外伝7『埋もれた伝承』11:虚しい願い
文字数 7,202文字
「なっ」
遅れて、トリュフェの顔が大きく歪んだ。嫉妬と憤怒で胸が焼け焦げる。ブスブスと音を立てて、真っ黒い炭と化す。
「アミィが
冷めた瞳を向けたトロワは、優しく唇を重ねる。親猫が子猫をあやすように、丹念に愛情を込めて舐める。
「可哀想に、こんなに傷をつけられて」
身体を小刻みに震わせ、懸命に呼吸を正そうとしているアミィの髪を撫でた。
「怖かったろう。痛くないか?」
困惑しているアミィは、頷く事も、首を振る事もしなかった。ただ、何が起きているのか分からず懸命に考えているように見える。
「アミィ。村には戻れない。……
唖然としているトリュフェの目の前で、トロワはアミィを抱いた。
乱暴に身体を貪った兄とは違い、優しさを籠めて、丁寧に。
「愛してる」
唇から零れる嬌声は、ジンと脳に響く。甘く重たく、緩やかに興奮を押し上げる。
アミィは恥じらう事を忘れ、ただ波のように襲い掛かってくる快楽に戸惑いながらも声を荒げた。甘い吐息が肌に触れるたびに、身体が疼く。小刻みに震え、薄桃色から赤を帯びる艶かしい肌を撫で上げられると、より一層声がもれた。
先程と違い、あまりにも甘くて蕩けそうな愛撫だった。
恍惚の表情を浮かべるアミィを間近で見つめ、トロワは幾度も耳元で囁いた。
「愛してる。……こんな状況で伝えるつもりはなかった、許せ」
これは、トロワの誤算だ。
「オレは、アミィを裏切らない。一生添い遂げると誓おう。アミィがオレを選ぶならば、必ずそれに応える」
喘ぎ続けるアミィは、その言葉を聞いているのか。ただ、華奢な身体を何度も痙攣させ、為すがままにされている。
言葉は、届いていないかもしれない。
「アミィ、どちらか選べ。いや……オレを選べ。アイツの言葉を聞いただろう、他の男にアミィがどんな扱いを受けても構わないらしい。オレは嫌だ、愛する女がオレ以外に触れるなど、耐えられない」
何度も口付けながら洗脳するように囁き続ける。
「二人で静かに暮らそう。オレは、アミィを愛し続けるッ」
トロワの顔が、歪む。耐えるように唇を噛むが、荒い吐息が零れた。
「アミィ、どちらか選べ。オレか、アイツか。共に生きたい男の名を呼べばいい」
選べと言うのに、口づけが止まらない。
まるで、どちらの名前も
うっすらと瞳を開き、アミィの様子を窺っているトロワには解っていた。呼びたい名はどちらか知っている。
しかし、アミィはどちらの名も呼ばないだろう。いや、選んでしまえばどうなるか解っているから、呼べないのだ。
「おいっ、いつまでそうやっているつもりだっ」
傍観していたトリュフェが、肩を震わせ間近に迫ってきた。水滴を蒸発させるほどの怒りを身体に纏っている。
「自分以外の男がアミィを抱いても、平気なんだろう?」
アミィに聞かせるように、飄々と話しかける。
酷く顔を歪めたトリュフェは、唇を震わせるだけで何も言わなかった。追い打ちをかけるために、トロワは続ける。
「お前はアミィを愛していないんだろう? この心地良い身体を貪ることが出来ればそれで構わない、それだけだ。腹が減ったら食べるように、性欲を満たす為にアミィを犯したいだけ。違うのか」
挑発しても微動だしないトリュフェに、トロワは若干の苛立ちを感じていた。まさかここまで愚劣な男だとは思わなかった。沈黙は肯定としてよいのだろうか。憐れむような瞳で一瞬だけ彼を見て、アミィの耳元で囁く。
「アミィ。こんな男を夫とするのか? アミィがいなければ他の女で快楽を満たすだろう。飢えに苦しみ窮地に立たされたら他の男にアミィを与え、食物を貰う事すらやってのけるだろう。双子の兄ながら情けないが、コイツはそういう男だ」
一呼吸置いてから、耳の奥底に言葉を残し呪縛から逃れられないようにするために告げる。
「オレを選べ、アミィ。愛している」
濡れた指先でアミィの顎を優しく持ち上げると、覗き込んで微笑む。トロワの瞳には、有無を言わせぬ強さがあった。
情欲を掻き立てられる繊麗な背中を虚ろに眺めていたトリュフェは、自らの太腿に両手の爪を突き立てた。プツ、と音がして、麻の衣服が破れ皮膚に突き刺さる。赤い血が、ぷっくらとそこから吹き出した。
敗けを認めたくない、しかし、二人の間に割って入ることが出来ない。
十の傷から、澱んだ血が流れ出す。『愛してる』トロワのその声を聞く度に、心が少しずつ欠けていく。
「オレだって」
トリュフェは、
