調和の風音～リョウ・ミカワ～
文字数 4,490文字
悲しみが、心を侵食する。
勇者達が異世界へ旅立ってからの地球の日本、某小学校校庭にて。
「どうして、どうして僕は選ばれなかった……？」
震える声で亮が呟いた、その言葉。
共に居られないのなら、アサギの傍を離れなければならないのならば。
亮のその強い想いが引き金となり、内に秘める力を呼び起こすのに、時間はかからなかった。
けれども、それぞれの石は、彼を指し示さなかった。彼もまた、“十分過ぎるほどに”勇者の器であるというのに。
微風が亮の頬を撫でた、優しく、やんわりと。しかし徐々に速く強くなる風に、砂塵が校庭を舞い、鳥達が音に怯えて遠くへと飛び立つ。
「誰か、誰か！ どうか、アサギをっ」
……自分が共に居られないなら、同等の力を持つべき者へと、せめて託そう。このもどかしい想いを、誰かに託さなければ。誰か、誰に？
「アサギの守護をっ！」
亮の叫び声が校庭に響き渡る、風に乗って、声が駆け抜けていく。その願いは、想いは、誓いは、遠く遠く離れた地へと、風に乗って届けられた。
風は呼びかける、今はまだ知らぬ、過去の仲間へと。
亮は、見知った男の姿を確認した。瞬間、歓喜の笑みを浮かべる。“魂”が震えた、見たことが無い男だが、確実に知っている気がした。紫銀の流れる髪、濃紫の瞳、端正な顔立ちの水を連想させる男の姿を確認する。
亮は、自身の風を彼へと送り届ける。風に想いを乗せ、最も信頼できる男へと全ての望みを託した。
……僕の代わりに、アサギを護って。大事なアサギを、護って。
近い未来、その男はアサギと出逢うだろう。
安堵して破顔すると、彼と視線が交差する。彼もまた、涼し気な笑みを浮かべて頷いてくれた。
男が、応えたのだ。
「もう、大丈夫だ。あの人がアサギの傍にいてくれるのなら、何の心配もいらない」
亮は校庭で一人、穏やかに微笑んだまま空を見上げた。自分の意志は伝わった、全てが上手くいくはずだと直感した。
暫しの後、校庭は騒乱に包まれたのだが亮には関係ないことだった。ただ穏やかに、何処までも続いている青空を見つめている。
きっと、この空は。
アサギにも続いている。
後方でどれだけ生徒達が騒ごうとも、亮の耳には届かない。
子供達が隣同士で夢かどうかを確かめるために叩き合い、教師達が叫び声を上げ、校長を頼るべく詰め寄っていたとしても。
今しがた、目の前で不可解な事件が起きた。
眩い光と共に、御伽噺の使者がやってきた、巨大なネズミも降ってきた。やがて生徒が六名、使者と共に消えていった。
これは夢ではない、皆が見ていた。
校長は錯乱状態である、未だかつてこんなケースはない。前代未聞の出来事に直面し、校長は卒倒してしまいたかった。
……どうするべきだ、様子を見るべきなのか？ 誘拐事件として世間に公表すべきものなのか！？ なんと説明する？ 光の中に消えていきました、と説明をするのか！？ 親御さんにはどう説明する！？ ＰＴＡからの攻撃にはどう対応する！？ テレビの取材が来たら、どう謝れば！？ いや、謝るようなことしたのか！？
そんな時、大人より子供のほうが順応が速かった。生徒達は整列し直すと、教師の言葉を待ったのである。
副校長の指示で、今にも倒れそうな校長は苦し紛れにこう告げた。見ているこちらが気の毒になるほどの顔面蒼白で、泡を吹いて絶命しそうな校長は、もうすぐ定年だ。
「あーうーおーえーあー。本日はー、休みとしますー。自宅へ皆で戻り、明日の準備をしてくださいー。各自教室で宿題を聞き、元気な顔で明日登校してくださいねー。以上」
わぁ！
校庭で子供達の歓声が上がった。学校が休みになればそれは嬉しいだろう、手を取り合って喜び、はしゃぎ回る。数時間後、各自教室で宿題を出されながらも生徒達は浮足立って帰宅した。給食だけは食べたようだ。
低学年には、先程の現実を受け入れるだけの準備が出来ていなかった。高学年ともなると、流石に夢ではないと、現実だと受け止めてはいた。しかし、先程の話を切り出す者がいない。わからないことを口にする勇気がなかった。
だから皆、現実逃避をして帰宅した。
「どーするんですか、校長っ！」
