外伝4『月影の晩に』35:欲した女

文字数 5,137文字

 一瞬だけ、圧縮された沈黙がその場を包んだ。
 ベルガーの声に弾かれて、トレベレスはアイラを見つめた。アイラはこちらを見たまま、苦しそうに口元を押さえている。
 ようやく、二人の視線が交差する。咳き込み始めたアイラを、トレベレスは優しく抱き締めた。迸る感情の赴くままに強く抱き締めたかったが、身重だと分かり、硝子細工を扱うように優しく包み込む。互いの体温が感じる程度に触れ、優しく背中を擦る。そっとアイラの腹に手を当てたトレベレスは、感極まって涙が込み上げてきた。アイラが身篭っていたとしても、不思議ではない。毎日、日中夜問わず愛していたのだから必然だ。
 不思議そうに見つめて来るアイラの目の前で、トレベレスの顔に徐々に赤みが戻る。

「アイラっ……」

 トレベレスは、感涙に咽ぶ。
 恥ずかしげもなく男泣きするその姿に、アイラは胸に熱いものが込み上げるのを感じた。そっと頬に触れて、柔らかく撫で擦る。
 その手に自分の手を重ねると、トレベレスは嬉々として、満ち足りた表情で語り出す。

「オレとアイラの子、産んでもらえるな? 大事に二人で育てよう、愛し合って育てよう。息子だろうか、娘だろうか。名前はどうする? オレはアイラに似た娘が欲しいが、オレに似た息子も欲しい。……あぁそうか、何人か子供を作ればいいのか。多くの子供に囲まれて生きていこう」

 自分とアイラの子が、腹に。アイラを抱き上げて宙に掲げ、呆然としているその頬に口づけたトレベレスは、優しく右手を腹に添えた。その箇所を温めるように、慈しむように撫でながら震える声で耳元で囁く。

「解るか? ここに……アイラの腹には、オレ達の子が存在する」
「……そうなの、ですか?」
 
 アイラは、子がどうして出来るか知らなかった。何故、そうなったのかまだ判っていなかった。
 上擦った声で多少怯えながら告げたアイラに深く頷いたトレベレスは、慈しみながら髪を撫でる。

「気分が悪いのは風邪ではない、悪阻だ。身体を温め、大事にしないとな! 栄養をたくさん摂取し、ゆっくり過ごそう」

 うっとりと語り出すトレベレスに、周囲は物の怪でも見るように脅え、徐々に後退していく。彼らは真相を知らない、アイラの腹の子が“破滅”の子だと思い込んでいる。
 そんな中で、ベルガーは表情一つ変えず二人を見つめていた。


 トレベレスの柔らかな表情は、子を護る父親の顔だった。
 そんな様子に、家臣達は臆面を浮かべて狼狽する。あのトレベレスが他人の為に涙を零し、至福に包まれている光景など異様だ。
 トレベレス本人も、自身に込み上げる感情に驚いていた。子供など、煩わしいだけだと思っていた。何れは跡取りが必要だが、当面は自分が国を仕切るので不要だと思っていた。それでも、繁栄の子が産まれるのであればとマロー姫に目をつけた。
 しかし今は違う、アイラと自分の子が存在するという事実が心の底から喜ばしい。愛しいアイラ、彼女を独占出来る喜びなのか、ついに手に入れたという征服感なのか。薔薇色に輝く未来があるのだと、トレベレスは思った。信じた。

 キィィ、カトン……。

 遠くで、何かの音が聞こえる。それを、無視した。
 困惑したまま自分の腹を擦っているアイラを優しく見つめ、髪に何度も口付けながらトレベレスは震える身体を必死で押さえる。誰かが耳元で囁いた、『よくやった』と。

