トビィ最大の誤算
文字数 7,311文字
トビィに連れられて、アサギは中央の公園に来ていた。時折、恋人が同じ様に手を繋いで歩いていたり、ベンチに腰掛けて寄り添っていたりしたが、各々静かに時を過ごしている。会話などなくとも、共にいられれば満たされるように。
七月上旬、蒸し暑い夜ではあるが、潮風は冷ややかで快適だ。遠くで波の音が聞こえる、夜空に輝く満点の星の下を、二人はただ歩いた。
この時期はあまり雨が降らない、と説明してくれたトビィにアサギは小さく頷く。
公園には見渡す限り草花が植えられている。今開いている花は数種類だが、昼間にはさらに多くの花が咲き乱れ色彩を放つのだろう。
その向こうに、月に照らされキラキラと光る海が広がっていた。
「綺麗ですね」
うっとりと呟いたアサギの頭を撫で、満足そうにトビィは微笑む。
「喜んでもらえたかな? この景色が見せたくて。星々の煌きの中で咲き乱れる花の色合い、微かに届く波の音。アサギが好きそうだったから」
「とても、素敵です」
笑顔で返したアサギに満足そうに頷くと、トビィはベンチへと誘導した。そこならば身体を休めて観賞できる。
「寒くはないか?」
「はい、へっきです」
アサギはそう返したものの、トビィは華奢なその肩を引き寄せた。
二人の身体は密着するが、アサギは赤面することもなく「あったかいですね」とふわりと笑った。
「そうだな、温かいな。それに、アサギからは、良い香りがする」
「さっき、お風呂に入ったばかりですから。お湯にハーブが浮かんでいました、そのせいです」
アサギの髪を摘まみ指先で遊ばせていたトビィは、耳元で甘ったるく囁く。しかし、アサギはものともせずにしれっと返答した。
塩対応をしているわけではない、トビィに口説かれていることに、微塵も気づいていない。
体温の心地良さを感じながら、風に揺れる木々を眺める。葉の揺れる音は、安らぎをもたらしてくれる。
「疲れていない?」
トビィはそう囁き、顔を覗きこんだ。
「はい、元気です」
「あぁ、そうだ。……これを」
トビィはそっと包み紙をアサギへと手渡した。
不思議そうにそれを見つめたアサギは、促されて丁重に開く。そうして、小さく歓喜の声を上げると、瞳を輝かせながら手で掬い上げた。
「あ、あの、これっ」
「似合いそうだったから、買った。よければ身につけて」
「わぁ、ありがとうございますっ。嬉しいです、可愛い」
アサギは、早速出てきたネックレスを身につけようとした。だが、もたついていたので、トビィが吹き出しそのネックレスを受け取る。アサギが手で髪を上げると、露わになったうなじにトビィが見惚れる。喉を鳴らし、吸い寄せられるように唇を近づけるが、断腸の思いで堪えた。
ようやく、アサギの首にネックレスが飾られる。
「似合っていますか?」
「あぁ、見立て通りだ、似合ってる」
嬉しそうに淡水色の石を見つめているアサギの髪をそっと撫で、トビィは愛しく囁く。
「アサギは、綺麗だな」
「そ、そうですか?」
身体を硬直させたアサギは、トビィの視線があまりにも真っ直ぐで、息を飲んだ。忘れていたが、大層な美形だ。おまけに身体は密着している、意識をしたら、胸が高鳴った。年上の異性、というだけで緊張する。
「なんだろう、優しいけれど芯が強く。明るいけれど、時折憂いを見せる。初々しいけど、稀に妙に妖艶な仕草をする。……不思議だ」
普段は言われない単語を並べられ、アサギは混乱気味に額を押さえた。とりあえず、小さくおじぎをするしかない。誉められている事は、解った。
トビィは、どう反応して良いのか判らず慌てふためくアサギに愛おしさがこみ上げた。そのまま抱きしめようかとも思ったのだが、堪えた。ここで抱きしめてしまえば、歯止めが効かなくなってしまう。しかし、挑発するように、風が吹くとアサギの髪がかき上げられ、風呂上りの良い香りがトビィの鼻をくすぐる。好意に満ちた眼差しを、注ぎ続ける。
アサギは、顔を赤らめて視線をわざと外していた。見られていることは気づいているが、俯いて唇をきゅっ、と噛み締める。嫌なわけではない、反応の仕方が分からない。
トビィは、より一層口角を上げる。このような態度を取る女は、初めてだった。その全てが愛しくて、戸惑う様子に加虐心が増してしまう。
