外伝2『始まりの唄』14:夫の兄
文字数 3,730文字
ここは夢の国だろうか、と呆けたアリアは幾度も瞬きを繰り返す。無意識の内に隣に腕を伸ばし、トバエを捜した。
身体中が痛い、関節が軋む。瞳に映る光は眩く、異空間に迷い込んだように思えた。
「トバエ……?」
懸命に腕を動かすがトバエはいない、不安で胸が押し潰されそうだ。
軽くて暖かな布団を跳ね飛ばし、巨大すぎる寝台で唖然とした。ようやく思い出したのは、忌々しいあの出来事。夢ではない、現実だ。頭痛に吐き気が押し寄せ、口元を押さえてガタガタと震える。恐ろしくて鮮明には思い出せないが、あの街で多くの人が亡くなってしまった。
ただ、瀕死の状態であったトバエは嫌でも覚えている。生々しい血の感触に臭いが、今も身体にしみついている気がした。
「目覚めたか、アリア。良かった、何が食べたい?」
ベッドの上で縮こまっていると、トダシリアがやって来た。
目が合うなり、アリアはこの男に唇を蹂躙されたことを思い出した。カッとなって、慌てて布団を被った。震えながら唇に指を添える。あんなにも荒々しい口付けなど、したことはなかった。いつもトバエは優しくて、すぐに蕩けてしまう。
しかし、トダシリアの口付けには魂を引き出されるような恐ろしさがあった。
「やれやれ」
トダシリアは布団を剥がし、小さく悲鳴を上げたアリアを軽々と持ち上げるとソファに移動し腰掛けた。
「二日、眠っていた。華奢なのだから、きちんとお食べ。ふくよかで柔らかな胸をオレも堪能したい、痩せられては困る。何が好きだ、甘い果実はどうだ。」
笑いながら言うトダシリアに、我に返ったアリアは悲鳴を上げた。
全裸だ。
身体から甘い花の香りが漂っている、気を失っている間に身体を洗われたのだろう。自分ではない匂いが、よりいっそう不安を掻き立てた。
これから一体、どうなってしまうのか。
トダシリアは鼻で嗤い、傍らの果物籠から瑞々しいマスカットを一粒とる。自分で味わってから、俯き震えているアリアの唇に近づけた。
「口を開けて、アリア。美味いぞ、これは」
唇に触れる、芳醇な香りの果実。アリアは大きく喉を鳴らし、それを凝視する。確かに喉が渇いている、だがこの男の言いなりになりたくない。
「まったく強情な奴」
トダシリアは大きなため息を吐き、微動だしないアリアを面倒そうに見下ろしながらマスカットを食べ続けた。空中に甘い香りが漂う。
「あ、あの、トバエは。……トバエは本当に無事でしょうか」
ようやく口を開いたと思ったら、出て来た言葉は“トバエ”。トダシリアの眉が一気に吊り上がり、大袈裟に脱力しソファにもたれかかると、マスカットを何粒も口に放り込みながら懇願するようなアリアの瞳を見返した。
「約束しただろう、生きている。ただ、まだ意識が戻らない。生きるか死ぬかは本人の気力次第だと、医者は言っていた」
「あ、会わせてください、看病させてください!」
「無知なお前が行ってどうする、邪魔になるだけだ。そういうことは医者に任せ、オレの傍に居ろ。お前の夫は、このオレだ」
「ほ、ホントは、トバエを助けてなどいないのでは!? ここにはいないから、会わせられないということではっ。私を、騙しているのでしょうっ」
「オレを愚弄するのか?」
この男の紡ぐ言葉が真実かどうか見極められず、アリアは無我夢中で叫んだ。
トダシリアは癇癪をおこすアリアをしかめっ面で見つめると、頭を掻き毟る。
「生きていると言ったろう……全く。まぁ、今すぐに放りだしても構わないがな、オレは。トバエが生きるか死ぬかは、アリア次第。お前の綺麗な鳴き声が聴きたいから、まずは喉を潤せ」
残り少なくなったマスカットの房を摘みあげると、口を軽く開けて一粒もぎ取る。アリアの頭部を押さえ顔を近づけると、咥えているマスカットを唇に近づける。
舌先でマスカットを押してくるトダシリアに、アリアは抵抗した。断固として唇を開くまいと拒んだが、鼻先をくすぐる甘い香りの誘惑に負け、受け入れる。口内に入ってきた冷たいそれは軽く潰すと、途端に甘味が口内に目いっぱい広がる。
それは初めて食べる美味なものであり、舌も喉も蕩けてしまうかと思った。
「お、美味しい……!」
「だろ? オレの好物だ。……“昔から”これが好きだった。アリアの髪の色に似てるだろ、陽が当たるとそっくりだ」
嬉しそうに笑ったトダシリアと目が合い、アリアは慌てて顔を背ける。今の笑顔は、若干トバエに似ていた。確かに、性格は正反対だが外見だけは双子に見える。狩りから戻り、嬉しそうに獲物を差し出した時。河で水浴びをし、布を差し出した時に浮かべるはにかんだ笑顔。手料理を美味しいと何度も誉め、食べ終わった後に頭を撫でてくれる時の微笑。
そして、優しく口付けをし、寝台で甘い時間を過ごす時。
トバエの笑顔と、目の前の男の笑顔が重なる。眩暈と、耳鳴りがする。
「アリアが従順であれば、トバエは必ず治療してやる。悪いことではないだろ? さぁ」
再び、マスカットを咥えたトダシリアの顔が近寄ってきた。躊躇し、軽く身動ぎしながらも、アリアは大人しくそれを受け入れた。
「いい子だ、アリア。もっとお食べ」
素直に食べたアリアに、自然とトダシリアの機嫌が良くなった。喉が動いたのを見計らい、再びマスカットを口に咥えて顔を寄せる。甲斐甲斐しく、親鳥が雛の世話をするように運び続ける。
頭部をゆっくりと撫でられ、アリアは困惑した。あまりにも優しい手つきと表情に、混乱する。この男が何をしたのか忘れているわけではないが、流されそうな自分に腹が立った。
……似ているからといって、気を許しては!
