歪んだ恋人
文字数 4,307文字
「空気は前の場所のほうが美味しいね」
アサギの自宅庭に設置された、異世界とを繋ぐ陣。
陣が崩れると大惨事を引き起こすので、両親に頼み込んで屋根をつけてもらった。そのうち陣を中心に小屋を建ててもらう予定だ。日曜大工が趣味な父は喜んで引き受けてくれた。天界城、もしくはディアスへ直接行き来できる。
「それにしても、不思議だなぁ。何処へでも行けて便利」
「すごいよね」
未だに信じられないが、これは現実だ。改めてアサギも感心した。
二人は仲良くバスに乗って動物園に出掛ける。
トランシスは動く車体に大して驚かず、やはり現代寄りの異世界に住む人なのだとアサギは改めて認識した。
「ここが動物園だよ!」
「ほほー……」
退屈だろうと思っていたトランシスだが、初めて見る愛らしい生き物達に興味を示した。
目を輝かせて歩き続けるので、アサギも嬉しくなる。時折餌を買い与えながら、手を繋いで広大な園内を回った。疲れたらジュースを一本買い、二人で飲む。自販機を初めて見たトランシスは「すげー、これ欲しい!」を連呼した。
昼はトランシスがハンバーガーで、アサギはフランクフルト。それと二人でフライドポテトを食べる。混んでいたが席には座れたので、眩しい青天の下ではしゃぐことが出来た。
漫画で見てきたような素敵なデートに、アサギは酔いしれる。嬉しくて仕方がない。愉しくて、時間が過ぎていくのが疎ましい。
しかし、時は待ってくれない。無情にも太陽は傾いていくので、閉園ギリギリまで楽しんだ。
「あっ、プリクラ!」
「ぷりくら?」
アサギは園内に設置されていた少し旧式の写真シール印刷機を発見すると、大急ぎで近寄る。そして、訝るトランシスをどうにか筐体に押し込んだ。
「な、なんだこれ……」
狭い個室で密着する羽目になりドギマギと焦るトランシスは無視して、アサギは慣れた手つきで操作し念願のプリクラを手にする。
「ほら、見て!」
「うぉ、すっげ! オレとアサギだ!」
一番大きなサイズで印刷をかけた。
「オレも欲しい」
「うん、半分こ!」
恋人は地球の人ではないが、同じように愉しめる。アサギはすっかり浮足立ち、仲睦まじく映っている二人を見つめる。些細なことかもしれないが、感無量だ。
「嬉しいな……」
「面白かったから、またやりたい。どう操作するのか教えてよ」
「うん! 見つけたら撮っていきたいな」
「二人の宝物だ」
「宝物! ふふっ、幸せ」
手帳にするか、日記にするか。貼る場所を考えるだけでも楽しくて、アサギは始終頬を緩ませる。
辺りは陽が落ち薄暗く、腹が鳴り始めた。
夕飯はどうすべきかとアサギは悩んだ。家に戻って一緒に食べるのが一番安心だが、両親にトランシスのことを話していない。手を繋ぎながらバスに乗り、途方に暮れる。しかし、地球で外食をすると、あっという間に小遣いが無くなってしまう。
「うーん……」
財布の中身を見て溜息をつく。二人分を出すことなど今までなかったので、今後の事を考えると憂鬱になる。貯金はあるが、崩したくはない。しかし、小学生ではバイトが出来ない。
けれども、一緒にご飯を食べたい。
「あっ!」
何故忘れていたのだろうと、瞳を輝かせる。惑星クレオに行けば、地球と違い自由に使える所持金があったことを思い出した。
ディアスの勇者秘密基地内。自室に、アリナから受け取った資金がある。惑星クレオで夕食をとり、可能なまでトランシスと過ごそうと決めた。
母親に夕飯はいらないと連絡すると、すぐに『OK』と返事が届いた。
「トランシス、ご飯を食べに行こう! きっと、とても美味しいよ」
急に明るくなったアサギにトランシスは戸惑ったが、笑顔を見るのは好きだったので頷く。
バスから降り、結局は自宅に戻る羽目になるが仕方がない。二人は転送陣から惑星クレオへと飛んだ。
「……あら?」
庭でアサギの姿を見かけた気がして、縁側から何度か瞬きした母親は不思議な陣を見つめ肩を竦める。娘の話を真剣に受け止めている母だが、そんな夢のような装置の事を信じてはいなかった。
だが、本物のようだ。特に仰天した様子もなく、夕飯の支度を始める。順応能力が優れていた。
アサギは早速アリナから受け取った金を所持し、街へ出向いた。
「あっ、勇者様だ!」
「おお、あの子が!」
「初めて見たよ、ありがたや、ありがたや」
勇者らが街に来たことは、すでに広まっていた。しかも、アサギの容姿は目立つ。端正な顔立ちもだが、地球の衣装だと余計に人目を惹いてしまう。
そもそも顔を知らなくても、“緑の髪と瞳”そして見慣れぬ服装だけで勇者だと分かってしまうのだ。
顰めき合う人々に、トランシスの機嫌が一気に悪くなった。
「何これ。アサギ、すげー人気」
舌打ちし、軽く後ろを振り返ると睨み付ける。しかし、彼らに悪気はないので怒鳴れない。
二人は近場の店へ入った。物珍しさからついてきた何人かは雪崩れ込む様に入って来てしまったが、一応人数は減った。
二人は隅のひっそりとした場所に腰掛けると、一息つく。美味そうな匂いが充満していたので、少しだけ気分が高揚する。
「何が食べたい?」
