忘却の花冠~アサギ~
文字数 14,313文字
対して、濡れ鼠の様な小物の敵にトビィは戦闘意欲すら沸かずにいる。威嚇しているわけではない、ただ、視線を投げただけだ。放っておいても害はないだろうと判断した、正直関わるのが面倒でもある。
「人の愉しみを邪魔するほど、性根は腐ってない。まぁ勝手にやってくれ、急ぎの用なんで。じゃ」
暫く部屋を特に興味なさそうに軽く眺めていたのだが、トビィはそれだけ言うと踵を返し、ドアに手をかけた。
クーバーは救われた感から一気に脱力した、心内で「ならすぐに帰ってくれよ! 寧ろ入ってくるなよ!」と叫ぶほどには余裕があった。しかし、生憎この人間の男に勝てる気が全く無かったので口には出せない。たかが人間、しかし魔族である自分よりも遥かに超越した力を秘めていると本能が警告していた。大人しくこの場をやり過ごしたほうが、利口な気がして必死に堪える。
確かにクーバーは吸血一族の中でも魔力が格段に低かった、それは自身でも分かっている。能力といえば、他人の記憶からその知り合いの名前と顔を読み取り、その人物に変化することが出来る……という役に立たない能力だった。他人に成り済ますだけの、戦闘には不要な能力だ。
そもそも、最初はただ記憶を垣間見るだけで変化は出来なかった。しかし、ある時。一族が捕らえた娘がエルフという珍しい種族で、クーバーもお零れを授かり若干の血を飲んだ。その際、突然変化能力が身に付いた。当時は、禁呪が使用できる魔力が欲しかったと嘆いた。
エルフの血は、魔力増幅に繋がると聞いたことがあったが真実だった。しかし、クーバーにとってはどうでも良い情報である。意味のない授かり物をし、落胆するしかない。共に飲んだ他の一族は、能力を飛躍させたというのに。
持て余していたこの能力だが、ある日ふと思いついた。
他の仲間は夜な夜な堂々と人間を襲っていたが、クーバーにはその度胸もなかった。小心者の為、罵声を浴びさせられたり抵抗され反撃を受けようものならば、情けない事に尻尾を巻いて逃げ帰る始末。それでも血は飲みたい。飲まなくても死にはしないが、やはり飲みたい。故に、こうしてひっそりと自分好みな“若くて可愛い女の子”を攫っていた。これくらいならば、造作も無いことだ。攫ったあとは、抵抗されても面倒であるし、嫌がる娘を無理やり……というのもクーバーの性に合わず。娘が好意を抱く相手になりすまして、恋人気分を味わったほうが好きだ、というクーバーの良いような悪いような微妙な考え方から、過去に何度も同じ手口で娘達を喰らってきた。
記憶を読み取り、片思い相手、もしくは恋人に化けて成り済ます。そうして身体と血液、文字通り全てを戴く。娘達は夢見心地だが、質の悪いやり方である。けれども、クーバーは罪の意識どころか善行をしているとさえ思っている。
立ち去るトビィに安堵したクーバーは、意気揚々と再びアサギに向き直った。とびきりの上玉だ、早く味わいたかった。腕の中で小さな寝息をたてているアサギを見て、鼻の下を伸ばしほくそ笑むと傷が疼く様なもどかしい感覚に襲われた。「早くこの娘を馳走にならなくては! 身体が欲しているっ」細く白い首筋を見つめ、舌舐めずりする。
その時、偶然にもトビィが振り返り、アサギの顔を捕らえた。いや、偶然ではないか。
名を呼ばれた気がして、振り返った。
キィィ、カトン……。
先程も耳に届いた不可解な音が、アサギを瞳に入れた瞬間に脳内で鳴り響く。変態男の腕の中に居る少女を見て、唖然とした。「アサギ、だ」小さく漏らした声は、掠れている。
「アサギ……?」
今度は明確に声を発した、が、クーバーには届かない。凝視するが、間違いなかった、見間違えるはずもなかった。
トビィがアサギを見間違えるなど、有り得ない。
……アサギだ、アサギがいる。約一月捜し続けていた、オレのアサギが目の前にいるではないか!