『ようやく、手に入れた』
『真っ先に、手に入れた』
『今度こそ、手に入れた』
『願いは、成就された』

 ひたすら、心中で叫び続ける。何が嬉しいのか解らなくなりそうな感覚に陥るほどに、感極まっていた。目の前の美しい娘は、曇りのない瞳で自分を見つめている。艶やかな唇は、今後も名前を呼んでくれるだろう。腕の中にある温もりは、現実だった。欲してやまなかったものが、ついに手に入った。産まれる前から待ち望んでいたことのようで、声高らかに叫びたかった。『オレのものだ!』と。
 子が存在すれば、自分の子を置いてアイラは逃げたりしないだろう。自分の描いていた未来が、すぐ傍まで来ていることにトレベレスは気付き、発狂しそうな程脳内が沸騰した。誰にも邪魔をさせない、アイラは決して手放さない。至高の歓びを実感し、描き続けた未来を掴むまでは。
 他の問題さえ片付けば、もう、何も恐れる事はない。

「トレベレス殿、お子は一人ではないわけだが? そのように話されても鼻白むだけ」

 冷めた口調のベルガーに、静かに顔を向ける。アイラを執拗に護りながら、嫌味な男を好戦的に睨みつける。抜本的な解決を目指すには、まずベルガーを黙らせる事だ。腕を組み仁王立ちしている姿に、心底怒りが湧いてくる。あの、高圧的な態度が“昔から”気に食わなかった。
 二人の間に緊迫感が漂う、これは紛れもない殺気だ。
 槍を硬く握り直したベルガーに、焦燥感に駆られた兵が小声で「経過観察すればよいのです」と進言した。しかし、無表情で彼を殴り倒す。繁栄と破滅の子がこの場所にいるならば、都合が良い。ベルガーとて、それが最善だと思っていた。願ってもいない事だ、これで女王の予言が真か否か判明する。

「いや、矛盾するか。火の国フリューゲルはどうなる? 破滅か、繁栄か。先に生まれるのは繁栄の子だ」

 父親は同じ。姉の破滅の子が勝るのか、妹の繁栄の子が勝るのか。それとも、相殺されてしまうのか。
 だがこの場の皆は知らない、その予言は逆だ。真実を知っているトライとリュイは、この場にいない。
 ベルガーの極度に感情を押し殺した声に、皆は息を飲む。緊迫した空気が震え、今更ながらに、土の国を治めていた偉大な魔女の言葉に秘められた恐るべき魔力に脅えてしまう。未曽有の危機が迫りくる、彼らは歯を鳴らす程に震えた。
 
「国は捨てる! オレはアイラと子供達と暮らすことに決めた。……誓え、アイラ。オレと共に来い」

 トレベレスの目的は単純明快だ、アイラが傍に居れば良い。茫然としていたアイラに、軽くではなく深く口付けた。

「こ、このような場所でっ、お、お止めくださいっ」

 アイラからは、平素通りに喘ぎ声が漏れた。人前での口付けは恥ずかしいと何度も拒んだが、トレベレスはお構いなしだ。軽く頬染めて微かな抵抗を見せるアイラが愛おしくて、やめる気など全くない。挑戦的にベルガーを見やり、わざとらしく見せ付けるように唇を吸い上げる。
 瞬間、ベルガーの眉がピクリと動いた。
 目前で口付けを交わしている二人を見ていると、何故か胸が痛いことに気付いたベルガーは額を押さえる。頭痛も始まった、非常に不愉快な気分だった。耳障りな音が、何処からか聞こえてくる。
 口付けを続ける二人を見据えると、苦しさが皺となって表情に表れた。
 眩暈、周囲の喧騒が消えて漆黒に包まれる。

 大木の木陰に、緑の髪の少女が座っていた。自分を見つけると、嬉しそうに立ち上がり駆け寄ってくる。彼女の胸元で、紅玉のネックレスが光に反射し揺れていた。媚びのない笑顔、自分を慕ってくれている彼女の笑顔。しかし、その笑顔に“恋愛感情”は含まれていなかった。錯覚していた、心からの彼女の言葉を自意識過剰だった自分は履き違えた。
 あの時、彼女が見ていた先にいた男は、自分ではなく紅玉のネックレスを贈った男。炎を司る、まだ青二才の男。その男は彼女の視線と心を独占していた、彼女の想いは揺ぎ無いものだった。

