外伝6『雪の光』2:従騎士と侯爵
文字数 4,961文字
この話は近郊にまで知れ渡ったが、未だに目撃情報すらない。知人であるラングの屋敷に留まり吉報を待つも、食欲不振で塞ぎがちなアルゴンキンに皆は同情した。人柄の良い彼は、誰からも好かれていた。彼の身の上を心底案じ励まそうとするが、上手く言葉が出てこない。多くの者達はもどかしい思いを抱いたまま、遠くから眺めることしか出来なかった。同情したところで、彼は喜ばないというのに。
豪商ラングは、あの日から自分を責め続けた。
何故ドレスを、そして新薬を忘れていたのか。あの時、呼び止めなければよかったのではないか。しかし、詫び続けるよりもアロスを捜し出す事が先決。疲労困憊ながらもラングは怒鳴り散らし、見つけた者には賞金を出すと呼びかけ、自ら路上に立ち捜索願の紙を人々に手渡した。
寒空の下で訴える彼の熱意に、誰もが足を止めた。
「アロスは……妻の忘れ形見だ。それに、あの子は声が出せない。助けを呼ぶことすら出来ぬというのに」
「おぉ、我が友アルゴンキンよ。すまぬ、私が全て悪いのだ。訓練された精鋭部隊を門に配置していたのに」
「ラング殿、幾度も言うがそなたが悪いわけではない。こうして私を支えてくれている、心から礼を言うよ。こちらこそ、頼ってしまうことを許してくれ」
すっかり痩せ衰えたアルゴンキンに、ラングは涙した。
いかなる時も冷静で堂々としており、清潔な紳士だったアルゴンキンが、今は無精髭をはやし、みすぼらしく見える。けれど、無気力な彼を誰が咎められよう。
「しかし、こうも長居しては。領土も心配だ、そろそろ戻らねば」
「些細な事でも掴めたら、至急連絡致す。アロス嬢が戻られた時、そのようなお姿では悲しむだろう。養生されよ」
「かたじけない……」
しかし、帰る前にアルゴンキンは過労がたたって体調不良で寝込んでしまった。
ラングはすぐさま街の有能な医者を呼び、手厚く看病し励ました。
そこへ、ようやくアルゴンキンが待ち侘びていた男がやってくる。
「ラング様! アルゴンキン様の従騎士トリフ殿が参られました」
その知らせに、臥せっていたアルゴンキンの瞳に光が灯る。溺れていたようにもがいて、夢中で寝台から起き上がった。咳込み、足元ふらついて床に倒れこんだが、這いつくばってでも逢おうとした。
「旦那様、着いたばかりで申し訳ないのですが、長期休暇を戴きたいと思います」
軽やかな声が、陰鬱な室内に響き渡る。まだ若い、それでいて全てを知り得ている賢者のような、知性高い声だった。
「お、おぉ、トリフ!」
扉から入ってきた見慣れた男に、アルゴンキンは涙を流す。
下の客室で待つようにと言われていたのだが、無視してアルゴンキンが寝ていた部屋までやってきた。後方から、狼狽する館の者達がついて来る。
紫銀の長い髪を後ろで一つに縛り、額に布を巻きつけた美青年が立っている。端正な顔立ちと、無駄のない筋肉、長身に見合った手足、にこりとも微笑まないが、それがさらに美しさを際立たせていた。美の結集とされた芸術作品の彫刻に命が吹き込まれ、動いているように。
女中の何人かはすでにトリフに心奪われており、うっとりと見つめている。
「アロス様を捜しに行きます」
「捜しに……行ってくれるのか、トリフ」
「当然です。許可さえ頂ければ、すぐに発ちます」
従騎士でありながら、アルゴンキンと対等に会話しているこの謎めいた青年に、皆は圧倒された。話には聞いてた、養子に迎え入れるのではないかと噂される有能な青年のことを。
本来ならばトリフも、アルゴンキン、アロスと共にラングを訪れている筈だった。けれども、その数日前に領土で大雪による災害が発生し、その対処に出向いていた。従騎士とはいえ、彼はほぼ騎士。信頼されており、この件を一任されていた。
「報告書は、アルゴンキン様の執務室に。落ち着きましたら、御一読ください」
アルゴンキンは淡々と述べる彼に頭を下げ、震えた。
「ありがとう、よくやってくれた。頼む、トリフ。アロスを……どうか」