ただ、髪の色がトビィの知っているアサギと違っていた。トビィが知っているアサギは、新緑を思わせる鮮やかな緑色だったのだ。だが、この目の前のアサギは漆黒の髪、けれども、人違いであるはずがない。どれだけ遠くに居ても、どんな人混みに紛れていても、探し出せる自信があった。
髪の色が違うのなら、普通ならば人違いだと思うだろう。けれどもその少女から発せられる空気が“アサギ”のものである。
トビィは、確信した。
「っ!」
髪の色の事を考えている余裕はない、今その瞬間にもアサギは変態男に何やらいかがわしいことをされようとしている。
トビィの射抜くような視線を感じ、クーバーは振り返ると鬱陶しそうに眉を顰め、蝿を追い払うごとく手を振った。早く出て行け、そういう意味合いだったのだが、クーバーは血相抱えてアサギを抱きかかえたまま、宙に飛び上がる羽目になる。
「貴様ぁっ、オレのアサギに汚い手で触るなっ」
大声でトビィが咆哮した。そのまま駆け出し背の魔力を放ち続ける長剣を勢いよく引き抜くと、斬りかかる。
その気迫に喉の奥で悲鳴を上げ、クーバーは辛うじて紙一重で攻撃を避けた。宙に浮かび安堵の溜息を漏らしたのも束の間、直様地面を雄雄しく蹴り上げて、素早く斬りかかってくるトビィに再度悲鳴を上げる。
「ちぃっ!」
仕損じた事により苛立ちが募り、トビィが舌打ちをする。一撃で仕留められると侮っていたが、逃げ足だけは一人前だったようだ。しかし、攻撃の手は休めない。
クーバーは、鬼の様に迫る繰り出される剣のその速さに、激震する。
……コイツ、本当に人間なのか? 下手な魔族よりも余程慣れた動きをしているっ。
訝しげにトビィを見つめ「ちょっと待った!」とクーバーは休戦を申し出た。勝てない相手なので、逃げる方法を思案せねばならなかったのだ。
「落ち着け、トビィ・サング・レジョン君」
右手を突き出し、爽やかに笑ってみるクーバー。
だが、トビィは顔色変えず何度も斬りかかる。当たり前だ。
必死にそれを交わしながら、なんとか話し合いの場を作ろうと懸命にクーバーは天井付近を浮遊した。
「こ、この子はつい先程恋人になったばかりの娘なんだ。これからお愉しみの時間なんだ、邪魔しないでくれないか? 人の愉しみは邪魔しないと言ったじゃないか」
確かにトビィは数分前そう言った。
「男に二言はあるまい?」
クーバーは、一か八かの賭けに出る。引きつった笑みを浮かべる、余裕があるように見せようとしたが無理な話だった。最初からこの吸血鬼には、度胸がない。
「相手による。貴様ごときがアサギと愉しむだと? ……ふざけるなぁっ!」
火に油を注いだらしい、怒りに身体を震わせながらトビィが跳躍し、剣先でクーバーの瞳を狙った。
全速力で天井の端へと移動し、荒い呼吸を繰り返すクーバーは、足らぬ頭で懸命に考えた。気を許せば剣で串刺しになるか、その前に恐怖から意識を手放してしまう。
……あぁ、そうだ。トビィはこの少女を知っているらしい。けれども、アサギは?
クーバーはアサギの額に掌を置き、きつく瞳を閉じて記憶を探る。先程から妙な違和感を覚えていた、ようやくそれが何か掴んだ。
アサギの記憶には、“トビィ”が存在しないのだ。
片隅にも残っていない、アサギはトビィを知らない。もし、記憶があればこれだけの美形である、クーバーならば先程変化している。しかし、どうしてもトビィの記憶がアサギにはない。
クーバーは唇を尖らせた。
「トビィ君とやら、何故この子を知っている? 人違いじゃないか? それとも何処かですれ違ったのか? この子の記憶に、トビィ君は存在しないんだ」
「ふっ、戯言を。アサギはオレの命の恩人で約一月前の一週間、手厚く看病してくれた。別れ際に再会を約束して、な。オレがアサギを見間違えるはずもなく、何より貴様がアサギに触れてよいわけもなく」
