世界の浄化を望む者
文字数 2,678文字
タイは軽やかに宙に浮くと、口笛を鳴らした。大地が揺れ始め、やがて地鳴りが聞こえたかと思えば転がるように漆黒の巨体が山頂からやって来る。
三つの頭部を持つ犬、地獄の門番ケルベロス。
鎖に繋がれており陣の手前までしか来れず、前足で地面を引っかいた。
横たわっている人間達を炎が燃えているような禍々しい六つの瞳で見据えたケルベロスは、鼻息荒く涎を垂らす。三つの口から這い出た舌が人間を絡んで引き寄せ、待ち侘びた餌に齧りつく。
歯が身体に突き刺さったところで、文字通り引き裂かれるような痛みに目が覚めた人間達は、腐敗臭のするその口内で悲鳴を上げた。それは呆気ない断末魔で、すぐに人間達は喉を通って腹の中に入っていく。
全ての人間を平らげると空腹が満たされ、甘えた声を出しながら宙に浮かんでいるタイを見上げる。ケルベロスは、満足して尾っぽを振った。
「もう少ししたら、腹が裂けるほどに食べられる。待っておいで」
優しく語り掛けられ軽快に吼えたケルベロスは、再び山頂へと戻って行った。巨体が消えていくのを見送ったタイは、山脈から最も近い人間の村を見つけるとそこに降り立つ。
貧相な村で、際立った建物などない。入口に姿を現したタイを最初に見つけたのは子供で、背に純白の羽を持つその美しい男を「天使様だ!」と、純粋に信じ近寄った。
その姿に嘲笑しつつも、タイは駆け寄ってきた子供達に囲まれながら穏やかな笑みを浮かべている。
やがて大人達も集まり、その煌びやかな装飾品と神格がある杖を所持している姿に思わず地面に平伏した。
そんな人間達を得意げに見下ろしたタイは、静かに頷いた。この時ばかりは、忌々しい羽根すらもあってよかったと思えた。浅はかな人間は、美しいだけで自分達の味方をしてくれる神だと思い込んでくれる。
「聞くがよい、人間よ。あの山脈に禍々しい魔物が住んでおる、一度怒り狂えばこの村はおろか近隣の国など瞬時に火の海と化すであろう。口から吐き出される業火と、鋭い爪の前に誰もが恐怖し死を願う。封印されていたが、今、世界は混沌へと傾いた。均衡が崩れ、その封印が解かれようとしている。……再度の封印には生贄が必要だ、出来るだけ若く柔らかい子供や娘らを贄とせよ。雨が降る月明かりのない晩に、祭壇へ捧げるのだ。さすれば、この村は無論、世界も平和に保たれる。捧げなければ、瞬時にこの村は破壊されるであろう」
村から離れた場所を指差したタイは、それだけ告げるとその祭壇の方角へと向かった。騒然となる人間達を尻目に、口角を上げてゆっくりと進む。
指定した先は、ただ木々が刈り取られただけの空き地。陣が地面に画かれ、周囲に色取り取りの花が植えられているだけで祭壇とは言い難い。
しかし、天空から目立たないようにするにはこれしかなかった。大きな建造物を作ってしまうと、神が目ざとく見つけてしまう。不器用で愚鈍な人間でも作れそうな、簡易だが奇怪で異様な雰囲気を醸し出し、恐怖心を駆り立てられる場所ならば見た目はどうでもよかった。
近くの木々に身を潜め、人間達を待つ。暫くして蒼褪めた人間達がやって来ると、その空き地を唖然と見つめている。耳を傾け、話声を聞いた。
「今の御方は天使様じゃろうか。では、生贄を選定せねばならん」
「物の怪の類では? 嘘やもしれん。子供らは村の宝、簡単に差し出せるものでは」
「しかし、生贄を出さねば村が破壊されてしまう」
「大変なことになった……」
聞き入れなければ村人全員が一瞬でケルベロスの腹の中に入るだけなので、タイ的にはどちらでもよかった。だが、生贄として自ら餌となってもらえたほうが、神の目を欺くことが出来る。抵抗する者がいないからだ。
人間は、どうするだろうか。多少の興味と共に、タイはほくそ笑む。
二日後、その土地に雨が降る。しとしとと、普段よりも陰鬱な空気が漂う中、村人達は生贄を差し出した。
今回送られてきたのは、娘。特に際立って美しくもない平凡な娘だ、取り柄がないのだろう。早い話、見捨てられたのだ。生贄になり名誉の死を受け入れよと脅迫に近い説得を受けたに違いない。
覚束無い足取りで進み、泣きながら陣へと向かう。震える足で陣の中心に立つと、その姿が掻き消えた。
娘は転送先の山頂の一角で、悲鳴を上げる前にケルベロスに丸呑みされる。
タイは陣の付近に珍しい貴金属を煌びやかな布に包んで置き、その場を離れた。
「ご苦労、人間ども」
その顏には、酷薄な笑みが浮かんでいる。
翌朝様子を見に来た村人数人は、置かれていた高価な物に歓喜した。欲に目が眩み、皆で顔を見合わせその場で分配する。村に戻ると『娘はいなかった』とだけ報告し、置かれていた物の事は一言も発しなかった。
タイの予想通りの反応だ。
誰しもが、自分が可愛い。自分と無関係の人間が消えたところで、痛くも痒くもない。汚い欲を嫌という程見てきたタイにとって、朴訥な村の人間らを手玉にとることは容易い。持ち帰った宝を各々隠し、秘密を共有してしまった。
やがてその数人の村人は、雨を願うようになった。生贄を差し出せば、また宝が置いてあるかもしれないと思い始めたからだ。自分達は男だから、生贄には選ばれない。自分達は死なずに、良い思いが出来る。
毎回ではなかったが、タイは気が向くと“人間達が隠し持って帰る事が出来る”宝石の指輪など、小さな物を陣の近くに置いておいた。
こうしてこの村は、徐々に子供や娘が減っていった。
子を抱えている親は抵抗したが、村の為だと皆でにじり寄った。それでも首を縦に振らないと、家族ごと生贄にされてしまった。
それを見ていた他の家族は夜のうちに逃亡を試みたが、呆気なく捕らえられやはり生贄になった。
子供がいなくなったので、仕方なく余命少ない老夫婦が生贄にされた。どうせ死ぬのだから、未来ある者達の役に立ってくれと意味不明な説得で老人達は消えていく。
やがて村は村長一家と報酬を受け取っていた男達だけとなり、口論が起きてその村で皆死に絶えた。
廃村に佇んだタイは肩を竦め陣を消すと、「やれやれ、醜悪な」と率直な感想を述べた。そして、似たような村を見つけると、同じように説き、再びそこで生贄を要求した。ケルベロスの腹を満たす為と、滑稽な人間達を嗤う為に。
しかし、誤算があった。微々たるものであったが。