耳の奥で『もう駄目だ、諦めよう』と声がする。『アミィの口からトロワの名が零れる前に、先手を打たねば』と嗜められる。『心が砕ける前に、行動しよう』と。
「オレだって、愛、してる」
気弱に呟く。
何度も練習していた言葉が、今頃になって飛び出した。身体だけ欲しかったわけではない、求婚するために想いを募らせていた。
「愛、してる」
夜這い当日にアミィと想いが通じたら、二人で逃げるつもりだった。花のような笑顔で微笑み、「私もです」と言ってくれることを何度夢見ただろう。
何処から壊れたのか。
「裏切られたと、思ったんだ」
自分にしか届かない忍び声は続く。肉に深く突き刺さる爪は、血の流れを止めない。
「争った形跡がなかったから……アミィも同意して二人で逃げたと、思ったんだ。オレの知らないところで、二人は」
愛シ合ッテイルト、想ッタンダ。
唇がそう動いた。潤いを失くした喉は、声を送り出せない。
アミィは、言われた通りに果実酒とじっくり煮込んだスープを用意していた。だが、トリュフェがそれらに気づくことはなかった。見ていたら、彼女の気持ちに気づけたかもしれない。
双子の弟と愛した女が共謀し逃亡したと勘違いしたトリュフェは、愛憎の念に駆られた。それは堪えようがなく、這い上がろうとしても押し潰される滝壺のようだった。何処までも、沈み続けるしかない。
深淵は、光すらなく澱んでいる。
そこから、覚えてない。ただ二人が憎くて、浮かれていた自分の不甲斐なさが情けなくて、恥ずかしくて馬鹿らしくて、彷徨い続けた。
ここへ辿り着けたのは奇跡でもあるし、執念。馬が通った形跡と糞を見逃さず追い続けた。また、クレシダと共に育ったトリュフェの愛馬が匂いを記憶していたことも幸いした。
虚ろな瞳で地面に目を落としているトリュフェに、トロワは眉を寄せる。
アミィがトリュフェを愛していることも、トリュフェがアミィを愛していることも、トロワは知っていた。
かといって、やすやすとアミィを渡したくない。
アミィを攫い、トリュフェが追って来るまでは想定内。そこでアミィへの想いを示したら潔く身を引こうと思っていた。心の何処かでそれを信じ、それが一番最善だと言い聞かせていた。自分も、けじめをつけられる。
祝福できると。
けれどもその一方で、トリュフェが来るまでにアミィの心が自分に傾いてくれたら、その時は全力で愛を注ぎ、愛し合えるように努力するつもりでいた。
だから、まさかこんな状況に陥るとは思いもしなかった。トリュフェがアミィに手を出さず、自分に怒りをぶつけるのを望んでいたのに。
目の前で呆けている双子の兄にかける言葉も見つからず、トロワはアミィを抱き締める。
「アミィ。……今どうしても選べないというのなら、このまま三人で放浪する手もある」
何気ない提案だったが、予想に反してアミィが大きく反応した。艶めいた表情で見上げられ、胸が高鳴る。しかし、半開きになった唇から漏れた言葉にトロワは憂えて憤慨した。
「そうか……だろうな」
アミィの唇の形が、脳裏に刻まれる。
軽く自嘲し、トロワはアミィの髪を撫でる。あれだけ想いを伝えても、届かない。解っていたことだが、現実を受け止めるのが辛い。
何故アミィがこうもトリュフェを求めるのか、トロワには理解出来なかった。
今にも折れそうな華奢な肩に顎を乗せ、トロワは瞳を閉じる。舞い落ちる木の葉の中、馬で駆け抜けた逃亡劇がひどく遠く懐かしいものに感じた。
暫し身を委ねていたかった。夢の続きを、見ていたかった。
「トリュフェ。お前が来ないなら、アミィはオレが貰う。三人で旅をするか、覚悟を決めろ」
感情を押し殺した緊張状態で、口を開く。永遠のものになるかどうかの賭けに出た。
本心を吐露するならば、自分で提案したそれを破棄したい。けれども、トロワは諦めた口調で話しかける。もし、トリュフェが拒否するのならば今ここで決着がつく。アミィが悲しむことになろうとも、早いか遅いかの違いで何れ別れはくるだろう。
口を閉ざしたままのトリュフェに落胆し肩を落としたトロワは、アミィの身体から自分を引き抜いた。小さく声を上げて腰を震わせたアミィに物悲しそうな視線を送ると、膝の上で抱きしめる。
「怖かったな、こんな場所で思いを伝える予定ではなかった」
「……あの、二人は、私に怒っているの? どうして、こんなことを」
疲れ切った声で問うアミィに、トロワは嘆息する。
「これが夜這いの内容だ。お袋は話さなかっただろ」
「え……?
