血は甘美な麻薬に似て
文字数 4,345文字
奇妙なことに、木から落下してきた美少女。豊かな黄緑色の髪は見惚れる程美しく、苦痛に歪む顔は悩ましく、身体つきは扇情的な魔性の魅惑で溢れていた。
何を痛がっているのか分からないトランシスは、髪一本一本すら惜しむように眺めている。穴が開くほど全身を見つめていたため、露出した肌にかすり傷が多々あるものの、大きな外傷はないことは把握していた。
全てが美しく、そして愛おしく、自分のモノにしたいと思った。願望の女を具現化したら、彼女になるだろうと。
よって、痛みを取り除いてあげたいと思うものの、この情欲を揺さぶる姿に見惚れてしまう。自慰を見せつけ、こちらの気を惹こうとする女たちには慣れている。けれど、あんなものは陳腐だったとせせら笑う。目の前にいる極上の女を見てしまった以上、戻れない。
「全てが、オレのためにある」
トランシスは顔を軽く歪め、三回目の欲望を吐き出した。
ようやく、一息つく。若干冷静さを取り戻し、改めてアサギを見つめた。
抱きとめた瞬間、負荷はかからなかったことを思い出し首を傾げる。一瞬浮いてから、自然と腕の中に入ってきた気もした。まるで、吸い込まれるように。
「不思議な子だな……」
見つめていたら、また官能が刺激された。上気した頬で眺め、額に優しく口付ける。汗に混じる塩分と、男を狂わすような匂いにあてられ喉を鳴らす。
『おかえりなさい!』
不意に脳内で、誰かが微笑み手招きしている映像が流れた。
柔らかな声と、美しく細い指、それは常に傍にあったもの。記憶の片隅に残っていたその映像を、以前も見た気がした。
「なんだ……?」
振り払うように首を大きく横に振ると、まだ痛がっているアサギを覗き込む。頬にじんわりと朱い血が滲み、白い肌に映えていた。葉で切ったのだろう。
「あぁ、可哀想に。こんなに愛らしい顏なのに傷が」
喉を大きく鳴らし、吸い寄せられるように頬へと顔を近づけた。躊躇うことなく舌を出し、肌に触れる。微量な血に舌先が触れると、体中に衝撃が走る。仰け反って見上げた空は、灰色から紺碧に染まったようにさえ思えた。
口から摂取したそれは沸騰しているように熱く、一瞬にして身体中を駆け巡った気がする。脈が大きく動き、心拍数が上がっていく。
中毒になりそうなほど、心地良かった。絶頂を迎えた直後のような、そんな感覚に陥った。
「ッハァ!」
顔が悦楽に歪む。だらしなく開かれた口から舌が現れ、余韻に浸るように蠢いている。
人の血が、こんなに美味いとは知らなかった。甘くて、蕩ける。
「血液? いや、こんな……」
流石に他人の血を嘗めたのは初めてだ。咽返る鮮血を目の当たりにしたことはあったが、あの時のような嫌悪感はない。生臭さを感じないそれは、どこまでも清らかなもの。
トランシスは小刻みに震え、食い入るようにアサギを眺める。傷口を求め、他に怪我をしていないか探した。見慣れない衣服を身に纏っているが、そこは問題ではない。
露出した二の腕に幾多の傷があるが、血が滲む程ではなかった。けれども充血した眼で、貪るようにそこに吸い付く。噛み千切るように傷口を作って血を求め、強引に舌を動かす。先程の味を欲して、狂気の沙汰で次から次へと傷口に舌を這わせた。
それは、禁断の秘薬のようなもの。一度口にしたら忘れられず、快楽の虜になる。
二の腕から、指先へ。丹念に舐め続けていると、血液程ではないが汗も美味い事に気づいた。甘酸っぱいそれを求め、匂いが強い首筋に顔を埋める。
音を立てながら愛撫するように吸い付いていると、身体中に力が漲ってくる気がした。
「なんだこれ、人間のカタチをした食べ物?」
鎖骨を丁寧に舐め、存分に味わう。服の上からでも解る胸の膨らみに下品な笑みを浮かべ、顔を埋めた。
「すごくイイ匂いがする……」
それだけで絶頂を迎える事が出来そうで、慌てて右手を動かす。四回目の射精後、流石に気怠いことに気づく。飛び出ていた逸物をしまい、アサギの匂いを堪能すべく両腕で抱き締め引き寄せた。
「ん……。ん、くすぐった」
首筋に、吐息がかかる。ねっとりとした何かが、行き来している。アサギは違和感にうっすらと瞳を開き、霞む風景の焦点を合わせようとした。気を失っていたらしいが、頭痛はどうにか治まっていた。温かく柔らかなものに包まれているような気がして、安堵の溜息を吐く。
「んにゃっ?」
気を許したところで、全身に鳥肌が立った。背筋がゾワゾワして、皮膚が引き攣る。何が起きているのか解らず硬直していると、荒い息遣いが耳に吹きつけられ、耳たぶを柔らかな唇で挟まれる。
「ひぁっ!?」
大きく身体を揺らし赤面すると、腕から逃れようともがいた。
暴れるアサギにようやく気づき、我に返ったトランシスは力任せに抱き締める。
「チッ、起きた。まだ愉しみたいのに……」
大事な玩具を奪われた子供のように、トランシスは純粋に苛立った。
「大人しくしてて、木から降ってきた子。君を助けたのは、オレだ」
「あ、ありがとうございま、す。ですがあの、あの、苦しいで、す」
トランシスは加減を知らず、アサギを抱き締めている。潰れてしまうくらいに、強く。腕の中にいることを実感し、
