記憶は流れ、廻る
文字数 5,172文字
この空間は肌に馴染み、居心地のよいものだった。互いの体温がじんわりと混ざり合って、くすぐったさを感じる。
話を一通り聞いてみたが、結局ここが何処なのかアサギには解らなかった。言えることは、地球をはじめ知っている惑星ではないということ。
この惑星を圧倒的な力で支配しているのは、魔王ではなく“神”。神と名乗っているが、同じ人間であり、つまりは独裁者。
「私は、どうしてここに」
ここが宇宙という闇に浮かんでいた燃え盛る炎に似た惑星とするならば、ここにも勇者として召喚されたのか。しかし勇者として召喚されたなら、以前のように使者がいるように思える。トランシスが使者、もしくは召喚者だとしても、願いを乞われていない。悲観しているが、救いは求めず諦めている。
「
眉間に皺を寄せて考え出したアサギに、トランシスは溜息を吐く。心ここにあらず、といった状態に、胸がチリリと痛んだ。
「ねぇ」
「は、はい」
声をかけられ我に返ったアサギは、何故か不機嫌そうなトランシスを見上げた。唇を軽く尖らせ、頭をかいている。
「それで、アサギは何処から来たのさ。というか、以前も逢ったことない? 物凄く見覚えがあるんだよね」
キィィィ、カトン。
妙な音がした。
トランシスはアサギを慌てて抱え込み、マスカットの木に身を潜める。偵察機が来たのかと思ったが、違うらしい。ここらで聞こえる音など限られてくるが、人の足音には思えなかった。
注意深く周囲を見渡すトランシスの腕に包まれて、アサギは赤面し硬直する。温もりが心地良くて、このままこうしていたかった。うっとりと瞳を閉じ、身を任せる。
初めて逢った筈なのに、そんな気がしない。この体温の温もりも、鼓動も、そして香りを知っている気がして仕方がない。
先程の口づけとて、懐かしい気がした。
唇にそっと指を添え、熱を確かめる。全身が火照り、ジリリと腹部がもどかしくて身を捩った。
「変な音がしたけど、大丈夫みたいだな」
大丈夫、と言いつつもトランシスはアサギを離さない。それどころか、無意識の内に強めに抱き締める。髪を撫で、その艶やかな指通りと香りに、息を大きく吸い込む。
「あ、あの。少し、苦しいかなって……」
躊躇いがちにそう声を発したアサギに、慌ててトランシスは開きかけた口を噤んだ。言いかけた言葉を飲み込み、身体を離す。
今の行動が恥ずかしく思えて、堰を切ったように弁解を始める。
「い、いや、その、こう、こうして抱きたくて、その、離すのを忘れていたわけじゃ、ないっ。で、でも、得したかも」
離れて欲しかったわけではないので残念に思いつつも、慌てふためくトランシスが面白くて、アサギはつい吹き出した。
「そんなに笑うなよ」
あまりに楽しそうに笑うので、トランシスも肩を竦めると一緒になって笑う。
ぎゅ、とアサギが控え目にトランシスの衣服を掴んだ。
キィィィィ、カトン。
「二人で一緒にいると、あったかくて幸せに思います」
「あ、うん。だろ!? うん、うん、そうそう。あー、で、アサギは何処から来たんだっけ」
「えっと」
逢って間もない二人だった。
話せば話すほど、
抱き合うことも、口づけることも、当然のことに思えた。
ただ、二人共同じことを思いつつも、自分が変ではと思い、明確な言葉にすることはなかった。
そして、この状況に躊躇う。
親密に寄り添っていたかと思えば、急によそよそしく離れる。どうしてよいのか、分からない。
自分の“好みだったから”口づけたトランシスと、“最初の口づけは必ず恋人とする”と願っていたアサギ。
これは、奇妙な事だが必然の出逢いである。
アサギは意を決して唇を舌で濡らすと、不安そうに口を開いた。
「あの。信じていただけないかもしれませんが、ここの何処でもない場所から私は来たのだと思います。……宇宙って分かりますか?」
