火に油を注ぐ
文字数 3,363文字
仏頂面のトビィとトランシスを皆は一瞥し、黙々と食べる。
「こらトビィ。卵ばかり食べるなよ」
トビィはアサギが焼いた卵ばかりを食べるので、アリナが目くじらをたてた。しかし、しれっと無視する。断固として、ミシアがこねたパンを口にすることはなかった。
「大丈夫、トランシス?」
気難しい顔をしたままで食が進まないトランシスを、アサギは心配して覗き込む。
「あ、あぁ、なん、とか」
「次は剣を扱うみたいだよ、頑張って! でも、無理はしないでね」
「あー……うん」
気乗りしないが、アサギが応援してくれるのならば断れない。トランシスは作り笑顔を浮かべながら、トビィを睨み付ける。
その斬るような鋭い視線に気づいたトビィも、同様に睨み返した。
「うっわぁ、めっちゃ二人共仲悪い」
「解っていたことだけど、相当険悪ね」
アリナとマダーニは、顔を見合わせると呆れて深い溜息を吐く。
そう、解っていた事だ。
アサギを中心にどうしたって男同士の争いが起こる。大なり小なり、確実に。
暗雲轟かせていた朝食を終えると、トランシスは大きく伸びをした。すぐに動くのは身体に負担がかかる為、稽古開始まで猶予がある。
てきぱきと片付けをしているアサギに感心しつつ、テーブルに突っ伏したトランシスは欠伸を繰り返す。
「オレ、この世界は嫌いだなー……。というか、この場所が嫌だなー」
率直な思いをぼやいた。
ここへ来ると、必ず誰かに干渉される。二人きりでいたいのに、どうしても邪魔が入ってしまう。
「アサギ―。アサギが足りないー。アサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギ!」
「ど、どうしたの!?」
食器を洗い終えたアサギが、エプロンを外して近寄る。不安そうに眉を寄せ、具合の悪そうなトランシスを覗き込んだ。
ふわりと漂う甘い香りに顔を上げたトランシスは、口元を意地悪く歪める。
「ねぇ、アサギ。口づけして、今ここで」
「え、えぇ!?」
「早く。でないと……オレはアサギ不足で死ぬ」
「あ、あぅ」
体調が悪いのではないかと心配していたが、杞憂だったらしい。元気そうだが、想像しなかった要求にアサギは顔を赤らめる。困惑し、多少は抵抗の素振りをみせたものの、せがむように唇を突き出したトランシスに観念した。
「ん……」
ぎこちなく、唇を合わせる。
こんな場所で口づけなど、誰かに見られたら顔から火が出るほどに恥ずかしい。そもそも、自分から口づけるのも眩暈がするほど焦ってしまう。
すぐに離れようと焦るアサギだが、トランシスは細い腰に腕をまわして捕えた。柔らかい唇が離れる前に、抱き寄せて強く吸う。腕の中で抵抗するアサギが可愛らしく、必要以上に力を籠めた。
唇同士が糸を引き、室内に粘着音が響く。
「だ、だめ、だめだってばっ」
泣きそうになりながら繰り返すアサギなどお構いなしに、トランシスは唇を蹂躙する。
荒い呼吸を繰り返し、ようやく離れた二人は熱っぽい視線で「好き」と囁き合う。
アサギの『ダメ』は、言葉だけ。互いに欲することは同じだと確信したトランシスは、それだけで強くなれた気がした。
「もう一回。あと、一回だけ」
離れた唇は、再び合わさる。熱を帯びる身体が、互いを求める。遠慮がちだった指や腕が、耐え切れずに絡み合う。
しかし、残酷だが時間はどうしたって廻るものだ。
手を繋いで庭に出た二人を、木刀を持ったトビィが待っていた。いつの間にやら観客が増え、ミノルたち勇者も混ざっている。
こんな戦いを見逃すわけにはいかないと、アリナが連絡をとって呼び寄せた。
「アリナもさー、人が悪いよ。わざわざ呼ばなくてもさぁ……」
「いーじゃん、いーじゃん! お祭りだよ、お・ま・つ・り!」
「うーん」
困惑するトモハルは、嫉妬丸出しの血走った瞳でトランシスを睨みつけているミノルを嘆く。元彼女が新彼氏と寄り添っているのを間近で見せられ、非常に気の毒だ。
「トビィ、叩きのめしてしまえ!」
「言われなくとも、そのつもりだ」
