歯車は、軋む
文字数 2,378文字
思うように集中できず苛立っていると、窓を叩く音が聞こえる。二階の窓を叩ける人物など、一人しかいない。怪訝に顔を上げると、元凶であるミノルが身を乗り出し上機嫌で手を振っていた。
トモハルは怒りに燃える瞳を逸らし、無視しようとした。昼は、ここまで怒りが湧き上がらなかった。恐らくは怒りよりも、アサギを護ることを脳が優先した為だろう。
しかし、今は違う。
裏でこそこそ、あのように卑劣な事をしたミノルを殴っても、罰はあたらないと思った。知られなければ、何をしてもよいだなんて間違っている。
「卑怯者」
苦虫を潰すような顔で本音を吐露したトモハルは、舌打ちをした。気安く話しかけるなと怒鳴りたいのを懸命に堪え、不機嫌さを剥き出しに仕方なく窓を開ける。
ピシャン、と冷たい音が響く。
「よ! 邪魔するぜっと!」
「何だよ、いきなり」
窓から、いつものようにミノルは乗り込んだ。トモハルの声が低いので、機嫌が悪いことに気づいたが、不思議そうに肩を竦めたものの立ち去ることなく床に座り込む。
「別に? 遊びに来ただけだけど」
「俺、忙しいんだけど。見ての通り」
「ボール磨いてるだけじゃねーか」
今の二人は火と油。
機嫌がよいので何事もおどけたように返事を返すミノルが腹立たしく、無視をする。口を開けば怒鳴り散らしてしまう、平常心を保とうと腹に決める。
訊きたいことは山ほどあったが、どこから問い詰めたらよいのか解らない。
「なぁ、トモハルってキスしたことあるか?」
勝手にベッドに横になったミノルは、逆なでする様なことを口にした。
手を止めたトモハルは、唇を噛締め挑むような視線で見つめる。しかし、ミノルは天井を見ていた。横顔からも解る、締まりのない口元で惚けている。
「あるわけないだろ。俺、
トモハルは単語を強調し、ぶっきらぼうに告げた。ボールを磨く手に、知らず力が籠もる。
「あ、そうだよな。だぁよなぁー」
浮ついたミノルを殴りたいのを、必死に堪える。単純なので、今日の出来事を自慢したいのだろう。トモハルは承知の上で、あえて切り返す。
「アサギとキスしたわけ? で、上機嫌なわけだ? へー、よかったね。あんな可愛い子とキス出来て。自慢もしたくなるよね」
親友は、どう答えるのか。トモハルは一か八かの賭けに出た。
「え、いや……」
真っ向から見つめたトモハルの視線から、ミノルは逃げた。想像通りの行動に、落胆する。疚しい事があるから、挙動不審。本人も、それを認めている。流石に『アサギではない少女とキスをした』とは言えないらしい、口籠ったまま俯いている。
つまり、浮気を認めているのだ。
「よくアサギにキスさせてもらえたよな」
嫌味を籠め、トモハルは蔑みながらに言い放った。
その言い方が勘に触ったミノルは、怪訝にトモハルを見つめた。引き攣った笑みを浮かべて、首を竦める。親友の機嫌が悪い原因が自分だと、全く思っていない。
「何怒ってんの、お前。俺が先にキスしたのが屈辱的とか?」
見当違いな発言に、トモハルの堪忍袋の緒が切れた。
「俺は確かに怒ってるけど、それとこれとは話が別。俺は誰ともキスしたことがないけど、屈辱なんて感じてない。だって、俺には好きな子がまだいないし。つまり、相手がいないからキス出来ない」
「言う割りに気にしてねーか、お前? 優等生のモテ男トモハル君、先に越されて劣等感ー、みたいな」
ダン!
トモハルが床を殴りつけた音に、ミノルの喉から声が微かに漏れた。怒りを露にした瞳と視線が交差すると、小刻みに身体を震わす。
「キスって、恋人同士がするもんだろ?」
「そりゃ……そうだけど」
ミノルには、一体何がトモハルの機嫌を損ねたのか見当もつかない。
空気が澱む中、すごすごとミノルは窓から部屋に戻った。これ以上いても、悪化するのが目に見えている。「じゃ」と、軽く告げて出ていく。
トモハルは、追及しなかった。
暫くして、ミノルの部屋から話し声が聞こえてきた。相手は憂美だろう、声が不自然に弾んでいる。
歯痒い、目撃したことをぶちまけてしまいたい。
けれど、幼馴染で親友だと思っている男は、二股する卑劣な男ではないと信じていた。
信じていたから、二股ではなく、アサギとは別れていたのだと思いたかった。
しかし、彼は目を泳がせた。あからさまに動揺した。
「何やってんだよ、ミノルッ!」
キィィィ、カトン。
何かが、音を立てた気がした。
家の前で、徒労感をたっぷりと浮かべていたアサギは意を決した。
トモハルが傍にいてくれたので、気が楽になった気がした。勇者になっていなければ、こうして寄り添うこともなかった相手だ。幼馴染のリョウや、親友のユキとは違う大事な友達の一人になった。
対の勇者として、というよりも、トモハルにはどこか懐かしさを感じている。懐かしさ、というよりも、欠けていた部分が補われたような感覚。
以前、本で『過去に繋がりがあった人とは、現世でも必ず出逢える』と読んだ。親密であればあるほど、身近に存在するという。
「ありがとう、トモハル」
気持ちを切り替えねばならない、なるべく家族には暗い表情を見せたくない。気が重いが、笑顔で振る舞う。
「おかえり、アサギ」
「ただいま! 夕飯はなぁに?」
「今日はゴーヤチャンプルーよ」
「やったー、ゴーヤ大好き!」
母の美味しい手料理が、胸に沁みる。そういえば、昼はメロンパンしか食べていない。しかし、想像以上に食事が喉を通らない。
「あら、具合が悪いの?」
「暑かったから、夏バテかも」
「気を付けるのよ」
夕飯を食べ終えると、療養中である