聞きながらクーバーはそっと涙する。気の毒過ぎた、そんな強烈な出来事があってもアサギには記憶がないのだから。しかし、幾らなんでもそんな現実を忘れるだろうか。意図的に忘れているのだろうか、と興味を持った。再度探るべく、掌に神経を手中させる。
が、やはり何度見ても結果は同じだ。アサギの記憶に“トビィ”は存在していない。
「今まで観て来た中でも一、二を争う美形なのに、忘れられることもあるんだな」
クーバーは悲恋だね、とわざとらしく鼻をすすった。
アサギの安らかな寝顔を見つめ、勝ち誇った様にトビィに皮肉めいて笑う。意味のない優越感に一瞬浸る。「あぁ、どうせ化けるならこんなガキより、トビィ君みたいな美男子に化けたかったよ」と精一杯の悪態をつく。化けたくとも化けられなかった、アサギの記憶にないのだから。
が、その瞬間。
突如クーバーの脳裏に多大な量の記憶が、洪水の如く流れ込んできた。
「な、なんだ!?」
触れているアサギの額から掌に電撃が走り、痺れてくる。
外したくとも何故か掌が動かなくて外せない、小刻みに震えていた掌から血液が宙に舞った。大きく瞳を開いて、唖然とその光景を見つめる。
膨大な映像はようやく形を成した、見知らぬ男達が数人そこにいる。その中に、一人だけ見知った男が居た。そう、トビィだ。「居た!」クーバーは叫んで瞳を凝らす、そこには、トビィ以外に男が三人居た。
こめかみが動悸を打って痛み出す、脳の内側から鈍器で殴打されている様な頭痛に悲鳴を上げた。
原因である流れ込む映像を振り払おうとして、クーバーは自身の頭を激しく振った。けれども意に反し、映像は更に鮮明になっていく。ついに、音声まで聞こえ始めた。
「ば、ばかな!? 俺はこんな能力持っていないぞ!?」
記憶として他人の顔を見る事は出来ても、声までは今まで拾えなかった。クーバーの血液が逆流する、白目をむく。
宙で身悶えているクーバーの様子に、トビィは剣の構えを解かず見上げていた。以前戦った魔族に、姿を変貌させると格段に魔力が上昇した厄介な敵がいた。その類かと警戒する。冷静に相手を見定めながら、何かから逃げようと怯えているようなクーバーに眉を顰める。妙な敵だとは思っていたが、ついに気でも触れたのかと。
クーバーは、絶望に近い恐怖心に襲われていた。何故かしらその先の映像を見るのが、怖かった。知らない人物達だ、赤の他人の記憶のはずなのに、戦慄に身体を震わす。
映像が激しい光を放ち、クーバーを襲った。
花畑だ。色とりどりの花が咲き乱れる、美しい光景である。
その中央に、クーバーは突っ立っていた。唖然と周囲を窺う、やがて手を繋いで仲睦まじそうな二人が歩いてきた。
アサギだ。
アサギとトビィに若干雰囲気が似ている男が、笑みを絶やさずに歩いている。特に何も不自然な箇所は無い、何処にでもいそうな、羨ましい気もする初々しい恋人同士にしか見えない。
『これを』
『これは? ……綺麗な深紅の宝石!』
『こ、これさ、あげる。に、似合うと思って』
『ホント!? ありがとう! ずっと、つけててもいい?』
『うん。ずっと、持ってなよ』
男が少女に首飾りを渡したようだ、小さいながらも品良く装飾してある紅玉が、淡く輝いている。
愛おしそうに、隣の少女を見つめている男。時折彼女に触れることに抵抗を覚えながらも、ぎこちなくぶっきらぼうに、それでも震えながら手を握り、髪を撫で、頬に手を触れ。不可侵の聖域のごとく、敬いつつ恐怖に焦がれつつ、本能のままに少女に触れられない印象を受ける。
恐怖に怯える映像ではない、けれどもクーバーは背中に嫌な汗をかいていた。後方を見てはいけない、闇に引きずり込まれ、全身を骨ごと砕かれるような、そんな気がした。
男は足元の花を一輪、恭しく摘み取るとアサギに似た少女の髪にそっと挿した。
新緑の髪の少女は、顔を赤らめて笑う。純白の花が可愛らしく少女の髪を飾り、二人は笑い合うと再び手を繋いで花畑を歩き回った。
……知りたくない、聞きたくない、観たくない、この先は観たくない!