職員室では校長がハンカチで口元を押さえながら机に突っ伏しつつ、教師達のわめき声を聞いている。聞いているというよりも、聞き流している。
教師らは総出で、ネットで検索をかけた。『生徒達が目の前で姿を消した場合』『目の前に不可解な生物が現われた場合』うんぬんかんぬん。
それらの対応策など出てこない、だが起きたことは現実だ。
消えた生徒は全員六年生である。『一組：田上浅葱』『二組：松長友紀』『二組：松下朋玄』『二組：中川大樹』『三組：大石健一』『四組：門脇実』以上六名。
両親に連絡を取らなければならない、しかしなんと説明をするべきなのか誰も答えを出せないでいる。
「ここは慎重に電話を。暫し考えましょう」
「いやいや、行動が遅れる程マスコミの標的にされる」
「そしてマスコミが毎日自宅まで押しかけてきます！」
教師達は一斉に青ざめる、脳裏に何処かで見たことがあるような映像が流れた為だ。
『こちらは、生徒達が行方不明になった小学校の校庭です！ あ、校長です、教師達です！ 聞かせてください、何故早くご両親に連絡をしなかったのですか！？ 子供を心配する親へ失礼だと戸も居ませんか！？ 職務放棄ですか？ 怠惰ですよね！ 何か言ってくださいよ、それでも子供達を守る教師ですか！？』
報道陣に四方を塞がれ、身動きできない映像。まさに、四面楚歌。一生のうち、体験する人間は数少ないはずだ、が、数日後には確実に降りかかってくる災厄である。
『本当にねー、困るわよねー。こっちは信頼して学校に預けているのに、子供を行方不明にされちゃぁねー！ ※音声は変えてあります』
『大体あそこの校長、前から生徒を見る目が怪しいと思っていたのよ！』
『ねぇ、知っている？ ○○先生は生徒のお父さんと不倫しているんですって！』
『そんなこと言ったら■■先生なんて、高校生の彼氏がいるそうよ！』
全く関係ない近所のおばさんやらが捲くし立て、ここぞとばかり文句を言っている。根も葉もない噂まで飛び交うだろう。
教師達は身を震わせた、冗談ではない、こんな事態は避けなければと躍起になった。
頭を盛大に横に振ると、校長は跳ね起きて「電話だー！ とりあえず、消えた生徒達の両親へ電話だーっ」と叫んだ。
慌てて教師達は、連絡網を開く。電話をかける教師は気が重く、押したくとも指が震えて押せない。罵声を浴びせられるか、信じてもらえず不審がられるか、どのような反応が返ってくることか。特に、三人が消えている二組担当の教師は悲惨である。泣きながら、電話をかけた。
混沌とした職員室。それは六月二十六日、初夏の出来事だった。
「誰かー助けてくれー！」
一斉に悲鳴が上がるが、残念ながら助けは来ない。
教師らが錯乱していた頃、亮は近所の子供達を連れて下校した。アサギが不在なので、この地区の引率を任されるのは自分だと解っていた。横断歩道を低学年から渡らせ、自分は最後に。止まってくれた車に礼をして、歩いていく。
と、目の前で低学年がすっ転んだ。
バランス感覚が不安定な年頃だ、石に躓いた訳でもなく、前にころりんと。間が空いて大声で泣き出す、慌てて駆け寄ると抱き起こし、膝についた小石を払い除けた。特に怪我はない、痛みではなく驚きで泣き出したのだろう、泣き止まない。困り果て、背負って帰ろうとランドセルを下ろしかけた時だった。
「どうしたの。大丈夫！？」
何処からともなく声が聞こえる、見れば車道から一台の車がこちらへ向かってきて、亮の前すれすれで停車した。その近すぎる距離に亮は小さく悲鳴を上げる、が、降りてきた女性はそんなことお構いなしだ。
「転んだの？ ケガは？」
「あ、はい、大丈夫みたいです」
「そっか、ならよかった。じゃあ、これを」
女性は車内へ戻ると、何やら漁り始め、戻ってきた。手に握られていたのは、飴だ。
「ほら、甘い飴嘗めよっか。おいしーよ。苺味だよー。元気出るよー」
女性は泣いている子に、飴を渡す。白い包み紙に、可愛らしい苺の絵。にっこり笑って、頭を撫でて、ほっぺをぷにぷに触り続ける。
きゃはは、と笑い始めた児童に安堵し、女性は立ち去ろうとした。「ありがとうございました」声を張り上げてお礼をする亮に、女性は振り返る。
「いえいえ、どういたしましてー。気をつけて帰るんだよー」
