そして、歯車は軋み続ける
文字数 3,671文字
口に咥えていたアイスがドロリと溶けて、口内に広がる。アサギと遊ぼうと思ったが不在だったので、暇を持て余して家に居た。
慌ただしく洗濯物を運んでいる母が、不思議そうに首を傾げて通り過ぎる。
咥えていたアイスが、ソファに落ちた。
リョウは、雷にでも打たれたかのように硬直していた。脳内で何か音が響き、胸が早鐘のように忙しなく動く。
「ッ」
一瞬目の前が真っ暗になり、痛む胸を押さえる。くぐもった声を上げ、束縛から突如解放されたかのように前に倒れ込んだ。
床に落下した音で、異変に気づいた母親が駆けつけた。名を呼びながら仰向けに寝かせ、頬を軽く叩く。
「どうしたの!? 聞こえる!? 分かる!?」
全身が痺れていた。瞳孔の開いた瞳で天井を見やると、電球の眩しい光に吐気を覚える。目の前で、黄色い光が断続的に点灯している。
狼狽えながら水をとりに行った母の足音を聞きながら、光から逃れるために身体を横にしたいと思った。意識ははっきりとしているが、身体が思うように動いてくれない。唇は半開きだが、口内は乾ききっており声が出ない。
首が動かないので、瞳だけでどうにか横を見る。瞳の端に、煌めく何かが映った。艶やかなそれを瞳に入れた瞬間、身体が軽くなった気がした。
「っ、はっ」
大きく呼吸をしたリョウは、力任せに身体を動かす。正常ではないが、どうにか横を向くことが出来た。荒い呼吸で瞳を細めると、目の前の物質を確認する。
それは、直径四センチ程度の琥珀色の石だった。
「い、し」
ここまで眩い光を放つ物を石と呼んでよいのか。ショーケースに飾られている宝石に引けを取らない物に見えるが、何かに斬りつけられたような深い傷が入っている。
手を伸ばし、震える手でそれを掴む。指で感触を確かめていると、傷口はザラッとしており、鋭利なもので抉られたようだった。
母親の足音が近づいてきたので、慌ててそれをズボンのポケットにしまいこんだ。見られてはいけない気がした。
「あぁ、よかった。水は飲める?」
上半身を起こされ、差し出された水を勢いよく飲む。
「だい、じょうぶ」
水を存分に摂取したリョウは、受け答えは出来るようになったものの気怠さに負け横たわる。病院へ行こうか、と訊かれたが熱はないし、先程よりも回復していたので首を横に振った。
帰宅した父親に担がれて二階の自室のベッドに運ばれると、そのまま瞳を閉じる。ズボンの中に入っていた石を掴み、手の中で強く握った。
知らず、眠っていた。
暗闇の中で、発光した石がぼんやりと浮かび上がる。
「アサギ、アサギ……」
リョウは、友達の名をうわ言で呼び続ける。
キィィィ、カトン。
何処かで、何かの音が鳴る。
小さく呻き、アサギは瞬きを繰り返した。
身体中が軋んで痛い、一体何が起こったのか。腕に力を入れて起き上がろうとすると、急に身体が下がった。
「きゃ、きゃああああ!」
盛大に悲鳴を上げる。
身体が落下していた。自分がどんな状況に置かれているのか解らず、恐怖で叫び続ける。浮上すべく集中するが、脳の指令に身体がついていかない。切りつけられるように肌に何かがあたり、激痛から上手く魔力が扱えない。
「たす、けっ」
腕を上に向かって、懸命に伸ばす。
何かに捕まろうともがいていると、胸を強打した。骨が折れたと思う程の衝撃に大きく瞳を開き仰け反ったが、落下は止まったようだ。
「ぅ……ん」
痛みで意識を手放しそうになるが、朦朧とする中、瞳に鮮やかな黄緑色が飛び込んできた。自分の髪ではない、もっと艶やかなものだ。呼吸を整えながら焦点を合わせると、葉が見えた。胸を強打したものに怖々触れてみると、ゴツゴツとした感触で枝だと悟った。
どうやら樹に落下し、枝に引っかかったようだ。肌は、葉で切ったのだろう。
「どうし、て」
アサギは、低く呻いた。
一体ここは、何処なのか。天界城から下界へ堕ちたとは、到底思えない。トビィの過去へ飛んだ時のように、球体に触れて飛ばされたことは、なんとなく把握した。
最後に見たのは、綺麗とは言い難い真っ赤な惑星。その惑星へ落ちたのかと考えたところで、激痛が全身に走った。
「ひぐっ!」
大きく仰け反り、籠るような痛みに歯を食いしばる。