産まれて初めて味わう恐怖は絶望と悲哀、胸を切り裂かれる苦痛、闇に属するクーバーすら恐れる巨大な暗黒の塊が真後ろに迫っている。
急に映像が一転した。仄暗い小屋の中、二人がひっそりと佇んでいた。
少女が頬を桃色に染めながら、そっと手を胸の前で組み、何か呟いている。
『愛して、います』
愛しています。少女は、うっとりと目の前の男にそう告げていた。愛の告白、想いを込めて、その言葉に全ての想いを詰め込んで。
『愛しています』
再度、少女は呟いて嬉しそうに小さく笑った。
けれども、夢見心地な少女とは裏腹に、男の表情は晴れない、というより冷淡な眼差しで少女を見下している。
『はっ……』
長過ぎる沈黙の後、搾り出した声に少女は瞳を軽く見開いた。
次の瞬間、後方のベッドまで突き飛ばされその痛みで低く呻く。あまり柔らかくはないベッドだ、衝撃に混乱を憶えながら瞳を開いた。
目の前に男がいた、覆い被さられている。胸が跳ね上がった。しかし赤面したのではない、その雰囲気に身を竦ませ、声を出せなかった。呼吸する事も恐れた、目の前にいる男の表情を見て、凍りつくしかなかった。
怖い、と思った。それが自分に向けられている視線であることに、酷く怯えた。薄ら笑いを浮かべ、けれども瞳は笑っていないその蔑む様子に息を飲む。
途端、髪を無理やり握られ、強く引っ張られる。
『ひぁっ!?』
叫び、激痛に瞳を閉じる。ブチリ、と髪が抜ける音がした。何本も抜ける音が聴こえる、ブチ、ブチ、と耳元で不快な音がする。
『愛している、ねぇ? お前はオレを馬鹿にしているのか!? あぁ!?』
少女は、大きく身体を震わせた。髪を持ったまま引っ張り上げられ、耳元で怒鳴られた。男の変貌についていけなかった、気の毒な程身体を縮こめ、髪が引き抜かれる痛みに耐えながら言葉を苦し紛れに発する。
『お、教えてもらったの。ベシュタ様に教えてもらったの。胸がとくん、って脈打って。見ているだけで心が震えて。名前を何度も呼びたくなって。触れていたくて触れてもらいたくて。声が聞きたくて、一緒に居たくて。笑っている顔が見たくて、隣にいると安心できる。
……その人のことを、とても大事に想い、常にその人のことを考え、その人が笑顔で、幸せであれば良いと想い願うこと。それが“アイシテイル”……愛しているっていうのだと』
男は聞き終えると、腹が捩れるほどに腹から笑い出す。
雰囲気から“馬鹿にされている”と感じ取った少女は、驚愕の眼で男を見つめた。間違った事を言ったのだろうか、いや、そんな筈はない……懸命に言い聞かせるが、笑い続けている男の心理が解らなかった。
『あぁそうか、そうか、よかったな! 本当にお前は狡賢く生き延びていける女だよ。まぁ、そうだろうなぁ、ベシュタは貴族だ。オレなんかより余程地位が上だし、取り入って損は無い相手だよな? ……馬鹿にしやがってっ』
男は胸倉を掴み、右手で容赦なく頬を殴った。叩いたのではない、拳で殴りかかった。鈍い音がして、少女は耳を劈くほどの悲鳴を上げる。頬骨が、砕けた。けれども男はその愛らしい唇を掴み爪を立てて、切り裂くように潰す。血液が、溢れ出す。
喉の奥で息を吸い込み、男は憎々しげに再び唇に爪を立てて握り潰した。唇を剥ぎ取るように、執拗に潰す。
『裏切り者』
激昂している男の瞳は、復讐心に燃えているようでもあった。
けれども、少女には何故男が怒り狂っているのか心当たりがない。
『らんで、なんでおこ、おこって』
『うるせぇっ』
左頬も殴られた、口内はすでに血まみれで、唇と呼べるものが消えた口から、赤黒い血液が零れ出す。咽ながら、瞳からも体液を零した。わけがわからず、震える手で男に触れようと手を伸ばすのだが、痛々しい音がして手は撥ね退けられた。
『触るな、気持ち悪い』
汚らわしいものを見る目だった、その視線には嫌悪感があからさまに篭められている。その視線を投げかけられているのは自分なのだと理解し、少女は口を震わせながら何か言葉を探す。しかし、見つからない。言葉が出てこなかった。
『見るな、気持ち悪い』
反射的に身体を更に縮込ませた。もう何も、言えなかった。脳に与えられた衝撃は、少女の思考をほぼ停止させた。『触るな、見るな、気持ち悪い』……言葉が反響している。
どうしたらよいのか分からず、大粒の涙を幾つも流すことしか出来なかった。