「やっと、二人きりになれた」
本音を、吐露した。仲間達といると、騒がしい事この上ない。落ち着いた時間をとることが出来なかった、ようやくそれが叶った。
「好きだよ、大好きだ」
トビィの口から飛び出した言葉は、有りの侭の想いを込めたもの。他人にそんな言葉を投げかけた事など、一度もない。
その言葉は、アサギの為に。アサギにこそ伝えるべき言葉だと、約一ヶ月前に出会い、伝えたかった言葉を、ようやく口にする。
……君が好きだ、大好きだ。狂おしいくらいに、愛している。君を護る為だけに産まれてきた、そう思う。全ては君を護る為に、君の笑顔を見続ける為に。叶えたい願いは、そう君の。
それは、身を焼き焦がす程の想い。
「私も、大好きです」
情欲に乱れた瞳で見つめていると、思いのほか、アサギから早く返事が来た。目の前でアサギはくすぐったそうに笑っている、大きな瞳で視線をようやく逸らさず見つめてきた。
その言葉を聞き、胸を撫で下ろしたしたトビィはそのまま抱き締めた。抱き寄せた華奢な腰は、微かに湾曲する。
微かに身じろいだアサギだが、照れながらもトビィを見上げる。
星々の真下、静かな宵闇の公園、絶景である。
胸が高鳴る、ようやく一ヶ月抱き続けた切ない想いが報われる。壊れ物を扱うように頬に手を触れ、唇を近づけるトビィ。
だが、誤算であった。
アサギの言う『好き』と、トビィの言う『好き』の種類が違ったのである。
「あの、厚かましいと思うかもしれませんが『お兄様』って呼んでもいーですか?」
「は?」
腰に手を廻し、顎に手をかけ、口付けする気であったトビィは、珍しく素っ頓狂な声を出す。一瞬脳を叩かれたような衝撃を喰らい、状況把握に時間を要した。
この状況下でこの子は何を言い出した、と青褪める。
「ですから、お兄様になって欲しいんです。あの、弟が二人居るのです。昔からお兄さんの存在に憧れてて。トビィさんは強いですし頼りがいがありますし、優しいし。お兄さんみたいだな、って思ったのです。トビィお兄さん、より、トビィお兄様のほうが、なんだかしっくりくるので。……だめ、ですか?」
「…………」
面食らったトビィは、言葉が出てこなかった。頭が真っ白になった。
……兄?
兄と恋人とでは、雲泥の差。冗談ではない、それは恋愛対象として見られていないということではないだろうかと、目の前が真っ暗になった。
夜に連れ出し二人でムード漂う公園でのデート、耳に届くは波の音、香る花の甘い誘惑、星の祝福を受けながら口付けを……のトビィ的計画が台無しである。わざわざ、ライアンと離れてからこの場所を見つけておいたというのに。途中までは完璧だったはずだ、今でもこうしていつでも口付け出来る状態である。
が、アサギは不安そうに潤む瞳で懇願している。口付けではなくて、『お兄様』というその格付けを。トビィには、選択の余地がなかった。唇まであと少し、少しの距離なのに。目の前には、熟れたさくらんぼのような唇があるというのに。
けれども。
「……トビィお兄様」
トビィの思考回路は、停止した。
なんという甘美な響きだろう、上目遣いの美少女の誘惑だ。トビィは、アサギの顎から手を離すと、ゆっくりと頭を撫でた。
「あぁ、いいよ。今からオレがアサギのお兄さんだ」
選択の余地がなど、ない。あれを断る勇気などない。あの視線からは逃れなれない、草食動物の丸くて大きな瞳でおねだりされたならば……受け入れるしかなく。
強引に唇を奪うことも出来ただろう、トビィの脳内で想像以上の葛藤が起きた。
ほんの、数センチ先の唇。塞いで、丁寧に音を立てて唇を吸いたい。アサギは驚いて瞳を開けたままだろうが、徐々にうっとりと瞳を閉じるだろう。震える身体を抱き寄せ、力を緩めて開いた唇に舌をそっと入れる。跳ね上がる身体を力で押し付けて、そのままゆっくりと舌で口内を味わう。やがて、紅潮するアサギの頬と身体、時折唇を離せば切ない声を漏らすだろう。震える手で、トビィの衣服を掴むだろう。恥じて顔を伏せようとしても、再び顎を持ち上げて唇を塞ぐ。何度も繰り返せば自然にアサギとて舌を絡めるだろう、おぼつかないが。それがまた初々しい、上気する息遣いのアサギの眩しい太腿にそっと指を這わせば小さく震えて、鳴く。
