そして騎士は勇者となり
文字数 6,061文字
床に散乱しているワインボトルは、全て空。
「うーん……」
頭に鈍い痛みを感じ、しかめっ面をして呻く。マビルは本来、酒は嗜む程度で、強いわけではない。好きなわけでもないが、止めらなくて呑んでしまった。
内側から鈍器で殴られているような痛みは、寝てみたところで治らなかった。
「痛い、痛い、痛い、痛いっ、誰かっ、痛いのっ!」
シーツを被って鋭く悲鳴を上げた、だが、誰も助けに来ない。当然だ、ここにはマビルしかいないのだから。
静まり返る空気が胸に突き刺さり、瞳の端に涙が浮かんだ。
……こんな時、あったかい牛乳が飲めたらな。甘くて、美味しいやつ。
それから、頭を撫でて、傍にいて。……唇を動かし、涙を指で拭って溜息を吐く。
腕を伸ばし、宙を掴む。当然掴めるものなどなく、力なく腕は下がる。孤独で陰鬱な室内で、啜り泣いた。
『大丈夫、必ず、必ず傍にいるよ』
「嘘つき、……アンタ、いないじゃない」
『待っていて、必ず逢いに行く。俺は、逢いに行くからね。その為に、俺は今ここに来ているんだ。世界を救うのではなくて、俺は』
馬車に揺られながら、トモハルははっとして顔を上げた。何かを探すように宙を見て視線を動かし、唇を噛み締める。
それを間近で見ていたミノルは、眉を顰めて訝しむ。
「どうした?」
「……泣いてる。俺、早く行かなきゃ」
「は?」
トモハルは、形の良い唇を動かした。
音など聞き取れず、ミノルには何を言ったのか解らなかった。けれども、心の何処かで納得している自分がいた。「あぁ、アイツの名前を呼んだのか」と。“アイツ”、が誰かも解らない。けれども、記憶の片隅に残っている強烈な過去の惨事は、まるで癒えない傷の様に二人の中で身を潜めている。
騎士は、勇者になり、姫を救わねばならない。
「今回は、救えるよ。お前なら」
ミノルはそう告げて、瞳を閉じた。
惑星クレオ、その赤道付近に位置するロシファーザ島。
長く煌びやかな銀髪を風に遊ばせながら、魔王の一人が降り立つ。珍しい事ではない、彼は頻繁にこの地を訪れていた。何故ならばこの島には、魔王アレクが唯一心を許すことが出来る最愛の恋人がいるからである。
微かに頬を赤く染めながら、普段の青白い顔色は何処へやら健康的な赤みを帯びてアレクは駆け足で恋人を捜していた。平素とは全く雰囲気が異なり、別人のようだ。魔族らが見たら、度肝を抜かすだろう。
恐らくこの姿が、本来の彼だろう。
「ロシファ、ロシファ! 私だ、何処に居るんだい?」
城内では走る事などないアレクだが、この自然溢れる森の中をひらりひらり、と蝶のように軽やかに恋人を求めて走り回る。その度に美しい髪は、空気に溶ける様にさらさらと舞う。
木々に囲まれた緑の中で、親子鹿がアレクの緋色のマントを咥えると引っ張り始めた。この地は動物達の警戒心がない、アレクにも慣れていた。執拗に自分を引っ張る小鹿を撫でると、視線を合わせるように屈みこみ、澄んだ瞳を覗き込む。
「ロシファが何処に居るのか……知っているのかい?」
優しく囁けば、嬉しそうに小鹿は軽くその場で飛び跳ね、マントを放し駆け出した。本当に居場所を知っているようだ、案内してくれるのだろう。
仲良く駆け出した親子鹿を薄っすらと笑みを浮かべて見つめていたアレクは、小さく溜息を吐いた。ゆっくりと立ち上がると鹿達の後に続いて、静かに歩き出す。昨日雨が降ったのだろう、土壌が水を含んでいて歩けば僅かに身体が沈んだ。
向かう方角には湖がある、二人が出逢った最初の場所だ。