「……紫銀の、短髪……の」

 ベルガーの身体が硬直する。口走った言葉に、身体を引き攣らせる。幻影の男が、自分を猛毒の様な殺気立った瞳でこちらを睨みつけている。何処かで見た瞳だと思った、幾度か瞬きをすると、目の前にある瞳と同じだと気づく。

「トレベレス……?」

 ベルガーは、自分の目の前にいる男の名を呼んだ。
 兵が、気分悪そうに前のめりになっていたベルガーの身体を支えている。
 そんな状態にも気づかず、ベルガーは耳鳴りが止まず、荒い呼吸を繰り返しながら二人を漠然と見やる。その瞳に、嫉妬と焦燥感が浮かび始めた。
 再度、眩暈がして世界が回転する。

 何処かで、見た光景だった。
 紫銀の髪の男が、緑の髪の少女を抱き締めて離さない様。自分はそれを、嫉妬心に侵されて見つめていた。ドクンと、奇妙な音を立てて胸が跳ね上がる。心臓の鼓動は速く、壊れてしまいそうだ。幸せそうな少女と、挑発的にこちらを見ている男。腹の底に蟠っている怨恨が、爆発する。

 ベルガーは頭を振った、奇怪な幻影から逃れようとした。
 そして、呪いの姫の誘惑からも逃れようとした。あれは、破壊の姫だと言い聞かせる。目障りなトレベレスが引き取って、己を破滅へと向かわせるだけなのだから支障はない筈だった。しかし、それでも。脳内整理は出来ている、好都合だとも解っている、だが。
 ベルガーは苛立ちを押さえられずに、愛用の槍を硬く、否、過剰に握り直した。支えていた兵を振り払い、槍を構える。放ち始めた殺気に周囲の兵が喉の奥で悲鳴を上げるが、その音すら耳に入らぬ程、眼下に集中していた。
 どうにも目の前の光景が気に入らなくて、唇を噛みながら大きく肩を振るわす。それは、馬鹿げているとは思ったが嫉妬に思えた。しかし、嫉妬する理由などない筈だった。アイラには確かに興味をそそられていたものの、一時だけ。トレベレスが身を滅ぼそうとも自分には無関係。他人が幾ら幸福の空気を纏っていても、色恋沙汰などに興味はない。しかし、確かにこれは激情に身を焦がすような想いだった。キリリ、と胸が鷲掴みにされ、引き千切られる様な、初めての痛感する感情だった。
 額にじんわりと汗を浮かべ、ベルガーは胸を押さえつつ声を発する。

「国を捨てる? 何を馬鹿なことを、それが一国を任される王子の言葉か」
「国は要らない、欲しいものはここにある」

 二人の間に発露する、殺意。
 ベルガーが素早く槍を突き出す、トレベレスが応戦し剣を引き抜くと、周囲は騒然となった。

「そこまで溺れたか! 魔性に魅入られたか!」
「貴様には関係のないことだ!」

 怒鳴る二人に、本気だと確信した周囲は混乱を極めた。逃げ惑う者が大半だったが、数人は両者の説得を試みた。
 自国の兵とて久方ぶりに見るベルガーの構えに、恐れ戦く。腹の底が知れない能面のような表情を浮かべている普段からは想像出来ぬほど、取り乱している。完全に冷静さに欠けていた。冷徹な王子を揺さ振ったものが、呪いの姫君だとは。窮地に立たされようとも沈着冷静であると思っていたゆえに、動揺を隠せない家臣達は喉を鳴らす。どうにか宥めようと背後から声をかけ続ける、価値のない姫に事を荒立てるのは無意味だと。
 それはトレベレス側も同様で、突拍子のない発言を撤回させるべく説得を開始した。国を捨てて呪いの姫君と逃亡など、気が触れたとしか思えなかった。