この間まで、四六時中手を繋いでいたのに、飽きることなく二人で見つめ合ったのに。何故、突然。顔を殴られた痛みよりも、視線が、声が痛かった。
『あぁ、本当にお前は立派だよ、どうすれば相手に気に入られるのか解っているよな? 身体を使って取り入るなんて』
何を言っているのか理解が出来なかった、意識が朦朧とする中で涙が溢れぼやける瞳はそれでも男の唇を追う。動きを追う。
『この阿婆擦れが。何が期待の土の精霊だ、笑わせてくれるよな? ただの色欲に溺れた愚者だろう!? 誰にでも取り入れると思うなよ……! お前ごときの女なんざ、主星には大勢いるからな!?』
罵声を浴びせられながら、懸命に言葉の意味を考えていた。
愛しています、そう言ってはいけなかったのか? 教えて貰った素敵な言葉を、一番大好きな、大切な人に伝えたかっただけなのに、これは一体どういうことだろう。
手を、繋いで。一緒に、笑って。ずっと、居て。触らせて、観させて。
少女は、血を吐き出しながら訴える。
『あ、あの、わたし、わた、し。あい、あいして』
『うるせぇ! 意味も解らないお前ごときがそんなこと言うなっ』
男は、馬乗りになったまま、何度も何度も可愛らしい顔を殴りつけた。
容赦なく強打され、少女は幾度も蛙が潰れたような呻き声を上げる。
血が男の拳に滲んだ、鈍い音が小屋に響き渡る。シーツは夥しい程の血を吸って、紅く染まる。少女の顔は、真っ赤に染まった。鼻は折れていた、歯も何本か欠けてしまった。目の周りは青く腫れ、引きちぎられた緑の髪がそこらに散らばっている。
一見、誰だか解らないほどに顔が変形してしまった。
『可哀想なオレ達、とんだ茶番に付き合わされていい迷惑だ。時間返せよ、オレ達の時間を返せよ! お前に出会ったせいで、無茶苦茶にされたじゃないか! くそったれ』
ぐったりとして動かない少女に、それでも手を緩めない。この程度では気が治まらない、暴行は止まる気配がなかった。
少女には最早抵抗する気力もなく、そもそも逃げたくとも身体が動かないので大人しくそれを受け入れるしかなかった。暫くすると、男の声が聞き取り辛くなってきた。
右耳の鼓膜が破れたのだ、穴から、血が流れ落ちる。
『で、抱かれた感想は? 快楽に溺れて後はどうでもいいって? ……そんなに好きならオレも教えてやろうか、お前が言っている“愛”っての』
返事すら出来ない少女に、引き攣った笑みと狂喜に燃える瞳を投げかけそう言うと、荒い呼吸で無造作にうつ伏せにする。訊いてはみたが、返事を待つことはなかった。どのみち、今は喋ることすら出来ないだろう。顎の骨も砕かれている。
『醜悪な顔なんざ見てたら萎えるからな』
逃げられないように、シーツを破り裂いて、両手をベッドに縛り付けた。切れて血まみれになった口にも、無理やりシーツを詰め込む。
拘束された手首と、麻痺しつつある口内の違和感に、ようやく少女はうっすらと瞳を開いた。
それに気づいた男は唾を吐きかけると、憎悪の瞳で耳たぶを握りつぶすように捻り上げる。ご丁寧に穴を広げ鼓膜を突き破るように、下卑た大声で笑った。
『死ねよ、消えろよ。お前が居なくても誰も困りゃしない、居た方が迷惑だ、鬱陶しい』
口を塞がれている為、悲鳴は部屋に響かない。どのみち、呻く事しか出来ない。少女は、泣いていた。
泣いていたが、うつ伏せにされていたのでその涙を男が見ることはなかった。
華奢な腰を持ち上げ、質素な衣服を捲り上げ下着を引きちぎる。膝に力を入れろと罵倒し尻をこちらに向けさせた。扇情的な光景に、男は喉を鳴らした。こんな状況だというのに、難い相手だというのに男の下腹部は容赦なく熱を持った。我武者羅に、憎しみを籠め、欲望の赴くままに強引に突き入れる。
二人が、同時に身体を震わせた。
身体中に電撃が走る、一瞬硬直したが口角をゆっくりと上げると、男は無我夢中で腰を振った。少女はくぐもった悲鳴をあげた、受け入れる準備など出来ておらず、ただ、圧迫感のみが身体を支配した。それでも幾度か抽送を繰り返していると、なんとか滑りが良くなってきた。
『はっ……! 随分と御都合が良い身体だなぁ!? この阿婆擦れがっ』
男は、少女の尻を叩き、狂気の笑みで勝ち誇ったように笑い続ける。
少女は……少女が痛かったのは。何度も殴られた顔でもなく、無理やり開かれた身体でもない。
