外伝6『雪の光』16:文字
文字数 3,557文字
「ミルア様は、何故あの馬鹿に会わないのですか?」
幾度か後宮にアロスは来ていたが、ミルアは一度も姿を見せていない。当然とばかりに鼻で嗤い、ふんぞり返る。
「だぁってぇ。小汚い小娘と、同じ空気を吸う事になるでしょう? そんなの嫌よ、汚らわしい」
ユイは、喉まで出かった「いつも出迎えている私はどうなるんだ」という言葉を飲み込んだ。懸命に笑顔を作り、頷く。
「そうですね。あの子、臭いですし」
「まぁ、やはり臭いのね。教養がない娘は、そうなるわよね」
あからさまに顔を顰めたミルアは、大袈裟に身体を震わせてみせた。
「手筈通りに、ね。あの小娘の信用を得ねば、計画は破綻する」
「御望みのままに」
ミルアとユイは、喉の奥で嗤う。
アロスには、新しい女官がつけられた。しかし、彼女はすでにミルアの息がかかっており、この場で味方など一人もいない。真実を知っている侍女は、耐え難い陰鬱な圧迫感により寝込んでしまった。女達の策略通り、罠に落ちていく。
「ぅ、ぁ!」
アロスは、トシェリーと口付けを交わした朝、自由の身になると女官に必死に訴えた。身振り手振りで解ってもらおうとしたが、無謀な試みだった。彼女は、「解りかねます」と冷たく言い放った。
落胆したアロスが途方に暮れ庭園に出ると、ユイが迎えに来ている。
……ユイちゃんなら、解ってくれるかも!
顔に喜色が表れ、元気よく駆け寄った。
そんなアロスを見て、ユイは冷笑を浮かべ苛立ちを募らせる。
「きっと、違う立場で出遭っていても、私は貴女と折りが合わない。嫌悪感が募るばかりよ」
そんなユイの心中など知らず、アロスは懸命に主張した。
忌々しく妬める目で見ていたユイだが、なんとなく理解した。
「本? ペン?」
アロスは大きく頷き、ユイの手を引いて後宮へと向かう。
……すごい、ユイちゃんは解ってくれた! そうなの、紙とペンが欲しいの!
以前、文字の勉強をしていた時には用意されていたが、前の女官がいなくなってから教師が来ていない。その為、部屋にはなかった。喋る事は出来ないが、文字を書く事は出来る。この国の文字は習っている途中だが、誰か解ってくれる人がいるかもしれないと希望を持った。
室内で、アロスはユイに紙とペンを指差し懇願する。
「つまり、手紙を書きたいってこと?」
アロスの視線を追い、ユリがたどたどしく口を開く。
その言葉に、春の太陽の様に明るい零れるような笑顔を浮かべたアロスは、ユイに抱きついた。
……友達って、すごい! 言葉を交わせなくとも、心で通じ合えるものなのね。
感動し打ち震え、はしゃいで飛び跳ねる。
「あ、ちょ、ちょっとアロスちゃん。う、うふふ、もう、そんなに喜んで。私達、友達……いえ、親友でしょ? 言いたいことくらい解るよ」
苦笑してそう言ったユイに、アロスは感極まって瞳を潤ませた。“親友”、なんと素晴らしい響きだろう。初めて言われたその言葉に感激し、震えながら涙をこぼす。
慌てたユイは、頬を伝う涙を手持ちの布で拭った。
「もう、大袈裟ねアロスちゃん。泣かなくてもいいのに。ねぇ、私達、親友でしょ?」
猫なで声で告げたユイは、大きく頷いたアロスに破顔する。ちょん、と鼻先を指で突ついた。
「ふふ、よかったぁ、同じ思いで! さぁ、親友のアロスちゃん。お手紙はトシェリー様に書くの? それとも、親友の私? もしくは、ミルア様?」
ユイは、アロスを椅子に座らせながらも不審に思った。字が書けないのではなかったのか。文字書きの教師に習っていたが、それも、ミルアが手を回して止めた筈。しかし、躊躇せず机に向かう姿に首を傾げる。文字が書けるとなると、非常にまずい。真実が暴露され、トシェリーが知ってしまう。そうなると、迷わずミルアは責任を押し付けてくるだろう。
心に慄然とするものを感じ、ユイは身震いした。内容によっては隠蔽せねばと肝に銘じ、紙とペンを用意した。その手は、震えている。予定が狂ってしまった、ミルアに相談せねばと狼狽する。
「アロスちゃんのことなら、なんだって解るよ。だって親友だもの」
「ぅ、あ!」
ユイは「飲み物を持ってくるね」と告げ、身を翻す。舌打ちし、憎らしげにアロスの背中を睨み付けた。ミルアの部屋を出てから、憎悪のみなぎる声を発する。