「アサギが食べたい物でいいよ、オレはよく分からないし」
アサギにも知らないものが多いが、店員と会話しつつ幾つか注文した。
「そうだ、酒が呑みたい」
「お酒……」
アサギには全く分からないので、店員に任せマスカットのワインを注文した。
口に含んだトランシスは、先程の不愉快な気分はどこへやら一転して爽快な気分になる。
「美味かった! でもオレは、アサギの手料理が好きだな」
たらふく食べ、膨らんだ腹を満足そうに擦りながらトランシスは上機嫌で語った。微笑まれ、アサギは照れて俯く。
そこに数時間居座って話をしていたが、ここで寝る事は出来ない。まだ別れの時間ではないので、トランシスの部屋に戻ることになった。
いちいち天界城を経由しないとトランシスの惑星まで辿り着けないのが癪だが、文句は言ってられない。
帰り際、街の人々はアサギに一斉に礼をした。何故ここまで知られてしまったのか謎だが、恐らく原因はアリナだろう。特に何をしたわけでもないので後ろめたいが、はにかんで頭を下げた。
そんなアサギを横目で見ていたトランシスは胸の辺りが靄がかり、釈然としない思いを感じている。
……この世界で、二人きりにはなれないんだ。
漠然とそう思った。二人でいたはずなのに、いつしか二人ではなくなってしまった。独占していた筈なのに、出来ていなかった。アサギは恋人だが皆の勇者、それは解っているが気に入らない。
……嫌だ。
アサギと手を繋いでいるのに、その温もりが消えていく気がした。行かないで欲しい、手放したくないのに空気の様にすり抜けてしまう。
部屋に戻り、歩き疲れた足をベッドに二人して投げ出す。
「愉しかったね」
無邪気に笑うアサギの髪を撫でながら、トランシスは何処か遠くを見つめる。
キィィィ、ゴトン、トン。
立ち上がったトランシスを見送って、アサギは一息つくとふくらはぎを揉み始める。楽し過ぎて、はしゃいでしまった。だが、疲れていても楽しい。ただ、もうすぐそれが終わるので寂しい。忙しなく移り行く心に戸惑いつつも、これが恋なのかと実感する。
けれど、戻ってきたトランシスを見上げ瞬きを忘れるほどに硬直する。
彼の手には、煌めく小刀が握られていた。研ぎ澄まされ残忍そうに輝くそれに、アサギの青白い顔が映る。
低く笑いながら瞳を細め、ゆっくりと近寄るトランシスはそんなアサギを愛おしく見つめていた。
「怖がらなくてもいいよ。大丈夫、痛くないから」
果物ナイフだろうか、何か食べさせてくれるのだろうか。そう思ったが、そんなものこの部屋にありはしない。
「ぁ、の?」
異常な雰囲気を察知した、先程までのトランシスとは違う気がする。アサギの背に壁がぶつかる、自然と後退していたらしい。これ以上ベッドの上では逃げられない、追い詰められ逃げ場を失った。
最初から逃げられるわけがなかった。ここは、トランシスの部屋だ。
震えているアサギを不思議そうに見下ろしたトランシスは、右手を優しく掴むと引き寄せる。その表情は柔らかだが、刃をこれみよがしにちらつかせていた。
それが余計に怖くて、アサギは喉を鳴らす。
「アサギなら、傷ついても魔法で治せるだろ? 回復魔法っていうの? それ、見てみたいな」
トランシスは普段の口調で、爽やかにそう言う。一瞬遅れて何をされるのか理解し、悲鳴を上げたアサギの親指に刃をあてがうと、無造作にそのまま力強く引いた。
「い、いたっ」
痛みが鈍く指先に走った。じんわりと吹き出した真っ赤な鮮血が、指を伝う。
大きく震え、恐怖に泣き出したアサギに目を向けず、湧き出るそれを唖然と見つめていたトランシスは舌なめずりをしている。
ジワジワと切り口から痛みが広がる。何故斬られたのか解らないアサギは、ひどく混乱していた。掌に血が垂れるが、そこから先は汚れなかった。
花の蜜でも掬い取る様に、嬉しそうにトランシスが血を舐め始めたからだ。
「ぁあ、堪んないね」
舌の先端に血が触れた途端、トランシスが恍惚の笑みを浮かべる。垂れてくる血を器用に舌先で舐めとり、傷口まで上りつめると指を咥えて傷口をこじ開けるように夢中で吸う。
『アサギの血って、美味しいよね』
指を貪っている姿を見て、アサギはそう言われた事を思い出した。回復魔法が見たいとも言っていたが、まさか傷つけられるとは思いもよらなかった。
ジンジンと痺れを伴い甘く歯がゆく痛む指先に、アサギは声を出すことを忘れた。脳を揺さぶられた衝撃が驚きすぎて、悲鳴さえも喉から出てこない。激痛よりも目の前の恋人の行動が狂気染みていて、思考回路が停止する。どのみち、声を出しても誰も助けに来ない。
ここは彼の家だ。地下のこの小さな部屋には、二人しかいない。
不意に顔を上げたトランシスと、視線が交差する。真っ赤に染まった舌を覗かせて、満足そうに微笑んでいた。
「ここを斬れば結構血が出るんだねぇ、コップ一杯分にはなるかな?」
左手に頬ずりされながらそう言われたら、嫌な汗が身体中から吹き出した。冗談ではなく、本気だと確信した。
「っ!?」
思った通り血の出が悪くなった右手をそっと下ろし、トランシスはアサギの左手にも刃を添える。
そこでアサギは耐え切れず、意識を手放した。