当惑するアミィは瞳を泳がせる。悦びとは到底結びつかない行為だったように思える。しかし、確かにトロワの時は微かな痛みに混じって、例えようのない感覚が全身を貫いた気がする。
「本当ならば、想いを告げ優しく寝台でことに及ぶものだ。最初はどうしても痛いものだから。……すまない、アイツが暴走したせいで」
未だに微動だしない兄を一瞥し、項垂れる。
「これから、どうなるのでしょう」
風で木の葉が揺れる音が響く。
「何処かの村でアミィの衣服を買わねば。その恰好では」
「そ、そうだね……」
視線を追って露わになった肌に気づき、アミィは赤面した。
倦怠の色が、三人を薄雲のように包んでいた。
最初に動いたのはトロワで、慌てて布を引き寄せアミィに被せる。今更だが、目のやり場に困った。
「食欲はあるか? 焼くから、少しでも齧れ」
大人しいアミィに苦笑し、慣れた手つきで兎を捌く。木の枝に刺して炙ると、旨そうな香りが周囲に漂った。
二人の腹が鳴る。
すると、互いに笑みが零れた。
「いただきます」
アミィは命の恵みに感謝し、差し出された肉を頬張る。殺めたなら体内に取り入れ、糧とするのが自然の中で生きるものの礼儀。
正直、腹は空いているが胃の中が掻き混ぜられたようで気持ちが悪い。だが、三人での食事は嬉しかったので必死に食べる。
「おい、お前はどうする」
呆けているトリュフェに声をかけたトロワは、面倒そうに頭を掻いた。
「一本残しておく。特別だ、食いたいなら食え。どうせ村を出てから何も口にしていないんだろ」
項垂れているように見える背中に、一応告げた。
アミィが小さく笑うので、怪訝にそちらを見る。
「何かおかしいか?」
「トロワはやっぱり優しいなぁ、と思って」
「やめろ」
不機嫌になって肉を齧るトロワを、アミィは瞳を細めて見ていた。
「貴方は、……
聞こえないように呟いて、膝を抱える。先程は二人の行為に驚いたが、それよりも夜這いの内容に驚いた。
「つまり、夜這いとは
アミィは色々と思案したが、疲労感が勝りすぐに深い眠りに落ちた。
愛らしい寝息が聞こえ始めると、トロワが知らず深い溜息を吐く。赤や青の光を放ち静かに燃えている火を見つめながら、艶やかな髪を撫で続けた。いつまでこうしていられるか、分からない。
神々しいばかりの太陽が昇ると、重くなってきた瞼に抗うことが辛くなり、トロワも瞳を閉じた。
心地良い転寝に身を委ねていると、静寂の中で何かが聞こえて瞳を開く。
それがトリュフェの啜り泣きだと気づくのに、時間を要した。小刻みに肩を震わせ、力なく首を前に垂れている姿がとても貧相で不憫に見える。
夕日が、彼を柔らかく包んでいた。
一瞬にして目が醒めたトロワは、躊躇った。自分の腕にもたれていたアミィをそっと地面に寝かせ、近づく。
「なんで、だろうな。何故いつもオレは、肝心なところで間違えるんだろう。どうしてお前みたいに突き通せないんだろう」
はっきりと聞こえたその声に、トロワは足を止める。
歯車が軋むような音を立てながら、トリュフェが振り返った。涙で溢れる瞳が、トロワを捕える。
二人の視線が交差すると、トロワの喉からヒュッと風が飛び出した。胸を引き裂かれたように、痛む。その憫然たる姿からは、先程傍若無人に振る舞っていた男が想像出来ない。
「愛して、るんだ。オレも、アミィを、あいして、る」
涙を零しながらそう告げたトリュフェは、仄かに光を灯した瞳をアミィに向ける。
慈愛に溢れた優しい眼差しに、トロワは息を飲んだ。
……コイツ!