ただ。
言われた言葉が深く突き刺さり、胸がどうしようもなく痛くて、苦しい。
『愛している』という想いを伝えたかった。
自分の抱いていた想いを伝えられる言葉を教えてもらったので、言いたかっただけだった。素晴らしい言葉の筈だった、受け入れられるかはともかくとして、解って貰いたかった。
『先にベシュタと勉強したんだろ? もっと腰を触れよ、空気が読めない売女だな。ふざけやがって。せめて愉しませろよ、この愚図がっ』
髪を掴み、ベッドに押付ける。胸を引きちぎる勢いで鷲掴みにし、笑いながら自分の真下でなすがままにされている少女を見下ろした。
『ここまでつまらない女なんて、初めてだ』
舌打ちをしながらも、男は強姦を止めない。恍惚とした笑みを浮かべ、狂ったように快楽を貪る。
少女は、人形の様に微動だしなかった。
『……今後、二度とオレの前に姿を見せるな』
どのくらいの時間が経過したのだろう。数回白濁した液体を少女の体内や身体に吐き出し、気が晴れたので、男は出て行った。
小屋に一人きり、傷ついた少女をそのまま置き去りにして。
……行かないで、行かないで。
もうほとんど聴こえなくなった耳だったが、乾いた音を立てて扉が閉まる音は残酷にも響き渡った。
それは、拒絶された音なのだろうと理解した。彼の心に入り込む事は、もう出来ない。立ち入る事は、許されない。
消えていった男の背を追いかけるようにして、必死で顔を動かす。視界すら奪われて、鮮明に見ることは出来ない。しかし、脳内で変換していた。
この小屋は、飽きることなく男が暖かで柔らかい口付けをくれた場所である。瞳を閉じていても、情景は容易く思い浮かぶ。男が離れ消えていく姿を、少女は鮮明に脳に映し出していた。
『……えぐっ』
口からシーツを吐き出すと、止め処なく溢れる涙と嗚咽に埋もれて絶叫する。
『うぁ、うわぁぁぁっぁあっ!』
……行かないで、行かないで。傍にいて、傍にいて。笑って、笑って。手を握って、握って。名前を呼んで、呼んで。名前を呼ばせて、呼ばせて。
カシャン。
乾いた音を立てて、首から何かが零れ落ちた。ぎこちなく視線を移すが、見えない。必死に頬をこすり付けてそれを確かめると、以前男から貰った首飾りだった。髪をくしゃっ、とかき上げて不慣れな手つきで首にこれをつけてくれた。似合うよ、と笑ってくれたその愛する人は。
その男は。
『い、か、らいれぇ』
自由の利かない身体で懸命に腕を伸ばそうとする、消えて行ったドアの向こう側、男を求めて手を伸ばした。
『いっ、ひ、ちゃ、やら、ら』
涙で見えないのか、眼球が潰れていて見えないのか、晴れ上がった肉のせいで見えないのか、もう、解らない。しかし、追いかけなくては二度と会えないかもしれないことは、解った。
だから足を動かした、痺れているが動けないこともない、ずるずると這うようにベッドを移動する。
……ひ、一人に、しないで。行かないで、そばに、いて。
しかし、手がまだ繋がれたままだった、これ以上動く事が出来ない。しかし、するりと繋ぎとめていたシーツが外れる。ベッドから転げ落ち、床で頭部を打つ。低く呻きながらも、腕に力を込めて扉を目指した。
『今後、二度とオレの前に姿を見せるな』
不意に先程言われた言葉が甦る、身体を凍りつかせて仰け反った。
あの、視線が怖かった。本当に、憎まれているのだと思った。追いかけては、いけない気がしてしまった。姿を見せるな、と言われたからだ。
そうして、断腸の思いで諦めた。
……きらわ、ないで。
ゲフッ、ゴフッと、口から体液を吐き出す。吐瀉物なのか、血液なのか、胃液なのか。
……いい子にするから、役に立ってみせるから、嫌いにならないで。何をしたら良いですか、今後“愛している”と言わなければ以前の様に傍にいてくれますか、話をしてくれますか、手を握ってくれますか、隣で眠ってくれますか、口付けをしてくれますか。
頭の中で言葉が甦る。『気持ち悪い』『見るな』『触るな』……心に幾つも幾つも言葉の破片が突き刺さる。半狂乱で床をのた打ち回った、恐怖で身体を震わせて胸の痛みから逃れようと悶える。
巨大で鋭利な破片は突き刺さったまま抜けない、極めて凶悪な暗黒に覆われたそれは、絶望しか生み出さない。
少女は無意識の内に、目の前の扉に向かって這って行った。ただ、求めていた。