ばいばい、手を振って女性は車に乗り込んだ。
せめて見送ろうと亮が突っ立っていると、電話が鳴っていたのか、何やら携帯で会話し始めたその女性。
「あー、はいはい、こちら奈留ですー。今向かっている途中ですー。もう暫くお待ちくださいー」
奈留という名前らしい、亮は再度深く礼をすると、再び歩き出す。
自宅には帰らず、亮は田上家へと出向いた。突然帰宅した子らを見て驚くかと思ったが、母親は至って冷静だった。すでに学校から帰宅の連絡が入っていたのだ、丁度用意されたおやつが出てきた。
勧められたので、亮はよく冷えた手作りミルクプリンを戴いた。甘くて美味しいそれは、アサギの好物である。
アサギの母親は、亮に電話の内容を話して聞かせた。今夜、保護者説明会があるという。
「あはは、びっくりよね。浅葱、消えたのねー」
やたら暢気な母親に、亮は引き攣った笑みを浮かべる。娘が消えたのに、この余裕はどうしたことか。
そんな亮の視線に気づいたのか、母親はゆっくりと笑みを浮かべる。
「浅葱、勇者になりたいって言ってたでしょ？ 望んでいたことが現実に起きたのよね。なら、喜ばしいことじゃない？」
「でも！」
「私には解るの、あの子はちゃんと戻るわ。そう思うでしょ、亮君も」
「……確かに、そうですけど」
思うというか、戻って貰わないと困る。だから願い続ける、無事で戻れるようにと。
けれど確かに、亮には解っていた。アサギは怪我一つなく、戻ってくることを。
アサギの弟達とゲームをしながらぼんやりとアサギの事を考えていると、不安が薄れた。アサギの姿が見えなくなった時は、苦しくて押し潰されそうな空気が周囲に纏わりついていたのに。
今は妙に軽い、震え慄く心はいつしか冷静を取り戻していた。
ただの直感であり、確信。
「大丈夫、アサギは大丈夫だ」
そう、大丈夫。
……護り続けよう、願い続けよう、祈り続けよう。何処に居ても僕がアサギを護れるように、風を送ろう。
キィィィ、カトン。
亮は何処かで、歯車が回った音を聞いた。
微かに顔を上げる、が、歯車など田上家には存在しない。「気のせいか」そう呟いた。
勇者達が異世界へ旅立ってからの地球の日本、某小学校校庭にて。
「どうして、どうして僕は選ばれなかった……？」
震える声で亮が呟いた、その言葉。
共に居られないのなら、アサギの傍を離れなければならないのならば。
亮のその強い想いが引き金となり、内に秘める力を呼び起こすのに、時間はかからなかった。
けれども、それぞれの石は、彼を指し示さなかった。彼もまた、“十分過ぎるほどに”勇者の器であるというのに。
微風が亮の頬を撫でた、優しく、やんわりと。しかし徐々に速く強くなる風に、砂塵が校庭を舞い、鳥達が音に怯えて遠くへと飛び立つ。
「誰か、誰か！ どうか、アサギをっ」
……自分が共に居られないなら、同等の力を持つべき者へと、せめて託そう。このもどかしい想いを、誰かに託さなければ。誰か、誰に？
「アサギの守護をっ！」
亮の叫び声が校庭に響き渡る、風に乗って、声が駆け抜けていく。その願いは、想いは、誓いは、遠く遠く離れた地へと、風に乗って届けられた。
風は呼びかける、今はまだ知らぬ、過去の仲間へと。
亮は、見知った男の姿を確認した。瞬間、歓喜の笑みを浮かべる。“魂”が震えた、見たことが無い男だが、確実に知っている気がした。紫銀の流れる髪、濃紫の瞳、端正な顔立ちの水を連想させる男の姿を確認する。
亮は、自身の風を彼へと送り届ける。風に想いを乗せ、最も信頼できる男へと全ての望みを託した。
……僕の代わりに、アサギを護って。大事なアサギを、護って。
近い未来、その男はアサギと出逢うだろう。
安堵して破顔すると、彼と視線が交差する。彼もまた、涼し気な笑みを浮かべて頷いてくれた。
男が、応えたのだ。
「もう、大丈夫だ。あの人がアサギの傍にいてくれるのなら、何の心配もいらない」
亮は校庭で一人、穏やかに微笑んだまま空を見上げた。自分の意志は伝わった、全てが上手くいくはずだと直感した。
暫しの後、校庭は騒乱に包まれたのだが亮には関係ないことだった。ただ穏やかに、何処までも続いている青空を見つめている。