両の足を刀で貫かれた気がして、トロワはその場に崩れ落ちる。胸を押さえ、乱れた呼吸で見上げた双子の兄の姿はとても神々しい。
それこそ、先程まで空を独占していた太陽のように。
苦渋をなめさせられたと、確信した。自分よりもアミィを愛している男だと、認めざるを得なかった。
この想いは誰にも負けないつもりだった。報われなくとも、想い続ける自信は今もある。
だが、何故だろう。兄の愛の深さに打ちのめされた。
双子だから同調できたのか、錯覚なのか。ピリリと肌が引き攣り、押し潰されそうなほどに重苦しい感情が流れ込む。
「トロワ、もし」
泣きじゃくる幼子のようにゆっくりと近づいてきたトリュフェは片膝をつくと、唇を噛み締め忌々しそうに睨んでいるトロワの肩に手を乗せる。
「もし、
「なんだって?」
言われた意味が解らず、口元を腕で拭う。震える足に叱咤して立ち上がったトロワを追って、トリュフェも立ち上がった。
二人の紫銀の髪が、風に揺れる。
出番を待ち、こちらを覗いている星たちが二人を見据える。
「お前なら、きっとオレを止めてくれる。信じている。オレは、心の奥底で、僅かな希望の光を閉じ込めて、待っている」
「意味がわからん、お前がおかしいのはいつもだろ」
髪をかき上げ狼狽する自分を隠すようにそう告げたトロワに、トリュフェは儚く微笑んだ。
「言い方を変えると、
最後の言葉は、掠れていた。
両手で顔を覆い、再び泣き出したトリュフェに戸惑いつつもトロワは見守った。演技ではないかと疑いをかけたが、違う。
これは、本心だ。
「
キィィ、カトン。
ぐるぅん、と星が転ずる。
何か喚きながら、流星が幾つも夜空を駆け抜けていく。
ヒュンヒュンと音を立てて、空がぶれた。
「なっ!」
眩暈を憶えこめかみを押さえたトロワは「違う」と言葉を漏らす。錯覚かと思ったが、足元が揺れている。
幻覚ではなく、これは現実だ。
「……いいよな、お前は。いつもアミィに信頼されて。ホント、羨ましいよ。イイとこどりだもんなぁ、媚びへつらって、嫌われないようにしている。どこまでも、胸糞悪い奴」
背筋が凍り付くような声に、反射的にトロワは身を翻した。皮膚に鋭い痛みが走り、庇うように後ろに隠す。舌打ちし小刀を引き抜くと、緊張して目を皿のようにした。
喉の奥で嗤いながら、刀を振り回しているトリュフェがこちらを見据えている。
その瞳には、光がない。虚ろなそれは、石のように冷たく意思がないように思えた。しかし、うっすらと口元には笑みを浮かべ、するべきことは定まっているようだ。
「トリュフェ?」
声をかけるが、戻ってきた反応は振り下ろされた刀だった。
「トリュフェっ!」
普段ならば難なく避けられる筈だが、動揺したトロワの分が悪い。腕の痛みも伴い、足元がふらつく。尋常ではない体力の消耗に、身体中から汗が吹き出した。
おそらく、毒が塗られていたのだろう。
徐々に麻痺して感覚が消えていく左腕に、血の気が引いた。右腕一本で目の前の男とやり合うのは無謀だ。
「しっかりしろ、トリュフェ!」
ククククク、と地の底を這うように嗤い続けるトリュフェを目の当たりにし、先程の意味をようやく理解した。
『「言い方を変えると、
今がまさにそれだと痛感する。
トリュフェは感情を隠さない、それは昔から知っている。ある意味純粋で、思う通りに行かないと自棄を起こす子供のよう。
しかし、目の前のトリュフェは皮を被った別人に見える。何者かに意思を乗っ取られら、言葉すら通じない別次元の生物に思えた。
「一体何がっ」
刀同士がぶつかり、火花が散る。押されているトロワは、それでもアミィの近くへ寄らないように懸命に誘導した。
鳥肌が立つ。
『「もし、
「厄介な頼みごとをっ」
トロワは歯を食い縛った。
「目を醒ませ、トリュフェ!」