……だろう。そうして、衣服の上から優しく丹念に愛撫し、堪え切れなくなったアサギが小さく首を横に振るのだ。部屋に帰れば、堂々と抱き合える。存分に愛し合える……その筈だった。
「ホントですか!? わぁい、やったぁ! ……トビィお兄様っ」
何処で、トビィは間違えたのか。
アサギは嬉しそうに笑うと、そのままトビィの首に抱きつき、弾む声でそっと囁く。
耳元で。
「トビィお兄様、だーいすき」
思わず、トビィの背がぞくりと波打つ。なんという色気のある、破壊力ある台詞だったろう。無意識だろうが、あざとい。
……まずいな、これは。
苦笑いして無邪気にじゃれてくるアサギの背を、あやすように撫でた。思った以上に、天然の小悪魔だ。意図がないから、性質が悪い。溜息吐きつつ、トビィはそれでも笑みを零した。
アサギの温もりは、すぐ傍に。星の廻りは、そのままに。離れることなく、ずっと隣に。
……兄でもまぁ、いいだろう。兄の権限で、片っ端から近寄ってきた男を蹴散らす事が出来る。
前向きに考えると、重要なポジションだった。
キィィ、カトン……。
二人は、歯車が廻った音を聞いた。しかし、公園内に歯車などあるわけがない。
不思議そうに顔を見合わせるが、ふっと息を零す。
星空の真下で、誓う事は。
「アサギ、必ずオレの傍を離れるな。護り続けるから」
「護られるだけは嫌いです、一緒に戦います」
「あぁ、そうだな。いつでも、どんな時でも。……共に居続けよう」
「はいっ」
「良い子だ」
朗らかに微笑むアサギの頬に、トビィはそっと口付けた。驚いて顔を背けたアサギだが、先程の仕返しだとばかりに、耳元でトビィはこう呟いた。
「今日は、ここまで」
「ぇ、ぅ……?」
自腹で、トビィは皆と違い個室を予約していた。アサギを連れ込む予定だったのだが、仕方がない。今は、腕の中で赤面しているアサギを見ているだけで、十分だ。
困惑し、身動ぎしている可愛い可愛い義妹。愛おしくて再び頬に口付ける。チュ、と音を立てて何度か口付ければ。
「んっ、ん」
睦言の様な声を、漏らす。くすぐったいのではない、熱っぽい唇に感じているようだ。
「……前言撤回したい、な」
相当感度が良さそうだ、が、震える身体を押さえ、トビィは我慢した。
……兄だ、兄だ、兄だ、オレは兄だ。
夜は、更ける。目の前で、暖かな小さき者は、震えている。羞恥心で、瞳に涙を浮かべて。
異世界クレオへ到着してから数日が経過したが、勇者達は初めてベッドで眠りに就く事が出来た。馬車の中で眠った事がある日本人の同世代など、数人しかいないだろう。これは自慢できることなのだろうか。
明日からまた旅が始まる、馬車で移動し、野宿をし、の繰り返しだ。束の間の休息である。次の目的地までは、クリストヴァルからジェノヴァまでよりも更に長い距離である。
辛い厳しい旅なのだが、仲間が居るというだけで妙に安心できた。一人で来ていたら音を上げていただろうが、音を上げても叱咤する友達が居るというのは心強い。
早朝、一人ミノルは目が冷めて暖かな布団の中で微かに動く。周りは眠っているようだ、昨夜一番乗りで就寝した為、起床が早かった。喉が渇いたが、起き上がる気にもなれないので、そのまま寝返りをうつ。
「マ」
ふと、寝言が聞こえた。トモハルだ、何か言っているが全く聞き取れない。夢を見ているのだろう、寝言である。
「マ……好き……す」
「なんだよ、“マ”って」
一体、どんな夢なのだろうか。それでも、“アサギ”とは聴き取れないので安堵し、無視をした。再び眠ろうかとも思ったが、目が冴えてしまった。仕方なく枕の下に手を入れて弄り、あるものを取り出す。
そこには一昨年の勇者達が写っている写真が入った、プラケースがあった。プラケースに入れる際に、端際に居たトモハルを半分鋏で切ったのだが、それはよしとして。
文化祭のクラスの出し物で劇を披露した、その時の集合写真である。去年、今年は違ったがそういえば一昨年は勇者達は偶然にも、全員同じクラスだった。思えば、奇怪な。ミノルが手にしているその写真に、勇者が全員写っている。
