外伝3『ABHORRENCE』16:束の間の僥倖
文字数 4,869文字
前日の、会話の練習は無意味だった。
「人間に……言葉は届かない……」
アニスは唖然として人間を見やった。
人間と違うモノには、畏怖の念を向ける。得体の知れないモノは、不気味だから排除する。仲間ではないから、不要。そんな言葉がグルグルと脳内を駆け巡った。
攻撃の手を止めない少女たちに歯向かう気力もなく、為すがままにされる。ようやく、『人間は恐ろしいもの』だと認識する。声さえ届けば、危害を加えないことを解かって貰えたかもしれない。
「そんな……」
だが、言葉が通じたところで無駄かもしれないとも思った。自分は、衣服を着ていても人間ではないのだから。
アニスは、虚ろにトカミエルを見つめた。
「私の、声は……。貴方に届かないのですね」
絶望し、砕けた心の破片が身体中に散らばる。
根本が違っていた。人間と妖精の違いは、羽根の有無という問題ではなかったのだ。動物たちが言う通り、住む世界が異なる種族。
妖精の声は、人間に届かない。アニスの声は、トカミエルに届かない。
「トカミエル、大人を呼びましょ! こいつを捕まえるのよ、処刑しないと! 街にどんな災いをもたらすかっ」
オルヴィスは早口でまくしたて、トカミエルの肩を揺さぶった。
聞いているのか、いないのか。先程から微動だしていなかったトカミエルは、ようやく我に返った。
「処刑?」
ずっと、アニスを目で追っていた。少女たちに暴行されている時も、目を背けることなく凝視していた。
アニスを。
アニスの表情を。
アニスの存在を。
アニスだけを切り取って、そのまま。まるで、絵画を愉しむように魅入っていた。
「トカミエルッ!」
「ん、あぁ……?」
奇声に近い声を出し、鼻息荒くトカミエルを見つめるオルヴィスは焦っていた。彼の端正な横顔は見惚れるほどで、愛おしいと思うと同時に憤怒する。それを独占しているのは、自分ではなく得体の知れないモノなのだから。
オルヴィスは、必死にトカミエルを揺さぶった。呪縛にかかったように微動だしないその身体を解放しようと、躍起になる。
「ねぇっ、私の話を聞いていた!? 早急に大人を呼びに行くのよっ」
力を籠め腕を引っ張るが、トカミエルの視線がアニスから逸れる事はない。
「さっきからギャンギャンと煩い」
面倒そうな声に、ついにオルヴィスの堪忍袋の緒が切れた。頬に強引に手をそえると、自分を見るように強要する。
「い、いい加減にしてよ、こっちを見て! 一緒に大人を呼びに行くの!」
「……
トカミエルは強い力で邪魔な手を振り払い、睨みを利かせ一瞥する。
呆けていたにしては、腹が立つほど冷静な声だった。邪険に扱われた自分の手を唖然と眺めていたオルヴィスは、湧き上がる涙を堪える。指先が細かに震えている。先程アニスを見ていた柔らかな視線とは異なり、剣先のような鋭利な視線に動揺した。
初めて向けられた視線だった。生きてきて、他の誰からも向けられたことがなかったもの。それは、明らかな嫌忌。
オルヴィスの声が、頼りなく掠れる。
「で、でも」
「さっさと行け。お前が言い出したんだろ、大人を呼びに行くと」
怒気を含んだ冷淡な声にオルヴィスは息を飲む。
オルヴィスだけではない、初めて聞くトカミエルの声色にその場は静まり返った。平素の明るく愉快な彼とは真逆で、別人ではないかと思う程に凄みさを感じる低音の声。確かに感情の起伏が激しいトカミエルだが、ここまでの落差は知らない。幼い頃からよく知っているはずの友人たちも、顔を見合わせ震え上がる。
それほどまでに凄みのある声だった。
「そ、そうよね。い、いきましょう……」
ぎこちなく顔を引きつらせたオルヴィスは、少女たちを促し尻尾を巻いて逃げるように街へと駆け出した。