「何処でもない場所? 宇宙?」
怪訝に眉を寄せたトランシスに、アサギは大きく頷いた。
アサギが嘘をつくとは思えないので、顎を擦りながらトランシスは続ける。
「宇宙なら解る、空で光る星とかいうのがあるトコだろ? 見たことはないけど」
空を指しそう言うと、アサギは神妙に頷いた。
「私が住んでいる場所は、ここではないのです。えーっと、どう説明したらよいのでしょう。地球、という惑星が私の故郷です」
「チキュウ? ……聞いたことがない地名だな」
「えっと、地名ではなくてですね、人類を含む多種多様な生命体が生存する天体です。太陽系の惑星の一つで」
「太陽系? 太陽は
「え、ふ、二つ!?」
会話が全く噛み合わない。
アサギは頭を抱えた。太陽が二つあるらしい時点で、上手く説明出来る自信がない。
混乱しているアサギに反し、真面目に解ろうとしないトランシスは楽観的だった。細かい事は気にしていない。自分の事を包み隠さず教えてくれるだけで十分、そこに理解は必要ない。
「まぁいいや。とにかく、アサギはオレと違うってことだろ?」
キィィィ……カトン。
「は、はい。簡単に言うと、そういうことになります」
カトン、トン……。
「よし、解った。アサギはオレが知らない場所から来た女の子……と。これで十分」
随分大雑把だが、下手にこじらせるよりはこちらのほうが楽かもしれない。根掘り葉掘り訊かれたところで、アサギが答えられることに限界がある。
「ところでさぁ、ねぇ、アサギ。どう? オレの事、好きになってくれた? これでも集落で結構もてはやされてるし、自信があるんだけど」
「え、えと?」
突然瞳を輝かせ覗き込まれ、アサギは口籠った。直球で聞かれて、顏が紅く染まる。
、
「どのくらい好き? オレたち、恋人だよね? 最初の口づけ、もう怒ってないよな?」
「え、えーっと」
アサギは面食らい、狼狽した。
好きか、と訊かれて「好きです」と簡単には言えない。簡単に言えるほどの感情ではないことを悟っている。つまり、心が惹かれていると認識している。
花が、動物が、可愛いものが好き……それらとは似て非なる感情だ。
「え、えっと」
口ごもるアサギだが、痛いくらいの視線を注がれ身を捩った。返事を待っている目の前の男に、どう伝えればよいのか解らない。
好きか嫌いかの二択であれば、『好き』を迷うことなく選ぶ。
だがこうも簡単に好きだと言ってしまってよいのかが、アサギには解らなかった。異性に告げる『好き』という単語は、特別である。
トランシスのことを、ほぼ何も知らない。何も知らないのに、好きという感情は成立するのか。
過去にアサギが好きになった相手といえばミノルだが、彼は幼稚園が同じで、一緒に過ごしていた。当然、名前も性格も知っていた。
「どうして言えないの?」
「そ、それは」
謎の惑星に住んでいる、初めて逢った男に『好きだ』と言ってどうなるのか。もう二度と逢えなかったら、この感情はどうなるのか。そもそも、流されているだけで、好きなのかどうか怪しいのではないか。
いや、そうではない。アサギは、別の不安を抱えている。
この状況下で『好きだ』と言って信じてもらえるかどうかが不安だった。何故好きになったのかと訊かれても、答えられない。
「…………」
トビィに似た雰囲気の、同じ色合いの瞳と髪の整った顔立ちをした男。五つほど年上だとは解ったが、何をしている人なのか、どういった性格なのかまだ解らない。
それでも、好きだと思っているのは事実。
……いい加減な女って、思われないかな。
さらに、ミノルが好きだったはずだが、すぐに他の人に心が動かされてよいのかが疑問だ。罪悪感もある、不謹慎でもある。大好きな少女漫画の主人公たちも失恋をし、新しい恋を見つける。だが、時間を要するものだ。
……好きだと言って、疑われない?
