足元は、音を立てて崩れ落ちる朽ちた塔
文字数 3,702文字
部屋の中では、心許無い蝋燭の灯りが揺れているだけ。静まり返るその宿は、客自体が少ないのだろうか。路地裏に面しているため、眼下の狭苦しい道には人気もない。
街の宿泊施設にいるのに、それは幻覚で、自分以外誰もいない空間に迷い込んでしまった気さえする。
本当は、下の階に人は大勢いるのだろう。けれども、どうしても孤独を痛感する。
マビルは、声も立てず涙を流した。
「一緒に寝てくれる?」
何度か使ってきた台詞だった。
これ見よがしに上目遣いでそう言えば、狙った男は堕ちた。豪華な食事と美しい部屋、そして贈り物。それが嬉しくて、何度も囁いた。
けれども、今は“そんな意味で”使っていない。ただ、抱きしめられて一人ではない事を実感したいだけだった。
ポタポタと、涙がシーツに染みをつくる。
こんな日が来るなどと思っていなかったマビルは、後先考えていなかった自分の行動に後悔した。
魔界にいた頃は窮屈でしかなかったが、それは間違いだったらしい。一人きりの時は確かに多かったが、アイセルが土産をもって様子を見に来てくれた。好みの男らも近くにいたし、何をしても肯定され、咎めを受ける事はほぼない暢気な暮らし。
美味しいものはすぐに手に入った、好きな時に起きて眠って、世界は自分中心だった。
「あれでも甘やかされていたのかな」
狭い部屋に相応の寝台、傍らには安いワイン。現状を見つめ、膝を抱えて丸くなると深い溜息を吐く。
身体を重ねる事は今でも簡単だ。だが、今のマビルは快楽など求めていない。怖い夜に護ってくれる、温かなものが欲しいだけ。
しかし、マビルを抱いた男たちはすぐに離れていった。派手に暴れて広まった噂、そして勇者たちが注意勧告を促しているために、興味本位で近づいても深く踏み込まない男たちが出て来た。
後腐れない関係を望んでいたのに、今はそれが苦しい。寝台に一人取り残されることが、こんなにも虚しく切ないことだと思わなかった。
上手く手を伸ばす術など知らない、これまではそんなことをする必要がなかった。そのため、繋ぎ止める手段など解らない。
本音が、喉の奥から出てこない。
「おねーちゃんは、そういうの得意そうだよね」
情けなく吐き捨て、唇を噛み締める。
『寂しいから、あたしが眠るまで起きてて。ずっと傍にいてね? 何処にもいっちゃ駄目だよ』
不安そうに見つめ返し、そう告げたら男たちは傍にいてくれるのだろうか。
けれども、自嘲気味に笑って頭を掻き毟る。そんな弱弱しい自分は好きではないし、気色が悪い。“マビル”という存在が少しずつ溶けて消えてしまう気がした。
「つらい……」
眠れずに、残酷なほど美しい月を眺め続ける。しかし、眉を寄せ寝台から足を下ろすと、重たい身体に鞭を打って部屋を出た。
一人きりの室内は、物寂しい。それならば、酒場で美味しくもない安酒でも呑んで気を紛らわしていたほうが楽だと思った。
閑散とした酒場を背にして大通りに出ると、まだ人がいた。安堵の溜息を漏らし、歩き出す。それだけで和んでしまう程、自分は心が弱っているのかと情けなく微笑する。
会話をしながら通り過ぎる人々を横目で見つめ、一人きり彷徨うマビルは知らず何度も溜息を零した。
まばらな人の流れの中、自分だけが暗い顔で逆走している。どうしようもなく胸が苦しくて、気づけば涙が溢れ出した。慌てて路地裏へと足を向け、逃げる。
自分の事など誰も見ていないだろうが、泣き顔など人に見られたくない。屈辱的だ、強い自分が壊れてしまって戻れなくなりそうだった。
……あたし、弱くない。人前で泣くのは、弱っちい奴がする事。あたしは、強い。強くて可愛いマビルちゃんなんだから。
路地裏で極力音を立てないように鼻水を啜り、涙を拭う。必死に自分を奮い立たせる。そうしないと、自分を保てない。
平然を装うために大人しくしていると、不意に聞き覚えのある声が耳に届き、弾かれて顔を上げた。
「クレシダ、こっちだ。クレシダ?」
瞬きし、耳を澄ます。
確実に知っている声だ、いつか身体を重ねた男だろうかと首を傾げる。潤む瞳を擦り、瞳を細める。
金髪に、碧の瞳。頭部から二本の角が飛び出している男と瞳が交差した。無表情で何を考えているか解らず、他人を寄せ付けない雰囲気の男は整った顔立ちをしている。人間界にいる筈なのに、明らかに人外の男。
しかし、魔族ではない。
二人は、暫し見つめ合う。