押さえつけられ苦し紛れに声を出すアサギだが、逆に力が増した。圧迫され、鋭い悲鳴を上げる。
「やぁっ、たすけっ! くるしっ」
懇願はトランシスの耳にも届いたが、嬉しそうに瞳を輝かせただけだった。
「本当にイイ声で啼くね。君、何者?」
強引に顎を掴むと上を向かせ、恐怖に涙しているアサギの瞳を覗き込む。怯えるその大きな瞳に映る自分は、大袈裟な程に失笑していた。
こんなに愉快そうに自分が笑えることを、知らなかった。
「怖がらないで、オレは優しいよ?」
震えているアサギの瞳に熱を帯びた息を吹きかけると、長い睫毛が揺れる。
「ぅ、うう……」
戸惑うアサギの頬を優しく撫で、蔑むように囁く。
「これが好きな癖に。もっと構って、虐めてって言ってる。……オレはそれを知っている」
そうして、自然に唇を塞ぐ。驚いて眼球が零れ落ちるほどに目を見開いたアサギを、意地悪く見つめ返す。
互いに瞳を開いたまま、唇が触れ合った。
『この唇は、オレのもの。だから、絶対に他の誰にも触れさせないで。オレも触れさせない。解る?』
それは、昔のこと。
気が遠くなるほど遠い昔、言った言葉と、聴いた言葉が二人に蘇る。
「はむっ」
「ん、んんっ!?」
唇に触れた柔らかく温かいものが、目の前の見知らぬ男の唇だと気づくのに時間を要した。いや、状況を受け入れることに時間を要した、のほうが正しい。アサギは、瞬きする事も出来なかった。
綺麗な紫銀の髪が揺れ、透き通るような不思議な光を放つ濃紫の瞳から逸らせない。年上の男に抱き締められ、首筋を舐められた挙句、キスされているらしいこの状況。
アサギは唇を塞がれたまま、盛大な悲鳴を上げた。
「ふぐっ、き、きゃあああああああああああああああああああああああっ」
口から息と悲鳴が勢いよく吹き出ると、驚いたトランシスが顔を離す。
自由になったアサギの唇から、悲鳴がとめどなく流れ出した。
高音のそれに顔を顰めたトランシスは、その唇を今度は手で塞ぐ。
「あああああああむ、むぐごごごご」
「うるさい、静かにしなよ。叫ぶの止めるなら、この手を離してあげる」
若干怒気を含んだ声に、アサギは思わず声を止めた。何度か瞬きをしたが小刻みに震えながらも、恐る恐る小さく頷く。
その様子に安堵の溜息を吐き、ゆっくりと手を離したトランシスは大きく肩を竦めた。
「あぁ、びっくりした。まさか口づけくらいで叫ばれるとは思わなかった、このオレと口づけしたい女は夥しい数いるってのに。光栄に思わない?」
大人しく聞いていたアサギだが、憤慨し顔を真っ赤にした。そうして、涙目になりながら思いをぶちまける。
「口づけくらい、ってそんな! わ、私にとっては大事なことなんですっ。キスは! わ、私は、最初のキスは彼氏とするって決めていたのです! 絶対絶対、彼氏とするのですっ! そういう、大事なものであって、
「キス?」
キス、という単語を知らないトランシスは首を傾げた。けれども、話の流れから口づけのことだと解釈し、物珍しそうにアサギを見つめる。初耳の単語を告げた少女が何者なのか、今頃気になり始めた。
「あ、あああ、あぅ!」
しかし、唇をこすり泣き出したアサギを不愉快そうにトランシスは睨みつける。露骨に嫌がられ、興醒めだ。ボリボリと頭をかき、あからさまに舌打ちする。
「やかましい女だな……」
「は、初めてのキスは、大好きな彼氏、と。……私の、ファーストキス。う、うぅっ」
アサギは大粒の涙を零しながら、痕跡を消すかのように皮がめくれるほど擦り続ける。
少女漫画で何度も読んだ、幸せな結末の恋物語。主人公の少女が大好きだった人と目出度く両想いになり、口づけを交わして最終回を迎えるもの。
「う、うぇ、うわぁん……。わ、わたし、の、ふぁーすと、きす、ふ、ふぇぇえ」
嗚咽を漏らし、泣き止まないアサギに流石に罪悪感が湧いたトランシスは気まずそうにそっぽを向いた。
「そんな、たかが口づけ程度。唇を合わせただけだろうが」
舌は入れていないが、唇を挟み甘噛みをした。よって、唇を合わせただけではない。
「あー、もう、面倒な奴」
困惑し舌打ちすると、思い立ってアサギを優しく抱き締める。
「ごめん、知らないとはいえオレが悪かった。だから責任をとる。今から、オレが君の彼氏になろう。未来の彼氏と口づけたということで、どう?」
驚いたアサギは必死に抵抗を試みるが、耳元で囁かれた言葉に唖然とした。あまりにも突拍子のない提案に、涙すら止まる。絶句して、彼の顔を見上げる。
「ねっ。それで手を打とう」
悪びれた様子もなく、飄々と言って微笑んでいる姿を何度も瞬きして見つめる。言われた意味を考え赤面し、小刻みに振るえた。恥ずかしいのではなく、怒りが芽生えた。馬鹿にされているとしか思えない。
「そ、そんな、酷い! 私は貴方のこと、知りませんっ。彼氏というのは好きな人のことですっ」
「オレのことを知らなくても、今から知ればいいし。そもそも、知らなくても好きになればイイだろ? 何か問題が?」
無邪気に笑われ、眩暈がした。
「そんな身勝手な! 第一、名前も知らない人なのに、彼氏だなん」
「トランシス」
捲し立てるアサギの口を手で塞ぎ、子供をあやすように名を告げる。
「オレ、トランシスっていうの。……で、オレの彼女の名前はなんていうのかな?」