底闇の邪神~ミラボー~
文字数 6,017文字
豪快に笑い出すそれは、蛙が潰れる際に出すような、耳障りな音に似ていた。
それはミラボー、漆黒の中に身を潜めている魔王。時折微かに光る水晶を見つめながら、この世のものとは思えないほどの不快な嗤い声を発していた。耳を塞いでも脳に直接響いてしまう、聴いた者が発狂してしまいそうな程恐怖心を煽られる声。
その傍らに女性が一人、立っている。肩までの黒髪で、無気力な瞳だが整った顔立ちの美女である。彼女は顔色一つ変える事無く、ミラボーの傍らに仕えていた。
「ハイが、勇者とやらを迎えに行った。愉快愉快」
ミラボーが覗き込んでいる眼下の水晶に映っているのは、紛れもなく勇者アサギである。
「この娘、面白いのぉ。あのハイを、短期間で心変わりさせた。逢わずともただ、一目見ただけで、あそこまで変えた。他者を魅了するに長けた能力を持っているのだろうて、いやはや、それが滅びへと進むとも知らず」
重低音で笑うミラボーの首元で、身に纏っている宝石が煌びやかに光る。
あの洞窟内にて、ミラボーは音声を拾い上げていた。それは、ハイが知らぬ事実。ミラボーはハイから勇者の存在を聞いた後、すぐさま手下を接触させていた。
それは、勇者達が戦闘した死犬である。
常闇の権力者であるミラボーは、惑星クレオに張り巡らせておいた屍人形達を動かした。元は、“別の”目的に使用する為だったが、それが幸いした。犬達はアサギの魔法によって浄化されたが、勇者達の把握は出来たので直様別のモノを仕向け、静かに尾行した。
それは黒髪の娘、を追跡するように指示された。該当する人物は、ただ一人。
アサギである。
皆と逸れた後もアサギだけを追ったその追跡者。いや、“者”ではない、昆虫を模している小さな魔物だ。今も常にアサギの周囲を漂っている、誰が気づくだろう。
『この娘、人間じゃな』
吸血鬼クーバーが最期に漏らした言葉を聞き取り、ミラボーは歓声を上げた。人間ではないやもしれぬ娘、魔王すら一瞬で虜にした娘。
勇者アサギ。
「確信はない、あくまで憶測じゃが……」
傍らの女に、含み嗤いで語る。
「魔王を一目で虜に出来る“魅力”の持ち主で、勇者。そして、音声からこの娘の血液が何やら特殊であるということは解った。人間の血にしては妙に甘い、ときゃつは表現した。……以上を踏まえ、エルフに近い存在としよう」
瞳をらんらんと輝かせ、豪快に嗤う。
エルフ。一般的に姿を見せる事は無く、山奥で結界を張り、外部からの進入を極力拒んでひっそり生活しているとされる種族である。その容姿は皆美しく、誰もが瞳と心を奪われる。
エルフの血肉が魔力増幅の秘薬であるという事実を、今は知り得る者も少ない。自らの欲望の為に、その事実を漏らす者が減った為だ。エルフ自体が希少価値なので、欲するものが増えては自分への割り当てが減ってしまう。血液を体内に取り込めばそれだけでかなり魔力の飛躍になるのだが、無論、一滴残らず血も肉も喰らい尽くしたほうが当然飛躍率は高い。故にエルフをその目的で捕らえた邪な者達は、全員エルフを喰らい尽くした。中には、食する前に強姦する者らもいたが。何せ、容姿端麗なのだから。
しかし、エルフ達とて単に喰われるだけの存在ではない。その為、容易くは手に入らない。戦闘能力は高く、特に魔法と弓に優れている。しかし、強欲の前には彼らも押され、いつしか逃げ隠れるようになった。
時代に名を轟かせた魔導師や剣豪の多くが、実際のところエルフの血肉を取り込んでいた、といっても過言ではない。
その、禁忌を犯してまで飛躍を遂げた“異質”な者達だが、ミラボーとて例外ではなく、惑星チュザーレにてエルフを喰らい今の魔王の地位を手に入れたのだ。喰らった数は、軽く十を越える。
ただ己の魔力を高める為という、身勝手な欲望。魔王として君臨し、人間達を、そして神をも支配下に置く為だけに。
ミラボーの産まれは非常に低級な、ただの邪な一固体だった。小さくてみすぼらしい、頭に宝石のついた蛙のような魔物だった。現在の地位を手に入れるまでには、部下達が知り得ないミラボーなりの努力があったのだ。
それは、エルフを喰らい続けるという歪んだ努力。
偶然エルフの血液を口にしてしまった貧弱な蛙は、進化を遂げ続けた。やがて惑星チュザーレをほぼ制圧し、ここ、惑星クレオへと足を踏み入れた。
理由は単純だ、今の惑星には最早何も愉しみがない。人間等壊滅的で、多少抵抗があればまだ退屈凌ぎにもなるのだが、微弱なものでしかない。ミラボーを蔑んでいた者達が、自分に平伏す姿が面白かったが、その楽しみも頂点に立ってしまえば消えてしまう。