「勿論です、ご心配なさらずとも。……では、失礼致します」
早々に踵を返したトリフに、黄色い声を上げたいのを我慢し女達は凝視する。それでも、一目こちらを見て欲しいと切に願い、腕を伸ばした。
色めき立つ女達を押し除け、ラングは大急ぎで階段を下り、トリフの後を追った。
「私からも頼む、あのように痛々しいアルゴンキンの姿を見るのは……耐え難い」
トリフの脚が長いので、歩数が合わなかった。駆け足でどうにか追いつき回りこむと、深く頭を垂れて懇願する。
周囲の者達はそれを見て「従騎士に頭を下げるとは」と感服し、身分関係なく接する男の屋敷で働いていることを、光栄に思った。ラングは自責の念にかられたままであり、形振り構っていられない。
「…………」
しかし、トリフはそんなラングを一瞥しただけで無言で立ち去った。
その無礼な態度に憤慨する周囲の者にラングは苦笑し、首を横に振る。「彼はやり切れない怒りを抱えている。私が招いた悲劇なのだから、当然だろう」力なく呟くと気落ちして、足取り重くアルゴンキンの部屋へと戻る。
「元凶は、私なのだから」
自嘲気味に呟き階段を上ると、ふと、背筋が凍るような視線を受けた。見れば、一階からトリフがこちらを見据えている。胃がキリリと絞られる程の鋭利な瞳に、ラングは喉から悲鳴を上げそうになった。二十歳前後の若造だというのに、絶対的な威圧感がある。冷徹な瞳の奥深くに浮かぶ剣先が、こちらを向いている。それは、心臓を狙っているように思えた。
「……旦那様は人が良すぎる、疑う事を知らない」
トリフは、吐き捨てる様に呟いた。
周囲にいた多くの者は、それを聞き取ることが出来なかった。
だが、ラングは唇の動きとその視線から理解していた。ドッと、身体中から汗が吹き出る。足元から蛆虫が這いあがり、身体中を徘徊しているような気味の悪さを味わう。振り払いたくとも、瞼すら閉じることが出来ず動けない。目を逸らせないでいると、トリフは舌打ちしてそのまま出て行った。
外で、一頭の馬が嘶く。蹄の音が、徐々に遠ざかる。
金縛りが解けたラングは、徐々に指先から動かした。全身に鳥肌が立っている、衣服と擦れて痛いくらいに。
「ぉぶっ」
その場で、嘔吐した。眩暈がして膝から崩れ落ちる。
顔面蒼白のラングに慌てて駆け寄った衛兵らは、すぐに医者を呼んだ。
白湯を数杯飲み干し安堵の溜息を吐くと、頭を掻き毟り、ようやくラングは自分が無事な事を悟った。一瞬、死の世界へ行ってしまった気がした。
体調が戻ると、覚束無い足取りでアルゴンキンの部屋へ戻る。すると、彼は上半身を起こし、血色の良い顔で窓から外を眺めていた。
「……アルゴンキンよ、あの美丈夫が噂の従騎士かね」
思い出したくもなかったが、尋ねる。
アルゴンキンは大変トリフのことを気に入っている様子で、訊かれたことを光栄に思ったのか、朗らかな様子で語り始めた。まるで、自慢の息子のように。
「あぁ、トリフな。彼は捨て子だった」
「なんと、捨て子!?」
従騎士といえば、その多くが小姓を経た貴族や荘園主の子弟らのこと。ラングは唖然とした。
「赤子の泣き声がして馬車を停めると、樹の根元に寝かされていた。落ち葉が布団になってくれたのだろう、衰弱していたが、看病したらみるみる元気になった。子に恵まれてなかった側近の老夫婦に預けたが、目を疑いたくなるほどの優秀ぶりでね。それはもう、剣術はおろか、文学までも。彼らから話を聞き、小姓に迎え入れたのが随分最近に思える。アロスも懐いていて、本当の兄妹の様に仲睦まじい」
「それはよい拾いものをされましたな……」
「拾いものではない、贈りものだよ。よく働くし、頭もきれる、信頼している男だ。ゆくゆくは……アロスの婿にと思っている」
「どこの誰とも解らぬのに!?」
声を荒げたラングを、意外そうにアルゴンキンは見つめる。
「あぁ。血統などより、私は自らが信頼できる男をアロスの婿として迎え入れたい。トリフは、まさに理想そのもの。アロスに求婚してくださった侯爵がいるが……正直、私はトリフを選びたい」