アサギは、怖い。この感情を否定されないかが、どうしようもなく恐ろしい。
けれども、どうしたって好きなのだ。自分でも愕然としてしまうほどに。
「その、あの。えっと、こ、声は好きです」
消え入りそうな声で、アサギは呟いた。
「ひ、瞳が綺麗で、好きです」
泣きそうになりながら、呟いた。
「長い指とか、大きい身体とか、あったかい手とか、くしゃっ、て笑うと可愛い感じのところとか、時折鋭い視線になるところとか、そういうところは、好きだと、思います」
聞いていたトランシスは、顔から火が出るほどにむず痒くなった。ここまで丁寧に褒められたのは初めてで動揺したが、嫌ではない。
「その……とても優しいし。えっと、今まで見た男の人の中で一番かっこいいと思います」
「わ、解った、解った、解った! ……なにそれ、オレにぞっこんってこと?」
照れ隠しでアサギから視線を逸らし、ぶっきらぼうに言い放つ。耳まで真っ赤になっていることを自覚し、「反則だろ、これは」と舌打ちする。
素直に口にしただけだが、慌てたアサギは両手を振り回し反論した。
「ぞっこん!? ち、違います! 好きなところを言っただけです!」
「へぇ? 総合的には嫌いなの?」
「違いますっ、総合的に好きです!」
「ふぅん? つまり、好きなんだ」
好き。
アサギの唇から溢れたその言葉に、知らずトランシスは笑みを浮かべる。安堵し、一瞬照れ笑いを浮かべた。
だが、口角はゆっくりと、皮肉めいて捻じ上がる。
美少女から言われた好き、は特別だった。トランシスの性行為経験は、同年代と比べたら格段に多い。それでも、その『好き』の威力は絶大だった。優越感に浸れ、支配欲に襲われ、独占欲が湧きあがる。自分に向けられるその言葉を待っていた、欲していた。
熱を帯びていた身体が、血液が、静まり返って脳内が鮮明になる。耳元で「落ち着け」と誰かが囁いた。
「好き……なんだ、オレのこと? もっと言え、好きだって言えよ」
その低い声色に、アサギの身体が跳ね上がる。身体が自然と後退した。
「え、あの」
トランシスがゆっくりと振り返り、意地の悪い笑みを顔に貼りつかせて近づく。何故アサギが距離をとるのか解らずに、それでも愉快で仕方がない。
自分が今、どう笑っているのか気づいていない。
腕を伸ばし、逃げようとするアサギを掴むと強引に引き寄せる。小さく悲鳴を上げたその唇を軽く塞ぎ、力任せに地面に押し倒した。
回転する視界に対応出来ず、アサギは荒い呼吸を繰り返し目の前のトランシスを見つめる。
「あ、あのっ」
アサギの吐息が揺れ、上擦った声が漏れる。
「声が、好き? なら、何度でも名前を呼んであげる。アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ」
耳元で、甘い声で名前を呼び続ける。
「っ!」
熱い息が耳に吹きかかると、堪らずアサギは身を捩った。しかし、抵抗など微力なものであり、声が身体を痺れさせ脳を溶かす。痙攣するように身体を揺らし、懸命に唇を真横に結ぶ。
「瞳が、好き? なら、ずっと名を呼びながら、見続けてあげる。アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ」
鼻が触れるほどの至近距離で、食い入るように見つめながらトランシスは言い続ける。
アサギは、呼吸するのもままならず涙目になった。
「この、長い指が好き? なら、いつでも名を呼んで見続けながら、触れてあげる。アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ、アサギ。そのうち、これを深いところに沈めて、掻き混ぜてあげるからね。待ってて」
頬を優しく撫で、震える様子を愉しむ。柔らかな耳朶をくすぐり、閉じている唇から呻き声が漏れるのを恍惚の表情で見つめる。
アサギは微かに首を横に振った。身体中が爆発しそうで、苦しかった。
「この、大きい身体が好き? 目も指も瞳も身体も声も好き、つまり全部が好きってことかな? いいよ、アサギが好きならいくらでもあげる」
左手で軽々とアサギの両手首を捉えると、頭上で拘束する。
「ひゃぅっ!?」
堪らずアサギは喉の奥から声を漏らしたが、絡んだ視線に射抜かれて言葉を失った。
トランシスは身動きが取れないアサギの顎を持ち上げると、悠然と微笑む。
「オレを見て、オレの名を呼んで。好きだと、好きだから欲しいと、そう言って?」
アサギは息を飲んだ。この残忍な笑みには、逆らえないと思った。