それでも見てはいけない、触れてはいけない、姿を見せてはいけないとは心に刻んだ為に、ただ温かく心地良い火の精霊独特の雰囲気を肌で感じられれば、と願った。
それでもやはり、願わくば。
……いっしょに、い、さ、せてくだ、さ。
その渾身の願いが届いたのか、扉がゆっくりと開いた。微かに明るい光が小屋に差し込む、視界を奪われようともそれは少女にも解った。
誰かが、来たのだ。
クーバーは少女を見ながら、全身を震わせていた。
その少女が抱え込んでしまった、絶望。それは、いつか凶器と化すだろう。
知らずクーバーは胸を押さえた、瞳から一筋の涙が零れる。
少女は、何故あの男をそこまで追い求めるのだろう。もう、いいじゃないか、酷いことを言われたのなら、離れたら良いじゃないか。拒絶され、ここまで傷ついて何故求めるのか、理解ができない。
けれども、少女はクーバーの目の前でドアに向かって這って行く。
ただ、少女は。
その、男の傍に居たかったのだと。
自分の想いを伝えたかっただけなのだと。
クーバーは開きかけたドアを見つめ、安堵の溜息を漏らした。先程の男が戻ってきたのだろうか? 助けに戻ってきたのだろうか? 足元のアサギに似た少女を励ますように見つめる。哀れ過ぎて、同情した。
現われた男を見て、クーバーは瞬きを数度繰り返した。
知っている顔だ。
「……トビィ?」
驚愕の瞳で、クーバーは掠れた声を漏らした。それもそのはず、入ってきたのはトビィに瓜二つの男である。
『っ!? どうした、何があったアース! しっかりしろっ』
『トロイ……トロイ? たすけ、て、トロイ』
床から、必死に顔を持ち上げて入ってきた人物を見やる。声が何重にも聴こえた、鼓膜が片耳破れていたので上手く聞き取れなかった。
アースと呼ばれたその少女の無残に変わり果てた姿を見ると、顔面を引き攣らせたトロイと呼ばれた男は早急に抱き起こした。焦燥感に駆られながらも、痛みを伴わないように優しく触れながら。
『あ、あぁっ! ごめんなさ、ごめんなさっ!』
『アース、どうした、しっかりしろっ』
全ての悲壮感を閉じ込めたような絶叫が、狭い小屋に反響する。
アースはトロイにしがみ付きながら、何かから逃れたくて声を張り上げた。押し潰される、悲哀の想いは極限に達する。
男はもう、笑わない。男はもう、傍にいない。
それは。
……私が何かしてしまったから。機嫌を損ねてしまったから。でも、原因がわからない。
それとも。
最初から、嫌われていたのだろうか。
偽りの関係、通じていた想いは誤り。
身勝手な妄想、独り善がりな執着。
あの日の花畑は、忘却の彼方。
髪に挿してくれた一輪の花は、幻惑。
忘却の果てで見たものは、鮮やかな大輪の花。
一輪の花が喜びで咲き乱れ、花冠になった遠いあの日は。
ただの夢、で幻だったのか。
一人、漆黒の闇の中で緑の髪の少女は泣いていた。
周囲に人も何もなく、一人で泣いている。何かを捜し傷ついた足で歩き回っていたが、そこは虚無の空間だ。そこには何もないと解っていても、少女は捜し求める。
捜し求めているものは、少女が欲しかったものは。
哀しくて。寂しくて。辛くて。焦がれて。欲して。求めて。手に入らないと解っていても。
それでも追い求める。
声を聞かせて。
姿を見させて。
笑顔が見たい。
笑った声が聞きたい。
元気に走り回って。
無邪気に、生きて。
幸せに、なって。
そうして、出来れば、私を。
……嫌わないで。
少女が不意に顔を上げた。
目を見張るほどの豊潤な新緑の髪、神秘的な光を灯す深緑の瞳。桃色の頬、濡れた赤いサクランボの唇。
けれど。
外見がどれだけ眩く美しくても。心から血を滴らせ、息が詰まるほどの重圧が少女の身体を覆い尽くしている。纏わりつく深い悲しみの中、小さく光を放つ少女。
見る者全てを魅了するその少女には……奥深い闇が。それもまた、彼女の危うい魅力なのだろうか。涙が頬を伝い、はらはらと流れ落ちる。
それすらも、見惚れてしまう程に綺麗で。
少女はこの世のものとは思えないほど美しく、クーバーは瞳が逸らせなかった。
『さむいよぅ』
いかないで、ひとりにしないで、そばにいて、さむいよ。
徐々に、少女の身体が崩れていった。
風に舞って宙に浮かび上がる木の葉のように、ざぁっ、と消えていく。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