懐かしそうにアレクは手の平を翳して空を見上げた、眩しい太陽が痛いほどに照り付けている。暑さから逃れる為に水遊びでもしているのだろう、炎天下で空気はかなり熱されていた。森林の中を空気を肺に一杯吸い込みながら、先程とはうって変わってのんびりと足を進める。
というのも、水浴びをしている場合、彼女は裸体である可能性が高い。
そうなると、非常に気まずい。恋人なのだが、奥手のアレクはまだロシファの裸体を見たことがなかった。長年寄り添っている為、奥手にもほどがあるが、こういった性分なので仕方がない。
咳を一つする、不意に目をやった木の根本に小さいながらも可憐に咲く薄紫の花に気付いた。自然と口元が綻んだ、じっと見つめ続けていると風が緩やかに吹く。花の名前は解らないが、風に揺られてふわふわとしている様は何か言葉を発している様だった。
「こんにちは、アレク様。……ですって」
湖の方角から、鈴の鳴る様な声が耳に届いた。我に返り、アレクは満面の笑みを浮かべる。
神々しい金の柔らかな髪、緑青色した神秘的な光を放つ瞳の少女が、先程の親子鹿と共に立っていた。
少女の姿を瞳に入れた瞬間、アレクは大声で叫んでいた。
「ロシファ!」
ばねのように駆け出すと、勢いでロシファを抱き締め、身体を持ち上げる。その場で何度も回転すると、ロシファは驚いて小さく叫んだ。しかし、嫌ではない。可笑しそうに頬を緩ませ、為すがままにされている。
太陽の様に明るく眩しいロシファの笑顔を見られるだけで、アレクは心の底から幸福を実感し、大声で笑う。
感情豊かなアレクなど、ロシファ以外はお目にかかれない。
魔界イヴァンでは、ほぼ無表情で口数少ない魔王アレクなのだが、こちらが素だ。本当ならば魔王などという面倒事など放棄して、こちらに移り住みたかった。
二人は一頻り回転すると、そのまま地面に転がって笑い続ける。気づけば、小鳥や兎が近寄って来て二人を見守っていた。
笑いながら一つに束ねてあるロシファの髪に、そっと指を通していたアレクは、ようやく気持ち良さそうに大きく伸びをすると起き上がる。ロシファの身体を支えて起き上がらせると、二人は手を取り合って小屋へと向かった。
「可愛らしいでしょう、さっきのお花さん。大木の陰であっても僅かな光を探して求めて、強かに美しく咲き誇るのよね」
「あぁ、とても可愛らしい。……でも、私はロシファの美しさのほうが勝っていると思う」
真顔のアレクに、盛大にロシファは吹き出した。
怪訝そうに見つめているアレクに、ロシファは赤らんだ頬を隠すようにして手を強く握るとそのまま全速力で駆け出す。
力強く引っ張られ、顔を引き攣らせたアレクだが肩を竦めると諦めて共に駆け出した。その後ろには動物達が続き、随分と穏やかな光景だ。とても、異世界から勇者を召喚する元凶の魔王とは思えない。
ロシファは、魔族とエルフの混血である。注意深く見つめないと解らないが、瞳を覗き込めば魔族独特の鋭い眼光が見え隠れしている。父親が、魔族の貴族。母親が、エルフの姫君。
多くの混血は敬遠や迫害を受けるが、ロシファの場合は違っていた。魔族との混血であろうとも、姫は姫であり正統な後継者。エルフ達はそれを受け入れた。
そして姫である彼女は、現魔王アレクの良き理解者であり、恋人である。
父親が魔族のロシファにとって、魔王であろうと初対面からアレクに対して何の畏怖の念も抱かなかった。最も、父親の記憶など無きに等しいのだが。両親は物心つく前に亡くなっており、周囲から話を聴いただけだった。
