優しい対の勇者
文字数 3,109文字
「腹減ったなー」
私など放っておいて食べに行けばいいのに、とアサギは戸惑いがちに見上げる。
すると、ようやく二人の視線が交差した。
アサギは、心を見透かされそうで慌てて視線を逸らす。
「腹減ったなー、何か食べるものないかなー」
トモハルは、しつこく繰り返す。
狼狽したアサギは、周囲に瞳を走らせる。この付近は遊歩道で、飲み物の自販機はあるが、先程の大通りのようなキッチンカーは来ていない。
トモハルは腹を擦りながら力なく肩を落とし、情けない声を出す。
「アサギ。食べ物、持ってない? そろそろ空腹で倒れそう」
「え?」
下から覗き込まれ、予期せぬ行動に言葉が詰まる。
動揺しているアサギに、トモハルは普段の様に笑顔を浮かべる。そして抱えていたバッグを指した。
「なんか、いい匂いがするんだよねー」
「え、あ……」
匂いなどしないと思うが、確かにこの中に食べ物が入っている。今となっては不要なものを思い出し、狼狽する。
「ちょうだい」
「え、う、うん」
ぎこちなく取り出したアサギは、爽やかに微笑んでいるトモハルに差し出した。
ハート柄のビニール袋に入っている、昨夜ミノルを想い懸命に作った甘さ控え目のスパイシークッキー。『for you』と記載されたシールも丁寧に張り付けた。
アサギは、遠い昔の事のようにそれを見つめる。作っていた時は、楽しい時間だった。笑みが零れて頬を染め、幸せ一杯だった。何処で、間違ってしまったのか。愚かな自分しか思い出ず、墨汁で塗り潰したくなる。
「いただきまーす」
トモハルは一枚摘まんで、口に入れる。歯で割られる音が、妙に響く。
二枚、三枚、四枚。
ハート型のクッキーが次々にトモハルの口に放り込まれていく様子を、アサギはじっと見ていた。食べている人は渡したかった相手ではないが、哀しくなかった。不思議と心が静まっていくのを感じていた。
最後の一枚が、口に投げ込まれた。
何度か噛んでいたのだが、音を立ててクッキーを飲み込む。トモハルはペットボトルの蓋を開けて乾いた口内を潤す様に一気に飲み干すと、アサギに軽く微笑んだ。
その視線に、アサギは唇を噛む。透き通った瞳は、どことなく怖い気がした。
「手作りだね、これ」
「う、うん」
「あんまり、俺の好きな味じゃなかったな。残念」
意外な事を言われ、アサギは驚いた。トモハルなら、お世辞でも「美味しかった」と言うと思っていた。
……なら、無理して全部食べなくてよかったのに。
ぼんやりとしているアサギの隣で、空を仰いだトモハルが虚しそうに笑う。
「まぁ、当然だよね。アサギが、一生懸命誰かを想って作った、ソイツ用のだから。俺の口には、合わない。勿体無いなぁ、食べなかった奴は。アサギの想いが、たーくさん籠めてあったのに」
弾かれたように、アサギはトモハルを見た。今まで虚ろだった瞳に光が灯り、胸が締め付けられる。
指に付着していた粉をそっと払い、「ごちそうさま」と告げたトモハルは、背もたれに腕をかけて遠くを見つめる。
暫し二人とも、そのままでいた。
トモハルは通り行く人々を軽く見つめながら、唇を真横に結ぶ。
その隣で、縮こまっているアサギは。
ぽた。
スカートに、涙を零した。
ぽたた。
大粒の涙が、零れる。ようやく泣き止めたと思ったのに、止まらない。スカートをきつく握り締めて堪えようとするが、無理をすると嗚咽が盛大に漏れてしまう。
「一人で部屋で泣くより、広いところで泣いたほうが後で楽だよ。引き摺らなくて済むから。……どっちかっていうと、俺も一人で居たい派だけど。でも、心に押し込めちゃダメなんだって」
ぼそ、とトモハルが呟いた。
言われてアサギは微かに頷く、確かにそのほうが楽かもしれないと思った。