それはアサギの直ぐ傍で撮る事が出来た唯一の写真である。これ以後運動会でも遠足でも、ミノルはアサギと写る事が出来なかった。唯一の写真を、大事にプラケースに入れ、誰にも見つからないようにポケットに忍ばせていたのだった。
これの存在は、誰も知らない。
劇の題名は『ロミオとジュリエット』、定番悲劇である。
当然ジュリエットがアサギだ、そしてユキが付き添いの娘役。ロミオがトモハルで、ミノルとケンイチ、ダイキはアサギ……もといジュリエット側の兵士である。ジュリエットのアサギは当然、煌びやかなドレスを着ていた。本物のお姫様のようで、とても可愛らしい。
早朝とはいえ微かに明るく、光に透かしてその写真をまじまじと見つめていたミノルは、不意に顔を赤らめた。
実はこの劇、本番中にミノルは大失敗をした。
『ジュリエット様に触れるな!』というたった一つだけの台詞を任されたミノルは、緊張が手伝って「俺のアサギに触るな!」と壮大な間違いをしてしまった。
公衆の面前でそのような発言をしたものならば、通常冷やかしが巻き起こるのだが、生憎ミノルの相手はアサギである。上級生からその後締め上げられる、同級生から憎しみの篭った目で見られる等、大惨事を引き起こした。
翌日怪我をして登校してきたミノルに、アサギが慌てて駆け寄った。だが、ミノルは苛立ちも伴って口を利かず、荒々しく机を叩いた。非は自分にあるというのに、アサギを睨みつけて勢い良く立ち上がると、そのまま教室を出てしまった。
それは照れ隠しだった。だが、あの時のミノルには素直にアサギと対面する勇気がなかった。アサギの手にはバンドエイドが握られていた、怪我を見て心配して駆けつけたのだろう。何も悪くないアサギに八つ当たりをし、結果、好意を無にしたミノル。もしかしたら仲良く会話出来たかもしれないのに、上手く接する事が出来ないまま、二年が経過していた。
トモハルのように、気の利いた台詞なんて言えない。
ケンイチのように、人懐っこく誰とでも仲良く出来ない。
ダイキのように、落ち着いて物事を考えるなんて無理。
ミノルは不意に苛立ちを覚え、枕を殴りつけて自嘲気味に笑うしかなかった。今回もそうだ、何も二年前と進歩していない自分に腹が立つ。
こちらへ来てから何かアサギと話をしただろうか? いや、会話した記憶がない。
トモハルなど、アサギにほぼ付きっ切りだ。今年はクラスが違うから一緒に居られて嬉しいのだろう、非常に親しくなっている。ケンイチにしても、ダイキにしてもアサギに話しかけ魔法のコツを教えて貰っていた。ミノルは、見ていただけだった。
深い溜息一つ、枕にボスッと顔を埋めて再び眠りに就く。プラケースを握り締めたまま、唇を噛み締めて浅い眠りへと落ちていった。
「いいんだ、酷い事たくさんしたから、嫌われてるだろうし」
トモハルのようにアサギと会話出来たらいいのに、まどろみながらそんな事を考える。そうしたら、いつも見ている様にアサギは笑ってくれるだろう。写真の中の様に真っ直ぐに見つめて、名前を呼んでくれるだろう。
アサギはトモハルが好きなんだろうと、思っていた。
だから二人は同じ星の勇者なのだろうと、思っていた。しかし、もし仮にそうだとするならばミノルとユキもそうでなくてはならないが、本音は“NO”である。
ユキの心理など知らないが、少なくともミノルが好きなのはユキではなく、アサギだ。
「マ」
再び、トモハルの寝言が響く。うるさそうにミノルはトモハルを睨みつけた、が、当の本人は非常に安らかな笑顔だった。
何故だか解らないが、少しだけトモハルが羨ましくなった。
瞳を閉じると、トビィが浮かぶ。
ミノルは幾度か瞬きを繰り返し、忘れようとした。しかし、あそこまで強烈な男をミノルは他に知らない。同性から見ても恐ろしく美形の男、百歩譲っても誰も勝てない。顔にしろ身長にしろ、強さにしてもだ。おまけにすでにアサギにぞっこんである、美男美少女、お似合いだった。
トビィにしろ、トモハルにしろ、アーサーにしろ、アサギに積極的に会話出来るところが、ミノルには羨ましかった。容姿以前の問題である。
「……好きな奴に、好きだ、なんて……言えないんだよ、俺」
そういうことだ。
だが、言わねば想いなど伝わるものか。
※挿絵は同人誌作成時の原稿として戴いたものです(*´▽`*)勇者一同。