けれども、欲望とは恐ろしいもので尽ることはなかった。故郷の惑星には、ミラボーの求める刺激も優越もなくなってしまった故に、新しい自分の舞台を探してやって来た。
傍らには、有能な美しい人間の女を、一人だけ。
最初に異空間を移動したのは、一体と一名のみだった。新たなる惑星を蹂躙し、再び君臨する自分を想像したら異常な興奮状態になった。
他惑星の状況など、未知。自分以上の魔王が存在するかもしれないが、それを凌駕してしまえば良いだけだと考えていた。
だからこそ、面白い。万が一敗北に至れば、惑星チュザーレに帰還し、力を蓄えれば良いだけ。容易く打ち勝つのも愉悦だが、一旦は退けた者に敗北するという苦汁をなめる相手を見やるのも、また至高。
最終的にミラボーが勝者となるという絶対的な自信があった為、その過程は気にしない。
辿り着いた先である惑星クレオの魔王アレクは、自分とは異質な美しい青年だった。
瞬時に、虫唾が走った。人間を制圧するという意思が全く見られず、変革を期待していない無能な魔王だと判断した。そのような魔王ならば潰して成り代わってしまおう、ミラボーはその意図でアレクに近づいた。
けれども内に秘める魔力は本物であり、現在の自分とは互角であると察した。
物言わず、来訪者であるミラボーを静かな湖畔の水に似た瞳でただ見つめているアレクに恐怖を感じた。冷や汗が、伝った。こちらの腹に秘めた黒い澱みを見透かされている感覚に陥った。
腸が煮えくり返る思いだ、久方ぶりの屈辱である。
……こんな、若憎ごときに。
それでも、アレクはミラボーを邪険に扱わず、かといって優遇するでもなく一言告げた。
「居たいのならば、好きにすればいい」
拍子抜けする、一言だった。
相手にされていないだけなのか、ただ、他人と関わるのが面倒な魔王なのか。アレクの無表情ぶりにミラボーは意図が掴めず、歯軋りする羽目になる。非常に癪に障る魔王だと思った、何もかも全てにおいて。
それでいて、部下からの信頼は厚い事も、ミラボー的に釈然としない。あの、綺麗な鼻っ柱を折ってやりたい……ミラボーがその考えに行き着くまでに時間はかからず。
好意的に振る舞い、アレクに積極的に話しかけている滑稽な自分に虫唾が走る。しかし、胸の内には反逆の思い。
今のままでは勝てないことなど百も承知だったミラボーに、不服そうに傍らの女が囁いた。
「ミラボー様でしたらば、アレクなど赤子の手を捻るように」
「エーアや、真に賢く強き偉大な者は。このように万全を期してから行動するものだよ」
ミラボーは水面下でエルフを捜した、悟られないように単独で。惑星チュザーレのエルフは絶滅していたので、この惑星で探し出すより他なかった。
アレクの能力を超える為には、エルフを喰らうのが最も手っ取り早い。絶対的な力でアレクを凌駕する為に、最低でも二人は必要だと判断した。何者にも勝る自分は、敵と見なした者を確実に葬り去らねばならない。
それこそ、美学であり魔王である自分の矜持。
魔王アレクを完膚なきまでに捻り潰し、惑星クレオを手中にする……ミラボーが抱く現在の娯楽である。
「どこまで“二人”が魔力増幅の糧になるかは解らないが、血統書つきではあるからなぁ?」
嗤う、嗤う、ただ、嗤う。
ミラボーは心底愉快とばかり、涙を流してその不恰好な身体で床を転げまわっている。ミシミシ、と床が抜けそうな程軋むがお構いなしだ。
掲げている暗黒水晶に映るの娘は、アサギと……もう一人。金の長い髪が目を惹く、明快な美しい女性が映っていた。
まごうことなき、エルフ。
魔王アレクが時折城を空けている事は、以前から気になっていた。不審に思い幾多の魔族を唆して調べ上げたらば、ミラボーには予期せぬ歓喜の事実が判明した。
魔王アレクが出向く先は、恋人の元。その恋人がエルフだったとは、ミラボーの嬉しい誤算である。ただ、エルフと魔族の混血らしく、生粋のエルフではなかった。ハーフエルフであるものの、エルフの王族の血を引いている事まで調べあげることが出来た。
何処まで真実か定かではないが、ミラボーが突き止めた彼女の過去はこうだった。
『エルフの里を抜け出した一人の王女は、森の中で水浴びをしていたという。偶然通りかかった魔族の青年は、その王女に心を奪われて欲望のまま犯してしまう。その結果、王女はその魔族の青年の子供を身篭った。産まれた子供に罪はなく、魔族の青年を放り出しエルフ達はひっそりと混血の子を育てる事にした。しかし、王女もまた魔族の青年に心惹かれており、反対されながらもエルフの里で魔族の青年と暮らす事が許された』
その二人の娘である混血の王女は、名をロシファという。
他種族と交わった為か、寿命短く両親は他界したのだが、両親が亡くなってからも、非難を浴びる事無く愛されて育てられたらしい。