ラングは、引き攣った笑みで自分の腕に爪を立てた。そして、顔を背けて恥ずかしそうに呟く。
「アルゴンキンは流石であられる、自分が恥ずかしい。身分に拘ってしまう自分を払拭出来ぬ」
「身分など、人の価値を決める要因にはならぬよ」
微笑し、医者に差し出された薬湯を飲むアルゴンキンの頬はうっすらと桃色に染まっていた。トリフの存在が、神秘な生命力を流し込んだのだろう。彼ならば、アロスを探し出せると信じ切っている。
偉大なアルゴンキンの恩恵を受けている従騎士トリフの話題は、その後も館で続いた。神の寵愛を受けた男と揶揄される程、彼は凡人にはない空気をまとっていた。
快復したアルゴンキンは、数日して領地へと戻った。
ラングはその後も、懸命にアロスの行方を探した。賞金の額も引き上げ、些細な情報にも耳を傾けた。
領地に戻ったアルゴンキンの元へ侯爵がやって来たのは、その数日後。
アロスを妻に迎え入れたいと言い寄っている男は、黒豹と呼ばれている。端正のとれた顔立ちだが、笑みを浮かべても冷徹そのもの。脳の回転が速い切れ者で、狡猾だと噂されている。真っ直ぐなトリフとは違い、影を帯び、容易に心を許すことが出来ない相手。一癖ありそうだが、アルゴンキンは噂ではなく自分で見極める為、交流している。
彼は、ほんの一年前に「アロス嬢を頂きたい」と申し出てきた。
十四歳になると、貴族の娘らは社交会に出る。アロスが初めて出席した場で見初めたらしいのだが、ベイリフは二十八歳だった。本妻はいないとのことだが、トリフの件がなくとも、アロスと一回りも違う男に嫁がせるのは如何なものかと頭を悩ませただろう。
確かに、トリフに負けず劣らず見た目は容姿端麗。漆黒に近い深緑の髪は艶やかで、眼光は鋭く、利発な顔立ちをしている。槍の扱いに長けた男で、幾度か受賞しているらしい。三十近いとは思えない身のこなしと、若々しい顔立ちが印象的。彼が一歩進むと、空気がシン、と澄むような気がした。
女性の支持は高いが、にこやかな表情は作り物で、裏で酷薄な笑みを浮かべた本当のベイリフが状況を分析しているような気がした。正直、快く思っていない。
のらりくらりと交わしていたが、ここへきて断れない条件が引き合いに出された。
「どうです、見事私がアロス嬢を捜し出すことが出来たならば。婚姻を認めてくださいませんか?」
堂々と言い放ったベイリフに、アルゴンキンは低く呻いた。
「トリフが捜索し、ラング殿も誠意を尽くしてくれているので、貴殿が捜し出せるのかは……」
「確かに彼は優秀です、アロス嬢も懐いておられる。ですが、人が多いにこしたことはない」
アルゴンキンは、眉間に皺を寄せて思案した。うっすらと不敵に微笑む、この目の前の侯爵を信用してよいのか不安が過ぎる。けれども、アロスの行方は未だに掴めず、トリフ一人では確かに心許無い。娘の命には代えられないので、渋々了承した。
「ただし、アロスを無事に救出したとしても、娘の気持ちを考慮したい。話はそれからでよろしいか」
「彼女に気に入って戴けるよう、頑張らねばなりませんね。いやはや、これは手厳しい。トリフ殿とは旧知の間柄でしょう?」
困惑してみせつつも、ベイリフの声色は明るかった。
勝気な意味合いにとれて、アルゴンキンは唇を歪める。鼓動が、狂う。すでにアロスを匿っており、茶番を見せられているのではと勘ぐってしまった。
そんな様子を気にせず、アロスへの贈り物として流行のドレスを置き、ベイリフは小さく笑い去って行った。
アルゴンキンは愛娘の無事を祈り、トリフが救出して欲しいと切に願った。無論、自らも兵らを四方に派遣した。
アロスが消えてから早三十日。未だに、何の手がかりもない。
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挿絵のベイリフは、上野伊織様より頂きました。
★著作権は私ではなく、上野伊織様にございます。
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