心の奥で、叫ぶ。それでも、その仕草がとても懐かしく、酷く繊細に思えてアリアは再びマスカットを口から戴く。
……初めて食べる果物なのに、私、これを知ってる。以前も誰かと一緒に食べた気がする。そして、その人に、髪の色と似ているって言われた気がする。
この行為が神聖なものに思えて、アリアは太腿に爪をたてた。そんな筈はないのに、身体が求めてしまう。この男に撫でられると心地良い事を“知っている”。
……この人は、トバエじゃないのに!
やがて、最後の一粒になった。
房を放り投げマスカットを咥えたトダシリアは、先程と同じ様にアリアの唇へと運んだ。
唇を開き、口内に入ってきた冷たい果実を潰そうとした瞬間、アリアの瞳が大きく開く。何か、熱いものが侵入してきた。顔を顰め、身体を引き攣らせた。
トダシリアが覆い被さってきた、体重がかけられソファに押し倒される。混乱し足をばたつかせるが、ささやかな抵抗は相手を面白がらせるだけだ。
「ん、んぅっ」
口内のマスカットが、二人の舌でなぶられる。何もかも全てを堪能するように、トダシリアは巧みに舌を動かし、マスカットを適度に潰しながらアリアの舌を吸う。
「ん、やぁっんっ」
くぐもった声をもらし、嫌がるアリアの身体を容赦なくトダシリアの手が這う。
「二日も待った、紳士的だろ? 初夜は寝台を好むか? だが、オレは限界だ、まずはここで声を聴かせろ」
初夜、という単語にアリアが悲鳴を上げる。全身に鳥肌がたち、全力で暴れた。
「い、いや! 止めてくださいっ、トバエ、トバエーっ」
懸命に、夫の名を呼んだ。来ることが出来ないと解っているが、泣きながら名を呼ぶ。
「止めてくださいと言われても、二日前にアリアが『全てを捧げます』言ったろう。体力が戻ってから抱こうとしたが、うっとりと身を任せ口付けを受けるから、我慢が効かなくなった。煽ったお前が悪い。腹が減っているなら言え、そこに菓子を用意してある。果物をふんだんに使った甘い焼き菓子だ、好きだろう? 肉が食いたければ言うといい、持って来させる。オレは満足するまでアリアを抱く、食べておかねば体力がもたんぞ」
今ここで腹が減っている、と申し出ればそれは叶えられた。その間、トダシリアは律儀に手を出さなかったろう。つまり、延ばす事は出来た、回避は難しくとも。だが抵抗を続け、逃げることしか考えられなかったアリアはそこまで頭が回らなかった。
トバエとは違う重みと香りに、全身が拒否をする。顔のつくりは確かに似ている、髪の色も瞳の色も、同じだ。
しかし、どうしても違う。
「トバエにっ! トバエに添い遂げると誓ったのです! どうか、どうか、御止めくださいっ」
「安心しろ、神からの言葉だ。『トバエを忘れトダシリアの妻となり、全てを捧げよ』だとよ、よかったな」
アリアは恐怖に脅え、残忍に笑うトダシリアを見つめる。
逃げる事など出来ず、泣き喚いても叫んでも誰も助けてくれることは無く。アリアは散々身体を弄ばれた。それは、夫とは違う行為。トダシリアが快楽を得る為だけのものであり、愛などない。
アリアは耐え切れず、やがて意識を手放した。