痛みが和らぐまでここにいようと、バランスを取りながら辛うじて身体を支えてくれている枝にしがみついた。思ったよりそれは細く、折れてしまわないか不安になる。
『アサギ様! ようこそお越しくださいました、お待ちしておりましたよ』
幻聴かもしれないが、話しかけられた気がした。
瞳を閉じ、樹に身体を委ねる。昔もこうしていた気がするが、いつのことだろうか。木登りをして遊んだ記憶はないが、木の上で寝ていたような気もする。
『こんなところで寝ないで、木の上にしてよ! 危ないよ』
「危なくないよ、大丈夫」
誰かの声に返事をすると、口元が緩む。
「木登り。……怖くて、逃げた時もあった」
下にいる
「恋人……ううん、違う。恋人と呼べる人なんて、最初からいなかったと知ったから泣いてた」
残酷な現実を突きつけられ、逃げ隠れた。いっそのこと消えてしまいたいとも思った、けれど。
「とても悲しくて寂しくて、怖かった。けれども、私は」
そう口走ってから、戸惑いの色が浮かんだ瞳を開く。ぎこちなく上半身を起こすと、小刻みに身体を震わせた。
「……今の、何?」
困惑し、口元を押さえる。
つらつらと昔話を語ったように思えたが、知らない。
ミノルから逃れる為に、木に登った事はない。街中で、ミノルと知らない美少女のキスシーンを目撃し、その場から動けず立ち尽くしたのは先日のこと。
けれども、愛しい誰かから逃れたくて隠れた記憶がある。
しかしあれは、ミノルではなかった。
「どういう、こと」
頭を押さえ、震えが意味をなさない声となり唇から漏れる。
「ひぎっ!?」
脳内を鈍器で叩かれるような激痛に襲われ、のたうつ。
「い、痛い、痛いっ!」
痛みを取り去るため治癒魔法を唱えようとしたが、集中できない。激痛は激しさを増すばかりで、幾度か胃のものを吐き出した。喉を掻き毟り、頭を引きちぎって痛みから逃れたい衝動に駆られる。
暴れたためにバランスが崩れる。地面に叩きつけられたほうが楽かもしれないと思い、救いを求めるように枝から手を離した。
アサギは、痛みに侵食された脳を手放すことを選択した。もしくは、全身に激痛が走れば頭痛が薄れるのではなかと思った。
それほどまでに、苦痛だった。
「痛い、よ」
アサギの身体は、地面に吸い込まれていく。空中に、自分の涙が浮かんでいるのが見えた。涙を通して見る空は、空と呼べるものなのか分からないほど濁っている。
「ええぇ、何」
声がした。
身体にずしんとした衝撃が走るが、痛くはない。
ただ、頭痛が和らぐことはなくアサギは身悶え続ける。内部で引っ掻き回され、何も考えれらない。このまま、死んでしまうのではないかと思った。
勇者なのに、頭痛が原因で。
「っ、ぅ、い、ぃあぁ」
小刻みに痙攣しながら額に汗を浮かべ、苦痛から眉間に皺が寄る。
「っ、は、ぁ、ぅ! んぁ、ひぅっ」
身悶えるアサギを抱き締め、凝視している男がいる。ゴクリ、と喉が鳴った。
「い、や、い、たぁっ! いたっ、や、あぐっ」
苦悶の表情は、実に扇情的。知らず恍惚の笑みを浮かべ、激痛に喘ぐアサギを見つめる。この表情を知っている気がして、興奮し観察している。痛みを堪えるその姿に、下腹部が疼く。
「可愛い子。ねぇ、オレの為にもっと啼いて。そして、顔を歪ませ愉しませて」
木の葉が動いたので何がいるのか興味本位で見つめていたら、人が降ってきたので慌てて抱きとめた。声をかけるのも忘れ、身悶えるアサギに魅入った。
「あぁ、すごくそそられる顏。ねぇ、もっと近くで見せて」
「んっ、い、ぁ、いった、あ、ん、んぁあっ」
「うん、イイ声だ」
血走った瞳で熱っぽくささやく男の名は、トランシス。欲情丸出しで、アサギの温度と重さを確かめ続けた。あまりに軽いその身体に、同じ人間かと疑う。
けれども、そんなことは今はどうでもいい。首筋からふわりと立ち上る香りに、眩暈がする。それは、心を和ませる一方で痴情に溺れそうになる不思議なものだった。
「見つけた……捕まえた」
無意識のうちにそう呟いたトランシスは、介抱するわけでもなく、ただアサギを食い入るように見つめている。
「可愛い。とっても、可愛い。もっと、もっと乱れて。オレの為だけに」
熱に浮かされた声で囁くと、溢れてきた涙に舌を這わせ吸い取る。その瞳には、残虐な光が宿っていた。
「ようこそ、オレの女」