獣とその獲物
文字数 3,189文字
呼び出しもなく、アサギは自室で微睡んだ。
トモハルから『火災があった街に行ったけど、原因は分からなかった』と連絡が届く。そして『みんなが心配していたよ』とも。体調不良であることが、伝わっているらしい。離脱してしまったことを悔やみつつも、起き上がれない。『ありがとう』と御礼だけ伝えて深い眠りに落ちた。
翌朝は、驚くほどにすっきりしていた。普通に学校へ行き、トモハルたちに詳細を聞いた。
「結局無駄足だから、緊急事態以外は呼ばれないって。ただ、なんか気持ち悪いし、時間がある時はなるべく行こうと思う」
トモハルが告げると、ダイキが隣で神妙に頷く。
「あれ、ユキは?」
「そうか、アサギも知らなかったんだ。ユキ、休みなんだよ。風邪だって」
連絡は入っていないので、相当辛いのだろう。アサギは見舞いのメールを送った。トランシスのことを真っ先に話したかったが、急ぐことはない。そもそも、
授業が終わって家に帰っても、ユキからの返信はなかった。既読すらついていないので、眠っているのだろう。
「お母さん、キッチン借りるね!」
大急ぎで宿題を終えると、アサギはエプロンを装着した。
米を洗い炊飯器にセットしてから、フライパンを取り出す。馴れた手つきで卵を五個割り、調味料を入れてから割りほぐした。フライパンに油をひき、頃合いを見て少量の卵を流し入れると、ジュッと良い音がして美味そうな香りが部屋に充満する。
丁寧に焼き上げ、箸を使い上手に巻いていく。普段から作っているからこそ出来る、かなり整った形の卵焼きが完成した。
「うん、上手!」
匂いに釣られ弟達がやって来たので、あまりを食べさせる。笑顔で食べている様子に安堵し、ウィンナーを焼き始めた。さっと醤油で香ばしく仕上げる。
お弁当箱に卵焼きとウィンナー、そしてミニトマトと人参の蜂蜜煮を詰める。
そして、炊き上がったご飯を真剣に握る。海苔で包むと熱いご飯に熱され、磯の香りが漂う。中身は、ほどよい塩加減の焼き鮭。
「おでかけ?」
弟に訊かれたので、大きく頷く。
アサギは卵かけご飯を食べて空腹を満たすと、母に夕飯は要らないことを告げ大急ぎで家を飛び出した。行き先は天界城。トランシスに会う為には、一旦そこを経由しなければならない。
持ち物は、弁当箱と水筒。話を聞いていた限りでは、食料に困っているように思えた為だ。話題づくりにもなる。
「今日の服装、変じゃないかな」
家を飛び出してから立ち止まり、足先から見つめ顔を顰める。
「どうしよう、子供っぽい気がする」
学校へ行った服装のままで、ピンクベージュのサマーニットに、ベージュ色のミニスカート。色合い的にはシックだが、ニットにもスカートにもリボンやレースがついている。
憂美とミノルの一件から、どうしても服装に自信がない。ユキと買い物に行き、大人っぽいコーデを見立ててもらわねばと思っていたところだった。
トランシスの年齢を考えると、どうしても不安を覚える。あの惑星の少女らがどのような服装なのか知らないのに、自己不審に陥っていた。少しでも好く思われたい、その一心だ。
だが、着替えるにしてもすぐに思いつかないし、温かいうちにおにぎりを食べてもらいたかったので、意を決して走り出す。
天界城に来たならばクレロに挨拶すべきだと思ったが、時間が惜しかった。帰ってきたら必ず、と言い聞かせ、昨日と同じ部屋へ出向く。もしかしたらその場所にクレロもいるかもしれないと、期待を抱いて。
しかし、やはりいない。
罪悪感が湧き上がり、後ろめたさが心に影を落とす。けれども、自分でも驚くほどに行動的で、瞳を閉じ念じていた。
「あの惑星で、トランシスさんに逢いたい」
アサギの身体は、瞬時にそこから掻き消える。まるで、暫く逢えなかった恋人同士のようにトランシスに逢いたかった。