きっと、この空は。
アサギにも続いている。
後方でどれだけ生徒達が騒ごうとも、亮の耳には届かない。
子供達が隣同士で夢かどうかを確かめるために叩き合い、教師達が叫び声を上げ、校長を頼るべく詰め寄っていたとしても。
今しがた、目の前で不可解な事件が起きた。
眩い光と共に、御伽噺の使者がやってきた、巨大なネズミも降ってきた。やがて生徒が六名、使者と共に消えていった。
これは夢ではない、皆が見ていた。
校長は錯乱状態である、未だかつてこんなケースはない。前代未聞の出来事に直面し、校長は卒倒してしまいたかった。
……どうするべきだ、様子を見るべきなのか？ 誘拐事件として世間に公表すべきものなのか！？ なんと説明する？ 光の中に消えていきました、と説明をするのか！？ 親御さんにはどう説明する！？ ＰＴＡからの攻撃にはどう対応する！？ テレビの取材が来たら、どう謝れば！？ いや、謝るようなことしたのか！？
そんな時、大人より子供のほうが順応が速かった。生徒達は整列し直すと、教師の言葉を待ったのである。
副校長の指示で、今にも倒れそうな校長は苦し紛れにこう告げた。見ているこちらが気の毒になるほどの顔面蒼白で、泡を吹いて絶命しそうな校長は、もうすぐ定年だ。
「あーうーおーえーあー。本日はー、休みとしますー。自宅へ皆で戻り、明日の準備をしてくださいー。各自教室で宿題を聞き、元気な顔で明日登校してくださいねー。以上」
わぁ！
校庭で子供達の歓声が上がった。学校が休みになればそれは嬉しいだろう、手を取り合って喜び、はしゃぎ回る。数時間後、各自教室で宿題を出されながらも生徒達は浮足立って帰宅した。給食だけは食べたようだ。
低学年には、先程の現実を受け入れるだけの準備が出来ていなかった。高学年ともなると、流石に夢ではないと、現実だと受け止めてはいた。しかし、先程の話を切り出す者がいない。わからないことを口にする勇気がなかった。
だから皆、現実逃避をして帰宅した。
「どーするんですか、校長っ！」
職員室では校長がハンカチで口元を押さえながら机に突っ伏しつつ、教師達のわめき声を聞いている。聞いているというよりも、聞き流している。
教師らは総出で、ネットで検索をかけた。『生徒達が目の前で姿を消した場合』『目の前に不可解な生物が現われた場合』うんぬんかんぬん。
それらの対応策など出てこない、だが起きたことは現実だ。
消えた生徒は全員六年生である。『一組：田上浅葱』『二組：松長友紀』『二組：松下朋玄』『二組：中川大樹』『三組：大石健一』『四組：門脇実』以上六名。
両親に連絡を取らなければならない、しかしなんと説明をするべきなのか誰も答えを出せないでいる。
「ここは慎重に電話を。暫し考えましょう」
「いやいや、行動が遅れる程マスコミの標的にされる」
「そしてマスコミが毎日自宅まで押しかけてきます！」
教師達は一斉に青ざめる、脳裏に何処かで見たことがあるような映像が流れた為だ。
『こちらは、生徒達が行方不明になった小学校の校庭です！ あ、校長です、教師達です！ 聞かせてください、何故早くご両親に連絡をしなかったのですか！？ 子供を心配する親へ失礼だと戸も居ませんか！？ 職務放棄ですか？ 怠惰ですよね！ 何か言ってくださいよ、それでも子供達を守る教師ですか！？』
報道陣に四方を塞がれ、身動きできない映像。まさに、四面楚歌。一生のうち、体験する人間は数少ないはずだ、が、数日後には確実に降りかかってくる災厄である。
『本当にねー、困るわよねー。こっちは信頼して学校に預けているのに、子供を行方不明にされちゃぁねー！ ※音声は変えてあります』
『大体あそこの校長、前から生徒を見る目が怪しいと思っていたのよ！』
『ねぇ、知っている？ ○○先生は生徒のお父さんと不倫しているんですって！』
『そんなこと言ったら■■先生なんて、高校生の彼氏がいるそうよ！』
全く関係ない近所のおばさんやらが捲くし立て、ここぞとばかり文句を言っている。根も葉もない噂まで飛び交うだろう。
教師達は身を震わせた、冗談ではない、こんな事態は避けなければと躍起になった。
頭を盛大に横に振ると、校長は跳ね起きて「電話だー！ とりあえず、消えた生徒達の両親へ電話だーっ」と叫んだ。