穏やかな日曜日、晴天の真下、隣にはトモハル。
アサギは、存分に泣いた。人々がこちらを見ていたようだが、それでも声を張り上げて泣いた。タオルで口元を押さえ身体を震わせて、体温が上がるのを感じながら泣いた。
「ごめ、ごめん、ねっ、トモハ、ル!」
「何が」
聞き取り難いが、確かにアサギはトモハルの名を呼んだ。
肩を竦めて、トモハルはぎこちなく微笑む。
「ごめ、ごめ、ごめん、ねっ」
「対の勇者だろ、俺達。それに、……大事な、友達だよ」
「あり、ありが、とっ」
「俺とアサギ、結構似てるしね。だから、分かる。絶対お菓子作ってるだろうこととか」
トモハルは、躊躇いがちにそっとアサギの肩を叩いた。
肩越しに伝わる手の暖かさに、アサギを随分と救われ安堵する。
「たくさん泣く分、好きだったってことだよ」
囁くように隣で呟いたトモハルに、アサギは再び大きく泣き出した。どうしてよいのか解らなかった心を、包んでもらえた気がした。行き場を失っていた心が、今救われた。
……そっか、好きだったんだ。好きだったけど、駄目だっただけ。
アサギは、トモハルの心の広さに感謝し、感服する。
「よかった。……今度は俺、アサギの傍にいられたね」
トモハルの瞳は、何処か違う世界を見ていた。何気なく呟いた言葉の意味を、二人共知らず。けれども、納得して嘆く。
アサギが涙を流しきった頃、周囲は暗くなっていた。トモハルは、ずっと同じ姿勢でアサギに寄り添っていた。空の色が夕焼けに染まった桃色と橙色の中間色から、幾つもの飛行機が通り過ぎて細長く雲を作り押し寄せる紺碧の空に、一番星が顔を覗かせるまで
街灯が、周囲の雰囲気を変えていく。
ぼんやりと、アサギは浮かび上がった月を眺めた。涙でまだ滲むが、淡い光に心が落ち着く。すっきりした気分になった。
「帰ろう、アサギ。家の人が心配するよ」
「うん……ありがとう」
頃合いを見計らって立ち上がったトモハルは、大きく伸びをする。
アサギはぎこちなく笑って、立ち上がった。困惑気味に顔を赤らめているが、瞳も負けず劣らず泣き腫らした為真っ赤だ。
「本当に……ありがとう」
「一人で、抱え込まないように。いつでも頼って、俺はアサギの友達だから」
普段通りに眩しい笑顔を見せたトモハルに、おずおずとアサギは頷いて照れ笑いを浮かべる。
二人は、帰路につく。
会話はなかったが、信頼できる人が傍に居るだけで心強い。
トモハルは丁寧にアサギを家に送り届け、「またね」と大きく手を振って去っていく。
「あ……
その様子を、リョウが偶然目撃した。ただならぬ様子を察し、声はかけなかった。ミノルではなく、隣にいたのはトモハル。泣きはらしたアサギの瞳を見れば、嫌でも想像出来てしまう。
「そっか……。クッキー作っていた時、楽しそうだったのに」
リョウは項垂れて家に戻ると、部屋のベッドに寝転んで瞳を閉じる。ミノルと喧嘩したのか、それとも、別れたのか。
幼馴染に彼氏が出来たという事実は、リョウにとって痛手だった。気軽に家にも行けなくなるのだろうかと心配していたが、それ以上にアサギが泣かないか不安だった。
ミノルとリョウは親しい仲ではない。同じサッカーチームに所属しているものの、クラスも違うし、会話を交わした記憶はほぼない。
アサギには申し訳ないが、二人は根本的に合わない気がして不安だった。だから、もし万が一にも彼女が泣くことがあったら、その時は傍にいようと決心していた。
杞憂であれと、願ってはいたが。
「僕の代わりを、ありがとう」
トモハルに密かに感謝し呟いたリョウは、静かに寝息を立て始める。
そして、夢を見た。
アサギが泣いているならば、傍に居なければならないと決意する夢を。大勢に囲まれているのに、酷く孤独で怯えている彼女を