マビルは、顔を顰めた。美形の部類に入るのだろうが、好みではなく、出来れば近づきたくない男だと直感する。毛嫌いする者は、見た瞬間に判断出来る。
記憶の糸を手繰るが、この男は知らなかった。記憶違いか、と踵を返したマビルだが、顏は知らなくても名前は知っていた。
驚いて大きく瞳を開き、振り返る。
「そうだ、“クレシダ”! トビィの竜の名前!」
悲鳴のように絞り出した声は、語尾が掠れていた。
先程の声の主は、トビィだ。耳に心地良い、美形特有の甘くて冷たい声は忘れたくても忘れられない。
けれども、遭いたくない相手。
マビルは途端逃げ腰になり、吐瀉物で汚れた壁にもたれていた。口を塞ぎ、蒼褪めた顔で息を殺す。
「早く合流しよう、アサギが待ってる」
「……そうですね。行きましょうか、主」
狙われた獲物が逃亡する為に神経を研ぎ澄ませ周囲を窺うように、躍起になって会話を聞き取った。
この位置からではトビィの姿は見えない、しかし、確実に壁の向こうにいる。アサギの傍にいて、彼女を護り続ける憎たらしいくらいに厄介な男がすぐ傍に居る。
そのトビィが『クレシダ』と呼んだ男。
マビルの知っているクレシダは、竜だった。確かに今の男は人間でも魔族でもない雰囲気だが、竜があのような姿になることなど有り得ないと爪を噛む。
「どういうこと……? 勇者御一行様なら、そんな馬鹿らしいことも可能なの?」
人型のクレシダに戸惑い、恐る恐る再び視線を投げかけると、こちらを睨むように観ていた眼光と交差する。喉の奥で、引き攣った悲鳴が漏れる。
けれども、身構えたマビルを気にも留めずにクレシダは立ち去った。
唖然として流れる様な金髪を目で追うと、ようやく、鼻にツンとした異臭を感じる。まだ新しい吐瀉物にここで気づき、喉まで胃の中の物が込み上げる。
どうにか口を押え、吐き出したいのを堪えながら逃げた。
トビィがいるということは、アサギがいるということ。
逃げなければならないと、本能が急かす。こんな情けない姿など見られたくない、助けも乞いたくない。
息を切らせ、迷路のような街を奔走する。何処へ行っても、人影に怯えた。恐らく、他にもアサギの仲間が大勢いるに違いない。
嗤いながら取り囲まれている気がする、何処へ逃げても把握されている気がして歯が鳴る。
これでは、袋の鼠だ。
もう、何処へ逃げればよいのか解らない。確実に追手は近づいている。
心付くと、街を飛び出し森に逃げ込んでいた。大きく肩で呼吸をしながら、月を仰ぐ。
魔界を飛び出し、自由になれたと思ったのも束の間だった。ここは、あまりにも窮屈だ。
そして、怖いもので埋め尽くされている。どうしても逃げきれない夜は、毎晩やって来る。
夜に一人きりで眠る恐怖から逃れる為に、明日から昼間に眠ろうと考えて情けなく微笑んだ。
夜露に濡れた草で、足元が冷やされていく。それでも、冷たい寝台で眠るよりも心地良いものに思えてしまった。
「一体、あたしはどうしてしまったの」
頭上の木で、梟が啼いた。二羽いるらしい声に、肩を竦める。
「鳥ですら、一人ぼっちじゃないのね。じゃあ、あたしは……なんなの」
低く笑うと、肩を落とす。俯いて、あてもなく森を徘徊した。歩いていたら、眠い身体も起きていられる。怖くない。
どれだけ歩いたのだろうか。
急に降り出した小雨を疎ましく見上げ、大木の下に逃げ込み一息つく。
そろそろ、疲れてきた。
「さむ……」
震えて腕を擦りながら、前髪から滴る雨をぼんやりと視界に入れる。
ふと、その前方が淡く光っていることに気が付いた。
焚火ではないその光が、妙に柔らかく暖かなものに見える。引き寄せられるように近づいていく。
「なに、これ?」
それは、森の中に浮かんでいた。
初めて見る優し気な光を放っているそれに手を翳すと、懐かしさを感じる。
普段のマビルならば、地面に目を落とし気づけただろう。それが、転送陣であるということに。
けれども、温もりを渇望していた為、無防備にも手を伸ばして口元を緩める。怖さなど微塵も感じず、安心できた。
転送陣に浮かぶ発光体に、指先が触れた瞬間。
「っ!?」
発光体に、身体が吸い込まれた。
悲鳴を上げる余裕すらなかった、ただ、巨大な波に連れ去られるように抗うことも出来ず、膨大な光の渦に身体が投げ出される。
目が回る、呼吸が止まる。
けれども何故か、悪い気はしない。大きな掌に包まれているようだった。
「……な、なんだ、ここ」
マビルは喉の奥から込み上げて来た胃液に咳き込んだ。口元を押さえ、力なく蹲る。