「何が親友よ、馬鹿らしい。あの子と遊ぶの、本当に疲れる。特別手当が欲しい」
「そう思うのであれば、やめたら? 今ならば、まだ間に合うわよ」
思いもよらず声をかけられ、心臓が飛び出る勢いで振り返ったユイの形相は悪魔のようだった。人物を確認し、忌々しそうに瞳を細める。
立っていたのは、ガーリア。涼しげな瞳でそれだけ言うと、そのまま脇を擦り抜けて立ち去ろうとする。
「そう仰るのであれば、貴女様も見て見ぬ振りを止したらどうです? 同じ穴の
語尾の口調を強めユイが発言したので、ガーリアは自嘲気味に笑い受け流す。「言われなくても、解っている」とばかりに。
面白くない態度に再び舌打ちしたユイは、やり場のない怒りを籠めて壁を何度も蹴り上げた。髪が呼吸が乱れても、全てが気に入らなくて蹴り上げた。
「何よ、何なのよっ!」
自分含む女達を、微塵も疑わないアロスが憎い。ガーリアに責めるような瞳で口出しされたことも、腹に据えかねる。自分達は何もしないくせいに、女達に「頑張って」とお気楽に声をかけられるのも腹立たしい。そして、偉そうに指図するミルアには怒りを通り越して憐れみすら覚えた。
何もかもが、気に入らない。何故、自分だけが必死なのか。
大きく肩で息をし、ユイは自分の腕に爪を立てると気を落ち着かせる。
「笑顔、笑顔、笑顔……。私はあの子の親友、虫唾が走るあの子の親友」
そうして、暢気に女達と菓子を食べていたミルアを見つけたユイは、再び憤怒が沸き上がったが手紙の件を報告した。
「はぁ? アンタ、馬鹿なの? 『紙の物価が騰貴していて、今はないの。ごめんね』で済むでしょう? 少しは頭を使いなさいよ」
開いた口が塞がらないとばかりに嘆くミルアに、ユイは懸命に耐えた。
「申し訳ございません、動揺してしまって」
「あまり愚図だと、あの小娘と同類になるわよ? 気を付けなさい。まあ、茶でも零して、何度でも書かせるとか、隙を見てペンを壊すとか。どうにでもなるでしょう」
「御助言、有り難く頂戴致します。あの、しかしですね。……あの子、文字が書けるみたいです。情報と違います」
「書けるといっても、簡単な単語でしょ? 狼狽えるのはよしなさい、みっともない」
ですが、そう言おうと開口したユイだったが、唇を真横に結び深く一礼をする。全てを楽観視するミルアには、何を言っても無駄だと判断した。
「では、行って参ります」
「よろしくねー」
女達にちやほやされ上機嫌のミルアを背に、ユイは悔しくて泣きそうになりながら早足で戻った。危うく掴みかかるところだったが、断腸の思いで耐えた自分を褒めたい。
気持ちを切り替え、強張った笑顔で「アロスちゃん、今日も美味しい蓮茶だよ」と明るく入室する。
「ぅあー!」
顔を綻ばせたアロスだが、茶には手をつけず、懸命に文字を綴った。
気になったユイが、手紙の内容を覗き込もうとした瞬間。慌ただしい足音と共に、顔見知りの女中が入室してきた。
「大変! トシェリー様がアロスを捜しているわよ! 帰さないと」
ユイは手紙をアロスから奪い取り、机の引き出しに慌ててしまった。
「急いで、アロスちゃん。途中のお手紙を見られたくないでしょ? 続きはまた書けばよいもの、また今度ねっ!」
ユイに引き摺られ、アロスは部屋を出た。女達に見送られ、懸命にトシェリーのもとへと走る。夢中で手紙を書いていたので、時間が過ぎるのが早かったらしい。
息を切らせて戻ってきたアロスに、怪訝にトシェリーは眉を顰めた。
「アロス。オレが戻る前に、お前は必ず部屋に居ろ。オレを待たせるな」
多少怒気を含んだような声に、アロスは姿勢を正すと申し訳なさそうに瞳を伏せる。深く頭を下げると、ぎゅっと衣服を掴んで震えた。
その様子を、トシェリーは哀れに思った。そこまで怒ったつもりはないが、怖がらせてしまったらしい。経緯はどうあれ、もともとは貴族の娘。叱られ慣れていないのかもしれないと、多少反省しつつ溜息を吐いた。頭をかきながらアロスを引き寄せ、そのまま口づける。
「すまなかった、アロスがいなくて寂しかった。許せ」
声が出るのであれば、アロスは「ごめんなさい」と告げただろう。唇は、そう動いていた。
「そう、この温もり」
ようやく自分の腕の中に戻ったアロスに安堵したトシェリーは、朝が来るまで寝台で過ごした。