「気を確かに、トレベレス様! それは呪いの姫ですぞ!?」
「冷静に、ベルガー様! あれは呪いの姫ですぞ、このまま行かせましょう」

 破竹の勢いで騒ぎは塔全体に広まる、全くの予期せぬ出来事に右往左往せざるを得ない。二人の王子は睨み合いを続けており、それは相手を殺す勢いであると誰の目にも明らかだった。

「ベルガー殿には関係ないだろう! オレはアイラが居れば構わない。放っておいて戴けないか? あぁして繁栄の姫は置いていくから貴殿には好都合だろう?」
「何を仰るか、低脳な動物の様に発情しているだけにしか見えないから、馴染みでこうして止めているというのに」
「発情!? ……いい加減貴様の言い方には、腹が据えかねるっ」

 憤怒が迸り、目に見えない殺気が皮膚を傷つけるほど危険な空気が充満する。女達は悲鳴を上げて、我先にと下の階へ逃亡を始めた。
 最早、誰も二人を止められない。
 家臣達は恐れ慄くばかりで、声をかけることすら躊躇い始めた。そもそも、声をかけたところで、二人は全く耳を貸さない。
 互いの隙を見極める為に集中し、沈黙が流れ始める。
 呪いの姫君が、ついに二人の王子を魔性で取り込んでしまった、と皆は思った。これが土の国の女王の呪いなのだと、愕然とした。二人の王子の異様なまでの執着振りをみれば、そうも思いたくなるだろう。 
 美しい土の加護の姫は、炎の加護の皇子に抱きとめられ、光の加護の王子はそれに嫉妬する。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

アサギ(田上 浅葱) 登場時:11歳(小学6年生)

 DESTINYの主人公を務めている、謎多き人物。

 才色兼備かつ人望の厚い、非の打ち所がない美少女。

 勇者に憧れており、異世界へ勇者として旅立つところから、この物語は始まった。


 正体は●●の●●●。

ユキ(松長 友紀) 登場時:11歳(小学6年生)

 アサギの親友。

 大人しくか弱い美少女だが、何故かアサギと一緒に勇者として異世界へ旅立つ羽目になった。

 トモハルに好意を抱いている。

ミノル(門脇 実) 登場時:12歳(小学6年生)

 アサギのことを嫌いだ、と豪語している少年。

 アサギ達と同じく、勇者として異界へ旅立つ羽目になったが、理不尽さに訝しんでいる。

 トモハルとは家が隣り同士の幼馴染にして悪友。

 多方面で問題児。

トモハル(松下 朋玄) 登場時:11歳(小学6年生)

 容姿端麗、成績優秀であり、アサギと対をなすともてはやされている少年。

 同じく異界へ勇者として旅立つ。

 みんなのまとめ役だが、少々態度が高慢ちきでもあったりする。

 なんだかんだでミノルと親しい幼馴染。

ダイキ(中川 大樹) 登場時:11歳(小学6年生)

 剣道が得意な、寡黙な少年。

 人づきあいが苦手なわけではないが、自分から輪の中に入っていくことに遠慮がち。

 同じく、異世界へ勇者として旅立つことになる。

 やたらと長身で目立つことがコンプレックス。

ケンイチ(大石 健一) 登場時:11歳(小学6年生)

 ミノルと親しい可愛らしい少年だが、怒らせると一番怖い。

 同じく異世界へ勇者として旅立つことになった。

 従順だが、意に反することには静かに反論する。

リョウ(三河 亮) 登場時:11歳(小学6年生)

 作品のメインである一人。アサギは「みーちゃん」と呼んでいた。

 アサギと親しく、出会ってからは常に一緒だったが、勇者に選定されず、地球に取り残されてしまった。

 常にアサギの身を案じ、地球で不思議な能力を発揮している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み