トカミエルと距離をおくと、緊迫していた空気が和らいで安堵の溜息が漏れる。酷く怖いと思った。あんなトカミエルは知らない、理想の彼ではない。あれ以上反抗していたら殺されていたかもしれないと思い、背筋が凍る。
「あの女のせいよ! ……どうしてっ」
一緒になって、足蹴にしてくれると思っていた。何もしないどころか、
二人は、目に見えない箱の中に入ったように思える。出入り口などなく、閉じ込められた。いや、閉じこもった。箱は、外部の干渉を全て退ける。
「あの女がトカミエルの心を奪い変えてしまった! 呪いの類よ、やはり本物の魔女なのよ! だって、あんなに優しかったのにっ」
やるせなさから、オルヴィスは思い切り唇を噛んだ。じんわりと血の味が口内に広がり、目頭が熱くなる。惨めだ、自尊心がへし折られた。アニスを徹底的に痛めつけないと、気は晴れない。
「ゆーるーさーなーいっ! 呪ってやるっ」
瞳には、激情の炎。
不穏な空気が、僅かに晴れた。
取り残された少年たちは、気まずそうに互いの顔を見合わせると最終的にトカミエルに視線を投げる。少女たちが行った一方的な暴行に、正直引いていた。卑劣であり、アニスを気の毒に思っていた少年もいた。
けれども、罪悪感を抱きつつ仲裁に入ることはなかった。それほどまでに、少女らが鬼のようで恐ろしく見えたのだ。
魔女は、どちらか。
少年たちは、今にも崩れ落ちそうな目の前の哀れな妖精に憐れみの視線を投げた。
「可哀想だ」
少女の瞳には恐ろしいものに映ったが、少年たちにはそう映らなかった。珍しい昆虫のようで、興味をそそられる対象である。
トカミエルは、一歩、また一歩と涙を零し続けるアニスに近寄った。脚が鉛のように重い。地面に沈んでいくような、奇妙な感覚だった。
「怖かったね、もう大丈夫だよ」
啜り泣いているアニスの前にしゃがんだトカミエルは、情に満ちた仕草でアニスの頬に手を伸ばし涙を拭う。
「あ、あぁ……!」
恐怖と激痛で感覚が麻痺していたアニスだったが、来てくれたトカミエルを見つめ儚く笑みを零した。目の前に、待ちわびた人間がいる。散々打ちのめされた為、もう何が起ころうと驚きはしない。優しく熱っぽい眼差しに、先程の痛みが不思議と消えていく。身体と心に突き刺さった破片が、ゆっくりと抜け落ちていった。
「指輪、拾ってくれたんだよね」
その言葉に、アニスは弾かれたように大きく頷いた。瞳に輝きが戻る。もう駄目だと思っていた、言葉が通じないのだから。
けれども、希望の光が見えた。
以前花畑でお姫様ごっこをしていた時のように優雅に振る舞うトカミエルは、アニスを優しく抱き起して頬を撫でる。
「可哀想に、痛かったろう?」
今まで堪えていた感情が溢れ、ボロボロと涙が零れだす。感極まって、もう止められない。
「大丈夫だよ、怖かったね」
温かな腕で抱き締められ、腰を撫でられると力が抜ける。腕の中で何度も頷き、アニスはトカミエルの指へ戻った指輪を躊躇いがちに優しく撫でた。満足し頷き、笑みを零す。
それを見たトカミエルは、アニスが人間の言葉を理解していることに気づいた。
「ありがとう」
耳元で囁き、躊躇う事無く強く抱き締める。
驚いて身体を仰け反らせたアニスだが、顔を赤らめ戸惑いがちに見上げた。蕩けて混ざり合いそうな体温は、胸の鼓動を高鳴らせる。心臓が壊れそうなほどに大きく震えている。
頬を染め至福の笑みを浮かべるアニスに、トカミエルは耐え難い慕情を抱く。
震えているのは、アニスか、トカミエルか。煩いくらいに鳴り響くこの胸の鼓動は、どちらのものか。互いの存在を確認するように、離れまいとして抱擁を交わす。
「えーと、トカミエル?」
少年の一人が、遠慮がちに声をかける。二人の表情が