快活で健康的なロシファは、常に無邪気に走り回っている幼子のまま成長した。美しい滑らかな髪は腰まであるのだが、行動の邪魔になるので毎日一つに結んでいる。ドレスなどは一切着用せずに、自分で織った布で衣服を作り上げて着用している為、見た目は質素だ。着飾る必要はない、この島にはロシファともう一人のエルフしか住んでいないのだから。
無人島に見せかけた、最後の楽園。
他のエルフらは、息を潜めてひっそりと各地に散らばっている。里を持つことは、危険だった。
二人は息を切らせて家の中に入ると、大きな音を立ててドアを閉め、顔を見合わせ深呼吸する。流石に疲れたらしく、力なくロシファはドアにもたれて床にへたり込む。
「あらあら……これはこれはアレク様。姫様に付き合って、一体何処から走ってこられたのですか? 本当に申し訳ありませんね。ロシファ様、皆が皆、貴女様ほど元気ではないのですから巻き込んではいけませんよ」
大袈裟に落胆しながら奥から出てきたふくよかな女性は、ロシファの乳母である。もう一人の島の住人だ。
唇を尖らせながら、ロシファは反論した。
「あら、平気よ。アレクはこれくらいで丁度良いの。普段運動なんてしないんだもの、体力がないから私がつけてあげているのよ」
アレクに悪戯っぽく目配せし、乳母に茶の用意を促す。愛用の簡素な木の椅子に深く腰掛けると、突っ立っているアレクを隣に強引に座らせた。
これは、アレク専用の椅子だ。稀にしか来ないが用意されている。
机に肘をついて笑いながら歌っている様を、アレクは眩しそうに瞳を細めて見つめていた。
「行儀が悪いですよ、姫様」
苦笑いで茶を運んできた乳母に、知らん振りしてロシファは並べられた焼き菓子に手を伸ばす。
ロシファは、無邪気で気品振った様子もなく非常に親しみ易い。しかし、気高さも持ち合わせており、無防備に見えて冷静だ。精神は、下手したら魔王アレクよりも強い。
混血、という特殊な状態であれ、皆と上手く生活していたのはロシファの真っ直ぐな性格ゆえであろうし、受け入れた仲間達も心が澄んでいるのだろう。現在は、皆とは共に居ないが、それもロシファの考えあってのことだった。
アレクは、そんな彼女に惹かれた。ロシファの美しさも目を見張るものがあるのだが、それよりも性格である。
「さぁさ、召し上がれ。摘み立てのレモンバーム茶ですよ」
温かなカップに入れられた新鮮な香りのする茶を大きく吸い込み香りを堪能すると、ロシファは熱そうに啜り出す。口内を潤し、夢中で焼き菓子を頬張りだす。
そんなロシファの額を軽く小突き、乳母は大袈裟に肩を竦めて部屋を出て行いった。顔には軽く、笑顔を浮かんでいた。
ロシファがこうしてはしゃいでいるのは、隣にアレクがいるからだということを乳母とて了承している。溢れ出る幸せそうな様子に、乳母は室内を後にして、隣の部屋で爆笑した。なんのかんの言ったところで、姫であれども所詮は娘。愛しい男が来れば、心躍る。素直に行動に出てしまう可愛らしさが、乳母は嬉しかった。血は繋がっていないが、本当の娘のように思っていた。
乳母の豪快な笑い声にアレクはカップの中身を零しそうになり、ロシファも喉に焼き菓子を詰まらせそうになった。
首を竦めつつ、咽つつ、ロシファはげんなりと乳母の出て行ったドアを見つめる。
「んもう、本当に元気が余っているんだから」
ねぇ? と、アレクの同意を求めつつ覗き込んできたロシファに、アレクは瞬きしてしれっと、返答する。
「誰かさんと一緒だよ」
にっこりと笑い、唖然としているロシファの肩を叩きながらアレクは優雅に茶を口に含む。