エルフは皆美しい容姿を持つが、混血とはいえ魔族の父も端正な顔立ちをしていた為、当然外見も美しく成長した。蝶よ花よ、と甘やかされて育てられた為だろうか、多少元気が良すぎるのが周囲の悩みの種であった。彼らの嫌な予感は的中し、好奇心旺盛な王女はエルフの里を飛び出してしまった。血相変えて連れ戻しに出たエルフ達であるが、その前に母親と同じく魔族の青年に出会ってしまったのだ。
数奇な運命に導かれるがままに。
銀の長い髪が風に靡く、金の長い髪が混ざり合う。
物静かにこちらを見据えていた、魔族の長である青年アレクと。
快活なエルフの少女は、互いに視線を逸らせずにいた。近づいたのは、どちらが先だったか。柔らかな日差しの中で髪と指が絡み合う。一目で恋に落ちた二人は、魔族の王とエルフの王女。
母親と同じように魔族の男に惚れてしまった王女に、案の定周りは反対した。しかし、アレクは純粋で真面目な青年だった。とても、魔王として魔族を率いているとは思えないほど健気で、どちらかというと弱々しくすら思える。
一方ロシファは、天真爛漫で怖いもの知らずの無鉄砲、アレクに対しても遠慮がない。
やがて、アレクが魔王ならば、上手くいけば魔族と協定を結び、敵から逃げるようにひっそりと暮らさずともよくなるかもしれない、と至福の未来を描き始めたエルフ達は二人の仲を赦した。仲睦まじく共に過ごす二人を見ているのは心地よく、またアレクの人柄もエルフ達は好いていた。エルフの里では魔王アレクを受け入れ、時間を見つけては無理をして訪れる彼を持て成しているという。
しかし、最近ではそのエルフの里は、何故かロシファと乳母の二人のエルフのみになったとの情報も得た。
好機だった、まるで運命がミラボーに味方したとしか思えなかった。他のエルフが何処へ消えたのかはミラボーの知ったことではないが、少なくともロシファと乳母、二人のエルフを喰らえるだろう。
混血のエルフの王女ロシファを喰らうことが、ミラボーの願望だった。
そこへ現れた、予期しなかった勇者の娘。
「エルフである可能性に賭けてみよう、勇者には特殊な血でも流れているのかもしれぬ。どちらにせよ、その血に増幅効果があろうがなかろうが、喰らってやろう」
ミラボーとて勇者を見たのは初めてのことである。未知の存在だ、自分を脅かす存在の筈だが、そうは思えなかった。仮に糧にはならずとも、喰らった時点で勇者は消滅し、葬り去れるのだからどちらに転んでもミラボーに損はない。
魔王アレクの恋人である、エルフの王女ロシファ。
魔王ハイの想い人である、勇者アサギ。
この二人を喰らってしまいたい、喰らって無限の力を手に入れたい。
「さらばだ、エルフの王女と勇者の娘。恨むなら己の血を憎むが良い。そしてアレクとハイよ、娘らと出遭ってしまった己の不幸を嘆くが良い」
愉快である、嗤いが止まらない。
魔王アレクと魔王ハイが愕然として、自分に成す術もなく朽ち落ちる瞬間を見てみたい。
想像しただけで、恍惚の笑みが零れてしまう。
問題は、残る魔王リュウだ。
しかし、そこまで他人に関心を示していないように見て取れるので、干渉はしてこないだろうと判断した。流石に三人の魔王を同時には相手に出来ない、だが単独ならば順次抹殺できそうだった。
“あと二人以上、エルフを喰らいさえすれば。”
魔王ハイは、勇者を迎えに行った、唆されて、迎えに行ってしまった。近いうちに勇者という名の“贄”を連れて戻ってくるだろう、隙を見て喰らってしまえばよい。
魔界に勇者を持ち込んで、何も起こらぬなどと楽観的に考えているハイが悪い。
「さて、どちらの娘を先に喰らうべきかねぇ」
愉快そうに喉の奥で嗤うと、「エーア」とミラボーは呟く。傍らの女が、短く返事をした。
「どちらの娘を喰らうのが得策じゃろか?」
「エルフの王女ではないでしょうか? ハイが連れて来る娘には隙がないように思えます、片時もハイが離れないでしょうから。とするならば、やはり王女ではないかと。」
透き通った声で、淡々と語るエーア。表情を変えずに意見を述べると、一礼して下がっていく。
「そうだな、それが良いだろうな。ククク……ハイ、早く勇者を連れて来い。アサギという名の勇者を連れて来い。可哀想で滑稽なハイ、何も知らずに」
闇の中でミラボーが腹を抱えて嗤い転げる、部屋が揺れるほど嗤い声が反響した。
エーアは無言で、そのミラボーを見つめていた。 意志なき、瞳で。
エルフの王女については、若干ミラボーの把握した事実と真実は違うが、現時点で然程問題ではない。
※挿入しているイラストは、以前作った同人誌の原稿として戴いたミラボーちゃんです(*´▽`*)