クーバーは絶叫した。
この世の終わり、生命の死。
森羅万象全てのものが、消え失せる感覚。
花畑は、死の荒野に。
乾いた大地が惑星を覆い、生き物は逃げ場を失い死に絶える。
大地は芽を生む力もなく、罅割れ乾き、物言わない。
遠い未来。いや、遠い過去なのか。
クーバーの身体が、砂のように崩れ落ちていった。
泣き喚いて零れる身体を必死で掬い上げるが、指の隙間からクーバーの身体はさらさらと落下する。
「グワァァァァッ!」
手が、消えていく。ボロボロと零れながら、風化していく。存在が、なくなる。
クーバーは錯乱状態に陥った、誰でもいいからここから出してくれ。これは、夢だ、幻覚だと訴える。
この少女の夢の映像に入り、深く同調してしまっただけだと必死に精神を保とうとした。
「ギャァァァァっ」
眼をカッと開き、クーバーは口から唾液を吐いた。腕が痛い、左腕が熱い。見ればクーバーの左腕がなかった。
気がつけばそこは、もとの部屋。クーバーが改造した例の洞窟の一室に、ようやく戻ってきた。
現実に戻ることが出来たのだと、クーバーは乾いた声で笑う。
しかし状況把握に時間を要した、左腕で支えていたアサギが消えている。見ればトビィが落下したアサギを華麗に受け止め、優しく抱き締めていた。
床に転がる一本の腕は、クーバーのものだ。
どうやらトビィに腕を斬られたらしい、その激痛で幻覚から現実へと引き戻されたようだ。深紅の血液が、盛大にシーツに、部屋に降りかかっていた。
トビィと、視線が交差する。
慈愛も何もない、アサギに向けていた時とは一変し、冷淡な視線がクーバーに投げかけられた。殺される、と直感した。腕の激痛すら麻痺している、思考回路が正常に働いていなかった。
今、ここで。死んでしまったほうが楽だとすら思った。あの絶望は、二度と思い出したくない。
「答えろ、アサギに何をした。何故目を覚まさない」
「っ、な、何もしていない! その香は若い娘の思考を停止させ、身体の自由を奪うんだ。べ、別に何もしていない」
狼狽するクーバーの台詞に頼り、視線を辿ると煙を上げている香炉に気づいた。
トビィは忌々しそうに舌打ちすると、剣を素早く振り風圧で火を消す。直に香りは消えるだろう。
「他に何をした。オレのアサギに何をした」
凛と響く威圧感のある声に、クーバーは歯を震わせて首を横に振る。意識が朦朧としてきた、血液を流しすぎたのだ。最早、浮遊していることすら辛い。
「そ、それからっ。それから、ち、血を。その子がケガをしていたから、血を、嘗めた。それだけだっ」
アサギの左腕に、確かに出血した痕がある。トビィは害虫を見るような視線でクーバーを睨み付けた。
「そうか。じゃ、死ね」
次の瞬間、口を開きかけたクーバーの視界に、隼の様な優雅で敏速な剣の舞が入る。アサギを丁重に床に下ろしたトビィは地面を蹴り上げ跳躍すると、クーバーの胸を一突きしたのだ。
回避出来なかった。
血走った瞳で身体を仰け反らせ、クーバーは絶命する。停止寸前の思考、吐き出される血と共に、言葉が投げ出される。ずっと、気になっていた事だった。
「この娘、人間じゃな」
最期に、この言葉を。
逆流する血に紛れて出た言葉を、トビィは聞き取ることが出来なかった。
クーバーが現実に引き戻される瞬間、泣いていた少女を見て痛感したこと。
それは。
……この娘、人間ではない、魔族でもなければ、エルフでもない。もっと別の存在だ。
魂が、そう感じてしまった。
艶やかな花畑。
百花繚乱の楽園と呼ぶに相応しいその場所に、一人の少女が立っていた。
色取り取りの花冠を頭上に掲げて、寂しそうに微笑んでいる。豊かな新緑色の柔らかく艶やかな髪に、温かみのある光を帯びた大きな瞳、軽く頬を桃色に染めて、熟れたさくらんぼの様な唇。
忘却の果てで、一人花冠を抱いたまま。
クーバーは安堵した、何故か、安心感に包まれた。記憶なき母の腹にいた時の様に、何からも護られている様なまどろみの中にいる。この場所は酷く安全だ、何も悩むこともない。苦しみから解放され、斬られた腕も戻っている。涙を流しながら、目の前で遠くを見つめている美しい少女に声をかけた。
……アナタ様ハ、誰デスカ?
少女は、何も答えなかった。ただ、哀しそうに寂しそうに、微笑んだままだった。