そんなアレクの態度に唇を尖らせ、菓子皿を引き寄せると一人で食べ始める。じとり、と横目で軽く睨みながら、挑発的な態度で口を動かした。
そんな子供らしい拗ね方に笑いを堪えるアレクだが、堪え切れずに小さく肩を震わせた。全てが、愛おしい娘だ。ハイも今、アサギに対して同じ様な気持ちを抱いているのだろう。見ていれば解る、あれは恋をしたものにしか解らない、胸を揺さ振る、暖かな心地良さを体感している顔だ。
「まぁ、私のほうが情熱的ではあるけれど」
無意味にハイに対抗するアレクは、勝ち誇ったように口角を上げる。
その独り言に、ロシファが顔を上げ瞳を細めて軽く睨み付けた。
気にせず、口内に広がるレモンバームの清涼感を楽しみながら、アレクは瞳を閉じて静かに頷く。
「美味しい」
自然と口から漏れた言葉だ、魔界でも多々美味なものを口に運ぶが、やはりこの場所は格別である。恐らく、同じものを口にしても隣にロシファがいるかいないかで味は変化するだろう。
ロシファは頬を紅潮させて勢い良く立ち上がり、上機嫌で飲み干した。
「でしょう? 植物も誰かの口に入るのならば美味しいと笑顔で言ってもらえるように努力しているのよね。生きているものは、みんなそう。誰かに喜ばれる為に、幸せになってもらう為に……生きているの。特に、愛する人を笑顔にする為に、心を解きほぐす為に」
徐々に小さくなっていくロシファの声と、徐々にアレクに近づける顏。熱っぽい視線を投げかけていたが、徐々に瞳が閉じていく。
咳を一つし、誰も部屋にはいないが、アレクは周囲を見渡して頬を赤く染めた。身じろぎながらも、ゆっくりと唇を近づける。
触れるか、触れないか。
アレクは直様照れた顔を隠すように、すぐにカップを唇に押付けた。カッカと身体中が火照る。
不服だとばかりにロシファは頬を膨らまし、妙に落ち着きのないアレクの様子を一瞥する。
「ほんっとに、奥手ねアレク。赤ちゃんの顔、見られないのは嫌よ私」
大きな溜息を吐き出し、ロシファは髪を指で弄びながら天井を見上げる。
暫しアレクは考え込んでいたが、数分後ようやく意味を悟った。硬直し、テーブルクロスを見つめ続ける。
ロシファは、更に大袈裟に溜息を吐いて落胆した。意味は理解できたようだが、純粋にもほどがあるし、これでは自分が襲うしかなくなってしまう。
話題を変える為、アレクはそそくさとロシファの視線から逃れる為に立ち上がると窓際に移動した。外を見つめながら、再び咳を一つする。
「そ、そうだロシファ」
「何よ」
機嫌を損ねてしまったようだ、声に怒気が含まれている。
アレクはガラスに映るロシファを見つめつつ、頭を掻いた。大胆なロシファに、身が縮こまる思いで接している。自分なりにけじめがあった、今のままではとてもロシファに求婚し、御子をもうけることなど出来ない。
「勇者が来たんだ、魔界に。ハイが連れてきて、それは、思いの外可愛らしい小さな女の子で。……彼女となら、上手くやれそうな気がするよ」
「え? なんですって? ……勇者?」
呆気にとられたロシファが立ち上がった、開いた口が塞がらない。何故、そんな重要な事を今頃になって言うのか。真っ先に言うべきだったのではないのか。ロシファは逸る胸を押さえつつ、震える腕を必死に堪えて擦れた声で恋人に問いかけた。
魔王である恋人に、問いかけた。
「セントラヴァーズ、そしてセントガーディアン。……その勇者は、一体どちらの所持者なの?」
普段の彼女からは想像もつかない怜悧な視線で、刺すようにロシファは目の前のアレクに、問う。