアの表情と声色が不気味な程目まぐるしく変化するのに対し、トバエは一貫して無表情だった。元々感情を表に出さないトバエだが、流石にこの鼻につく浮き足立ったトダシリアの言動には吐き気がしたらしく、耐え切れずに眉を吊り上げる。
「煩いと言っている。お前に言われる筋合いはない、オレはオレだ」
「……お前、じゃないだろ。“兄さん”や“お兄様”だろうが。あぁ、“国王陛下”でも構わないけど」
肥沃な土地に恵まれ、現在勢力を伸ばしているラファシ国。
この日、双子の弟王子が身分を捨て出立する。本来ならば占い師に善き日を視てもらい日取りを決めただろうに、急遽決定した為、王宮内は大混乱に陥っていた。