涼し気に言ったトビィにミノルは拳を高く掲げ、トモハルは肩を落とした。
騒がしい周囲など気にも留めず、トビィは無表情のままトランシスに木刀を一本投げる。人が増えようが、勝敗は決まっている。寧ろ多くの人の目に曝されたほうが、相手により一層の敗北感を植えつける事が出来て好都合だ。
ここでようやく、トビィは酷薄な笑みを口元に浮かべた。
弧を描いて青空を舞ったそれは、すんなりとトランシスの手の中に収まった。
緊張した面持ちのアサギは、手加減する気を見せていないトビィに不安を抱きトランシスの服を軽く引っ張る。
「トランシス、頑張ってね。でも、無理はしないでね?」
「あぁ、大丈夫。さて、その前に……」
右手で木刀を掲げ、トランシスは眩しい日差しを避けながら周囲を見渡した。名前はまだ一致していないが、気に食わない男たちが揃っていることだけは把握出来る。口角を歪め、挑戦的な視線を投げつけると、傍らのアサギを抱き寄せた。抱き慣れた細い腰から、尻の曲線をさり気無く撫でる。
ざわついた周囲に満足して鼻を鳴らすと、声高らかに告げる。
「口づけして。アサギ」
「ぇ?」
突拍子な言葉にアサギは目を白黒させたが、すぐに赤面し俯いた。
ミノルは泡を吹く勢いで倒れ、トモハルが悲鳴を上げて抱き起す。マダーニが口笛を吹き、アリナが唖然とし、トビィの怒りが頂点に達した。
「早く、アサギ。トビィさんを待たせたら悪いだろ?
「え、ぁぅ、えっ、ぇ、ぇえ!?」
余裕の笑みを浮かべたトランシスは、狼狽するアサギに顔を近づける。冗談だよね、と訴える瞳に、研ぎ澄まされた刃のような視線を返した。
「あ、あの、えっと、えっ!?」
海老反りになって逃げようとするアサギにも、限界が迫る。
「してくれないの? オレを応援してくれないの?」
「お、応援はする、けど、その、ここでは、ちょっと、あの、とっても、その、恥ずかしい」
半泣きのアサギは周囲を気にして口籠る。まさか自分から人前で口づけをするなんて、考えるだけで羞恥心で頭が沸騰しそうだった。
しかし、惚れた弱み。
寂しそうに瞳を落としたトランシスに胸がきゅうぅ、と締め付けられる。
「計算高い男!」
間入れず、マダーニが身を乗り出して呻いた。
「そうなの!?」
「我が物顔の男が、急にしおらしくなる……女心を揺さぶる常套手段!」
「ボクにはわかんないや」
白熱するマダーニを、アリナが隣で平然と見守る。アサギがどう反応するのか、そればかりが気がかりだ。
「まぁ確かに、アサギは強引なのに弱いよね」
まだ日も浅いだろうに、よく性格を理解しているなぁとアリナは別の意味で感心する。
しかし、前方から漂う冷気をアリナは察知し咄嗟に身構えた。こちらに敵意は向いていないというのに、殺気が周囲を包み込んでいる。冷や汗が溢れ出すほどに恐ろしい、憤怒の匂い。
トビィだ。
トビィが我慢のならない憤激を抱いている。恐らく、五臓六腑が煮えくり返っているだろう。こちらから表情は見えないが、凄まじい形相をしているに違いない。アリナの腕に鳥肌がたつ。見えなくてよかった、と安堵の溜息を吐いた。あてられた殺気で、こちらが傷を負いそうだ。
額に青筋を這わせ今にも斬りかからんばかりのトビィだが、辛抱した。アサギの目の前で無様な姿を晒すことは、避けねばならない。あの程度の挑発に乗るわけにはいかないと、必死に冷静を装う。
「……貴様はもう口を開くな」
ゆっくりと告げたその声は、絶対零度。しかし、薄ら笑みを浮かべたトランシスに堪え切れず舌打ちする。
「アサギ、ほら」
いやいや、と首を横に振るアサギの唇が震える。恥ずかしくて死んでしまいそうだった、大勢に見られての口づけなど無理だ。
顔から火が出る。
唇を尖らせ不服そうな表情をしたトランシスは、仕方ないと肩を竦めた。アサギ自ら口づけてくれたら絶大な効果を発揮したのだが、今は見せつけるだけでよしとしようと切り替える。
「そうか、じゃあ加護だけもらうね」
「ぅんっ!? っ、あっ、んむ」
皆の目の前でトランシスは、先程と同じようにアサギの唇を塞いだ。薄らと瞳を細め、炯々としてトビィを挑発する。