「何?」
邪魔されて怒りがこみ上げたのだろう、不機嫌そうな声で返答したトカミエルに少年は怖気づく。しかし、少女たちは大人を連れて戻ってくるだろう。
「その妖精……どうするの?」
「家に持って帰る。それで、オレが飼う」
憮然と言い放つトカミエルは、きょとん、としているアニスの髪に口付けの雨を降らせる。
「はぁ!? 無理だよ!」
「何言っているんだ、それは昆虫でも動物でもないし」
その場にいた全員が、一斉に素っ頓狂な声を上げ近寄った。口々に否定し、止めようとする。妖精を見るのも初めてだが、飼うなんて聞いた事がない。
しかし、トカミエルは本気だった。
「これ、気に入ったんだ。人間の言葉は解かるみたいだし、大人しいし、可愛いし。何が何でも持って帰って、部屋で飼う。そうだ、服も買ってやらないと。でかい人形だと思えばいいさ」
アニスの髪を撫でながら、新しく手に入れた玩具で遊ぶ子供のように無邪気に瞳を煌めかせて笑う。
「オルヴィスたちが大人を呼びに行ったじゃないか、逃がすべきだ」
「そもそも、飼うには大きすぎるよ。人間と大差ないし……」
トカミエルの腕の中のアニスを、少年たちはしげしげと見つめる。じっくり観察すると、少女たちに引っ張られた衣服は所々破れ、初々しい艶めく肌が露わになっていた。
扇情的な光景に少年らは顔を赤らめ、居心地悪そうに視線を逸らす。
「か、可愛いけど。……人形じゃない、生きてる」
だが、トカミエルは鼻で嗤った。
「そんなことはどうでもいい。そうだな……この子を何処かに隠し、逃げられたと説明する。後でこっそり
「いやー、いくらなんでもそれは浅はかだ。……少し落ち着けよ」
「逃げたと説明したら、あのオルヴィスのことだから森中を焼き払ってくまなく捜し出しそう。家にいるなんて知られてみろ、地獄だぞ」
興味本位でアニスに触れようと手を伸ばした少年の手が、勢いよく弾かれた。
「触るな」
その場が凍りついた。
トカミエルの背後から、ドス黒い何かが発している。あまりにも禍々しいそれに、少年たちは青白い顔で背進した。一人の少年は腰が抜けたらしく、喉を押さえ尻もちをつく。
腕の中で、アニスは強められた力に苦しそうに顔を歪めていた。
「な、何だよ。そんなに怒らなくてもいいだろ。それに妖精が苦しそうだ、離してやれよ」
「煩い、
「トカミエル、落ち着けって」
歯を剥き出しにして威嚇する姿に、少年たちは不安を覚えた。妖精を誰からも見えないように覆い隠し離れていくトカミエルは、異常だ。ふと、先程少女たちが言っていた『魔女』という単語が甦る。まさか本当に森に住む魔女で、自分たちの魂を食ってしまう存在なのだろうかと恐怖すら感じた。秀麗な姿で男を惑わすとしたら、彼の豹変ぶりも納得できた。
「これはオレのだっ! 絶対にオレのだっ! 誰も触るな、誰も見るな、オレからこれを盗るんじゃないっ」
「わ、わかったよ、トカミエルの妖精だよ。だから落ち着けよ、見ないし、触らない」
狂気の瞳は、全てを拒絶している。その形相は、まるで地獄からやってきた死霊。
腕の中のアニスは窒息しそうでもがいているが、少年たちがどうこう出来る問題ではない。そもそも、見るだけでトカミエルの逆鱗に触れてしまう。
森中の木々が、大きく揺れる。
「絶対に、誰にも渡さない。これはオレのだ!」
横取りされるから、誰にも見せない。一目見ただけで男は彼女を欲し、群がる。
「どいつもこいつも……人のものを勝手に横取りしやがってっ」
トカミエルは血走った瞳で友人であるはずの彼らを威嚇し、後退した。
雲間から光が差し込み、パラパラと音を立てて小雨が降り、風が吹き抜ける。
花畑に湿った空気が流れ込み、瘴気が渦巻き花々は顔を背けた。