嵐の前の静けさ
文字数 3,056文字
カーテンがないその部屋には、太陽の日差しが痛いくらいに降り注いだ。容赦ない眩しい光に、微睡むことすら許されず顔を顰め目を醒ます。
……朝など、来なければよかったのに。
アサギが腕の中から離れていく時間が来た。宵闇のマントが暴かれると、愛しい人は光と共に消えていく。
小さく欠伸をして、トビィはしかめっ面をする。隣でぐっすり眠っているアサギの頬に口付けると、再び布団に埋もれた。寝坊したと言い訳し、起こさないでおこうかとも思ったが良心が痛む。
「クソッ」
舌打ちすると、いやいやながらにアサギを揺すった。
「アサギ。起きなさい、アサギ」
トビィの声は、普段より掠れている。旅の最中は最低限の睡眠でこと足りたが、魔王を倒してからは身体を休ませられる時間のほうが多く、そちらに慣れてしまった。気怠く髪をかき上げる。
怠惰ではならぬ、とは思う。しかし、アサギの隣は寝心地が良い。
「はぁい……?」
自分が何処にいるのか解らず、目の前のトビィを瞳に入れても覚醒しないアサギは、暫し寝ぼけていた。だが、頬を軽くつままれると急に意識が鮮明になる。学校を思い出し、蒼褪め一目散に地球へ還る。
「トビィお兄様、またです!」
「いってらっしゃい、無理はするな」
「大丈夫です、いってきます!」
トビィは嵐のように去って行ったアサギに苦笑した。すぐに表情が翳り、先程まで手元にあった温もりが消えたことに傷心する。
「ふぅ……。慌ただしいことで」
それでも、寝台にはアサギの香りがほんのり残っている。温もりを求めるように寝台に再び沈んだトビィは、すぐに瞳を閉じて眠りに入った。
その為、不快な音に気づけなかった。普段ならば、部屋の外に反応していただろうに。
ギリリリリ、と壁が削れる音がする。
「アアアアアアァんの汚らしい雌豚っ!」
「どういうことなのっ、
このままでは館一つ崩壊させてしまいそうなほど、ミシアの気は乱れている。流石にそれは拙いと判断する冷静さは失っていなかったらしく、耐えきれず館を、そして街を飛び出し、鬼のような形相で森へ飛び込んだ。
言葉にならぬ奇声を発しながら、地面を転げまわる。
夢の中で、トビィの腕の中にいたのは自分だった。それが現実であると錯覚していたので、唐突に突きつけられた現実に絶望する。
「腹部を斬り裂いて臓物を引き摺り出し、踏みつぶしてやりたいっ! 許さない許さない許さない許さない、キィィエエエエエエエ!」
血走った瞳で周囲の空気を凍てつかせる呪いの言葉を轟かせるミシアに、森の動物は恐れをなして逃げ出した。
鳥のさえずりが聞こえる。
欠伸をしながら授業を受けていたアサギは、教室のカレンダーを盗み見た。
明日が光って見える。
トランシスに逢える日だが、平日の為、学校が終わった夕方からしか会えないのが辛い。
「がんばろっと」
気持ちを入れ替え、授業に専念する。勉強は嫌いではない、新しい事を覚えられるので好きだった。知識を蓄えることは愉快であり、必要な事だと思っている。
「私は、たくさんお勉強をして学ばねばならない」
他の生徒らは、常に成績がトップのアサギが何故貪欲に勤勉に励むのか不思議だった。
しかし、アサギには理由がある。
学校が終わると駆け足気味に家に帰り、宿題を確認したアサギは再び異世界へ出向いた。
「戻りました、トビィお兄様!」
「お帰りアサギ」
腕を広げて待っていたトビィと共に、例の村へ急ぐ。
昨晩、見回りの為に村へ向かっていたトビィは何故アサギがそこにいたのか訊ねた。疑問に思う以前に、夜中に単独行動は危険だと告げたかった。
「誰かに呼ばれたような気がして……」
自信なさそうに告げたアサギを、クレシダが不思議そうに見やる。
「それで、一応村には立ち寄ったのです。私、何もしていないのですが感謝されました。ただ、眠くてすぐに村を出てしまって」
アサギの行動は、曖昧だ。
トビィは心配そうにアサギを見つめ、小さな溜息を吐く。
「昨夜は無事だったのか。危険な目には遭わなかったのか?」
「はい、特に何も」
“破壊の姫君”がアサギである確証はない。しかし、今のように本人が何かを隠しているようにも見える。もしくは、
だとすれば、アサギの中に別の人格がいると考えてもよいのではないかとトビィは思った。
今までも、不思議な事が多々起こった。
旅をしていた時、森で魔術師のなれの果てに遭遇したことがあった。あの時、トビィが駆け付けるとアサギは『倒した』と告げた。
魔王戦の時、アサギはミラボーを倒したと告げた。倒すまでは可能であれ、あの時満身創痍で地に伏していた仲間たちを一斉に完治させることが果たして可能なのか。
たびたび、訝った。
だがトビィは、アサギが何者であれ態度を変えることはしない。無事であれば、それでよい。息を凝らし、アサギをじっと見つめる。端正な横顔は美しく、見惚れてしまう。
「どうかしましたか、トビィお兄様」
「いや。……元気そうで何よりだと思って。寝不足だろう?」
トビィは誤魔化す。結局、アサギが何者であれ彼女についていくだけだと、再確認しただけだった。
村に到着するやいなや歓迎され、褒め称えられたアサギとトビィは気まずそうに顔を見合わせる。
村人曰く、『昨夜アサギが一人で立ち寄り、魔物と戦ってくれた』と。確かに、周囲から妙な気配は消えている。
念の為結界を再度張り、二人は早々に村を後にした。このままいては、祝賀会が始まりそうな雰囲気だった。
「私の偽物? さんが魔物を退治してくれたのでしょうか。つまり、悪い人ではないのでは。今までは運が悪くて、たまたま火事になってしまったとか」
付近の街に立ち寄り、茶を飲みながら二人は会話する。
「
「で、でも、彼女の本心とは裏腹に偶然が重なり続けて……と信じたいです」
トビィは、瞳を細めて俯いたアサギを見やった。
意外にも、“偽物”を庇っている。悪人などいない、と人を信じる癖があるアサギは、極力人を疑うことも、恨むことも、怒りの矛先を向ける事もしない。
それが後々、身を滅ぼしそうで怖い。言い知れぬ不安が過る。
「それにしても、そんなに私と似ているのでしょうか。双子みたいですね! 逢ってみたいです」」
実際にアサギに出会った人々をも信じ込ませるだけの容姿を持つらしい“偽物”に、トビィは低く唸る。
「少しは危機感を持て。そもそも、アサギに瓜二つの存在などいるわけないだろう」
ここまで美しい娘が世の中に二人存在するなどあってはならないと、トビィは肩を竦める。不服そうに頬を膨らませたアサギの頬を、優しく撫でた。
暫し語らっていたが、すっかり暗くなった周囲に急かされるようにして二人は帰宅する。何かあれば、すぐに連絡をすることを約束して。
地球に戻ったアサギは、きっちり宿題を終え眠りにつく。
「おやすみなさい、トランシス。明日、逢えるね!」
布団の中で、くすぐったい笑みを浮かべる。
名前を呼ぶだけで、心が爆ぜそうになった。もどかしいけれど、心地良くて、毎日が愉しみで仕方がない。
彼の事を考えていると、どんなことも幸せへの過程に思えた。