彼に逢うことが出来るのならば、それで構わない。
瞳を開くと、目の前には昨日見た風景が広がっていた。木の上ではなく、根元に立っている。風が頬を撫で、鼻腔を刺激する薬品の香りが鼻につく。軽く咳き込んだ。
間違いなく、望んだ場所へ辿り着いたようだ。胸を撫で下ろしたが、ここにトランシスはいない。振り返り木々を見つめると軽く会釈をし、歩き出す。
集落があると聞いているので、、そこに行けばどうにかなると思った。
荒野を歩き出すと、砂浜のような乾いた砂にスニーカーが埋もれる。身体が沈み、砂が靴に入って気持ちが悪い。
「アサギ!」
慣れない足場に戸惑っていると、名を呼ばれた。ここで自分を知っている人物など、一人しかいない。アサギは嬉しそうに声の主を見つめ、自然と笑顔を浮かべる。トランシスが手を振りながら走ってきたので、手を伸ばす。
「こ、こんにちは」
「遅いよ、待ってたのに」
「ごめんなさい、その、学校があって」
「ふーん? ま、こうして来てくれたからいいケド」
「ありがとうございます」
「予感がしたから、見に来た。オレ、凄いだろ?」
「はい! その、……嬉しいです」
照れながら伸ばした手を、トランシスはしっかりと掴んだ。そっと引き寄せ、爽やかに笑う。
「当然! オレ、アサギの彼氏だろ」
「は、はいっ」
赤面し、アサギは俯いた。嬉しくて口元が震える、もどかしくて胸がざわめいている。
「行こうか」
軽く笑い、トランシスは手を握り締め歩き出した。
その手のぬくもりが嬉しくて、大きな手を見つめながら歩き出すアサギだが、どうしても歩き難い。
それに気づき、トランシスは足元を見比べる。砂が侵入できないブーツを履いていることもあるが、歩き慣れている。苦戦しているアサギの頭を撫でると、そのまま軽々と抱き上げた。
「きゃあっ」
「いいよ、連れて行ってあげる。それにしてもアサギは軽いなぁ。軽過ぎて、いるのかいないのか分からなくなる」
「お、下ろしてくださいっ。その、自分で歩きます」
「大人しくしてなよ、こっちのほうが速い」
至近距離で覗き込まれ、アサギは慌てて視線を外らした。昨日口づけを幾度も交わした仲とはいえ、まだ慣れない。耳まで真っ赤にし、小声で礼を述べる。
「は、はい。あ、ありがとうございま、す」
「ふふ、素直で可愛い。オレ、好きだなぁ。そういう従順なトコ」
「は、はぁう」
素直で、可愛い。
オレ、好き。
従順なトコ。
アサギは何度も心の中でその言葉を反芻した。そっとトランシスを盗み見ると、間入れず目が合う。
「見惚れちゃった?」
驚いて仰け反ったアサギに、悪戯っぽくトランシスは舌を出す。
返答に困り、アサギは視線を外してから小声で呟いた。
「か、かっこいい、です……。だから、その、恥ずかしいです」
震えて告げるアサギに豪快に笑い出すと、トランシスは上機嫌で歩き出す。
「いやー、可愛い可愛い、すんごく可愛い。めっちゃオレ好み! いいよいいよ、もうオレすげぇ好きかも」
「っ!」
もうオレすげぇ好き。
脳内で彼の言葉が幾度も響く。アサギは胸を突くような羞恥心と喜びに耐えられなくなり、トランシスに寄りかかった。控えめだが衣服を握り締め、胸に頬を寄せる。
そんな様子を上から見ていたトランシスも、身体中を何かが這いまわって快楽を与えてくる感覚に陥った。もどかしい、今すぐにでもこの腕の中にいる小さくて愛らしい存在を。
「めちゃくちゃにしたい。思う存分、好きなだけ」
はっきりと、そう口にする。
トランシスの顔に引きつった笑みが浮かんでいる。血走った瞳でアサギを食い入るように見つめ、舌なめずりをした。
けれども、アサギは先程から告げられる言葉に舞い上がり、邪悪な笑みに気づけない。