慌てて教師達は、連絡網を開く。電話をかける教師は気が重く、押したくとも指が震えて押せない。罵声を浴びせられるか、信じてもらえず不審がられるか、どのような反応が返ってくることか。特に、三人が消えている二組担当の教師は悲惨である。泣きながら、電話をかけた。
混沌とした職員室。それは六月二十六日、初夏の出来事だった。
「誰かー助けてくれー！」
一斉に悲鳴が上がるが、残念ながら助けは来ない。
教師らが錯乱していた頃、亮は近所の子供達を連れて下校した。アサギが不在なので、この地区の引率を任されるのは自分だと解っていた。横断歩道を低学年から渡らせ、自分は最後に。止まってくれた車に礼をして、歩いていく。
と、目の前で低学年がすっ転んだ。
バランス感覚が不安定な年頃だ、石に躓いた訳でもなく、前にころりんと。間が空いて大声で泣き出す、慌てて駆け寄ると抱き起こし、膝についた小石を払い除けた。特に怪我はない、痛みではなく驚きで泣き出したのだろう、泣き止まない。困り果て、背負って帰ろうとランドセルを下ろしかけた時だった。
「どうしたの。大丈夫！？」
何処からともなく声が聞こえる、見れば車道から一台の車がこちらへ向かってきて、亮の前すれすれで停車した。その近すぎる距離に亮は小さく悲鳴を上げる、が、降りてきた女性はそんなことお構いなしだ。
「転んだの？ ケガは？」
「あ、はい、大丈夫みたいです」
「そっか、ならよかった。じゃあ、これを」
女性は車内へ戻ると、何やら漁り始め、戻ってきた。手に握られていたのは、飴だ。
「ほら、甘い飴嘗めよっか。おいしーよ。苺味だよー。元気出るよー」
女性は泣いている子に、飴を渡す。白い包み紙に、可愛らしい苺の絵。にっこり笑って、頭を撫でて、ほっぺをぷにぷに触り続ける。
きゃはは、と笑い始めた児童に安堵し、女性は立ち去ろうとした。「ありがとうございました」声を張り上げてお礼をする亮に、女性は振り返る。
「いえいえ、どういたしましてー。気をつけて帰るんだよー」
ばいばい、手を振って女性は車に乗り込んだ。
せめて見送ろうと亮が突っ立っていると、電話が鳴っていたのか、何やら携帯で会話し始めたその女性。
「あー、はいはい、こちら奈留ですー。今向かっている途中ですー。もう暫くお待ちくださいー」
奈留という名前らしい、亮は再度深く礼をすると、再び歩き出す。
自宅には帰らず、亮は田上家へと出向いた。突然帰宅した子らを見て驚くかと思ったが、母親は至って冷静だった。すでに学校から帰宅の連絡が入っていたのだ、丁度用意されたおやつが出てきた。
勧められたので、亮はよく冷えた手作りミルクプリンを戴いた。甘くて美味しいそれは、アサギの好物である。
アサギの母親は、亮に電話の内容を話して聞かせた。今夜、保護者説明会があるという。
「あはは、びっくりよね。浅葱、消えたのねー」
やたら暢気な母親に、亮は引き攣った笑みを浮かべる。娘が消えたのに、この余裕はどうしたことか。
そんな亮の視線に気づいたのか、母親はゆっくりと笑みを浮かべる。
「浅葱、勇者になりたいって言ってたでしょ？ 望んでいたことが現実に起きたのよね。なら、喜ばしいことじゃない？」
「でも！」
「私には解るの、あの子はちゃんと戻るわ。そう思うでしょ、亮君も」
「……確かに、そうですけど」
思うというか、戻って貰わないと困る。だから願い続ける、無事で戻れるようにと。
けれど確かに、亮には解っていた。アサギは怪我一つなく、戻ってくることを。
アサギの弟達とゲームをしながらぼんやりとアサギの事を考えていると、不安が薄れた。アサギの姿が見えなくなった時は、苦しくて押し潰されそうな空気が周囲に纏わりついていたのに。
今は妙に軽い、震え慄く心はいつしか冷静を取り戻していた。
ただの直感であり、確信。
「大丈夫、アサギは大丈夫だ」
そう、大丈夫。
……護り続けよう、願い続けよう、祈り続けよう。何処に居ても僕がアサギを護れるように、風を送ろう。
キィィィ、カトン。
亮は何処かで、歯車が回った音を聞いた。
微かに顔を上げる、が、歯車など田上家には存在しない。「気のせいか」そう呟いた。
